2015年09月08日

跡取り娘の経営戦略   No1

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浅野屋3代目 浅野まきさん 

2007年3月30日、三井不動産が六本木防衛庁跡地に開発した東京ミッドタウンがオープンした。開業1カ月の来場者は480万人、ゴールデンウイークは9日間で150万人、平日でも12万人が訪れるという人気スポットだ。その一角、六本木交差点から乃木坂に向かって歩き、ボッテガベネタを通り越したガレリア1階に人気のパン屋、浅野屋東京ミッドタウン店がある。オープン当日や連休中は、1日に1400人ものお客が訪れたこともあるという。

ガラスのショーケースにはこんがり焼けたデニッシュが並び、パンを求める客が常に列を作っている。奥には本格的なピザ釜のあるブラッスリーもあり、午前4時まで営業している。東京ミッドタウン店開業までの間、文字通り東奔西走していたのが、今回の跡取り娘、2006年7月に浅野屋代表取締役社長に就任した浅野まきさん(38歳)だ。 軽井沢に旧道店、白樺台店、信濃追分店、東京には自由が丘店、松屋銀座店、東京ミッドタウン店と6店舗を構える浅野屋。

夏季営業の軽井沢店では、レーズンパン「軽井沢レザン」を求めて並ぶ観光客の姿が夏の風物詩にもなっている。私が小中高と通っていた母校が四谷にあるが、この校舎の裏にかつての浅野屋本店があり、購買部にも納入されていた。浅野屋は、10代の私の旺盛な食欲を満たしてくれた、懐かしいパン屋さんでもあるのだ。生地がふんわりとして、おいしかった記憶がある。今から30年も前の話だ。 しかし、母校近くの小さなパン屋だった浅野屋が、軽井沢に大きな店舗を構え、デパ地下にもどんどん出店していくのを見て、大躍進の秘密はなんだろう、とずっと不思議に思っていた。今回の取材で、浅野屋の興味深い歴史を跡取り娘の浅野さんに初めて教えてもらった。

浅野屋の歴史は古く1933年にさかのぼる。意外にも、パン屋としては軽井沢店が事始めだった。「祖父の浅野良朗は石川県から16歳で東京に来て、食料品店に11年間勤めてから、麹町に浅野商店を開業しました。戦前から軽井沢で、在日大使館や外国人の食糧配給所を外務省から委託されていたのです」と浅野さんは言う。 現在地価が高騰している別荘地軽井沢を拓いたのは、外国人宣教師。外国人のためにパンを売ったのが、浅野屋軽井沢店の始まりなのだ。

祖父は食料品店を中心に商売をしていたが、父の浅野耕太はパン製造業に力を入れた。1976年に四谷店を開業し、2つのパン工場を作った。それが、私の学生時代の思い出の浅野屋だったのだ。1979年、浅野さんが10歳の時に、38歳の父はブランジェ浅野屋を設立し、四谷店はブランジェ浅野屋四谷店となった。 浅野さんの古いアルバムを見せてもらうと、幼少期の写真に交じって懐かしいセーラー服の制服を着た姿があった。浅野さん自身も私の母校の後輩で、幼稚園から入学したのだ。浅野屋は、彼女が在学中、学校指定のパン屋さんだったそうだ。

「父は新しいものを取り入れるのが早い人でした。スペインのサラゴサのファルファス社の石釜とか、天然酵母のパンなどをいち早く導入しました。小さなパン屋の頃から、機械も妥協せずにいいものを使い、手作りと機械のバランスのいい、おいしいパンを作れるようにしていました」 浅野屋の歴史を追っていくと、バブルの1983年から急速に拡大していく。軽井沢にレストランを作り、夏季営業から通年営業に。また四谷にビルを建て、深川工場を稼働し、ホテルやレストランにパンを納入するようになる。その頃の浅野さんは清泉女子大学の体育会テニス部の元気な女子学生で、91年に丸紅に入社し、華やかなOL生活が始まった。

 

 

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2015年09月07日

銀座曙 No5

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「未来を大きな長いスパンで考えるのは父や男性にかないませんが、細かくスケジューリングして目標に近づくのが私のやり方です」と細野さんは言う。部下に対して大雑把にしか指示を出さない男性社員を見ると、イライラすることもあるという細野さん。「もっと丁寧に指示してあげれば、できるのに…と思いますね」 2007年で社長就任3年目を迎える細野さんだが、今後の目標としているところは?「弊社は90円から商品があるので、和菓子を通じて100円で“日本”を体感できるんです。すごいと思いませんか? 

若い世代にも和菓子の素晴らしさを伝え、心を満たされるような時間をつくるお菓子を売っていきたい。日本文化に根ざした、世界に誇れるようなブランドにしよう、と主人といつも話しています」最近は洋のパティシエが和の素材を使って作ったわさびチョコレートや、抹茶、和栗、紫芋のケーキなどを見かけるようになった。こうした洋の世界の攻勢には、どんなスタイルで対抗していくのか。洋を取り入れる路線もあるのか、という問いに、細野さんはきっぱりと首を振った。「洋菓子が和テイストになったからといって、逆は絶対にしたくないのです。

私たちはあくまで和でいきたい。ただ、若い人にも気軽にカフェで“和のデザート”感覚で食べてもらえるようにはしていきたいと思っています」例えば玉川高島屋SCの店舗で出す、「究極の寒天」を使ったデザート。寒天を龍泉洞(岩手県)の水で煮出して極限までゆるい寒天を作り、その上に秋ならカボチャ餡をカボチャの形にして載せる。とろけるような食感と和菓子らしい季節感が好評だ。今は、寒天と小豆と砂糖ともち米だけで作る「究極の最中」を開発中だ。厳選された素材でよりシンプルに。

細野さんの理想の和菓子は和のミニマリズムを目指しているようだ。食器やお茶にもこだわった和テイストのカフェの運営が、当面の夢だという。「私は、商売熱心だった祖母に似ていると言われます」と細野さん。銀座あけぼのは、祖父と祖母が焼け跡から銀座、赤坂、浜町に立ち上げた。祖父は相当変わった人だったそうで、お客が「こういうものを探している」と言うと、「じゃあ、明日までに仕入れておきます」と言って工夫して作ってしまう。三つの大豆を海苔で巻いた「山海豆」という商品がそれである。

米菓も始め、当時からバームクーヘンも売っていたという、新進気鋭の人だったようだ。しかしこの祖父は、細野さんが7歳の時に亡くなっている。細野さんの思い出の中では、祖母の姿が鮮やかだ。「一緒に銀座に行ったり、よく母と3人でお雛様のあられを混ぜたりしました」 「後継とは一種の文化」という言葉が、野村進さんの『千年、働いてきました 老舗企業大国ニッポン』にある。この本によれば、老舗の後継者は「跡継ぎになれ」と言わなくても、3世代、多世代同居をして祖父母や両親を見て育つと、自然に後継者になっていく文化があるのだという。

細野さんと会って、この本の言葉がとても腑に落ちた。細野さんのような後継者が、女性だからといって排除されることなく、これからは続々と誕生していくのも一つの文化になっていくのではないか。跡取り娘を取材していくうちに、そんな気持ちを強く持つようになった。「…いろいろな社員がいるけれど、みんな今いる位置からレベルアップしていけるよう、心がけています」という細野さんの言葉は、女性管理職らしい。

そしてまた、細野さんが最初に働いた工場で障害のある人を雇用したのは、細野さんの母親の発案だと言う。「3歳下の妹がダウン症なのです。妹がちゃんと働けるような場所をつくろうと、母が中心になって銀座あけぼのの中に障害者の働ける工場をつくりました。今は父個人が、社会福祉法人も立ち上げています」 たとえ能力差があっても、誰にも働く場所があって当たり前。そんな家庭で育まれた細野さんだからこそ、「明確に具体的に細かくフォローし、誰もがその仕事ができるようにする」という発想につながるのではないか、と感じた。

細野 佳代(ほその かよ)
1964年東京生まれ。4人兄弟の長女。玉川学園大学卒。卒業後、祖父が興した「曙」に入社。工場のスタッフから始まり、たまプラーザ店店長、企画室長、営業部長、商品本部長を経て、2004年11月に父親である社長から代表取締役社長に任命される。

 

 

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2015年09月06日

銀座曙 No4

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女性活用も進めている。本社スタッフ50人中半数が女性。細野さんがビジネスの中心に参画してから、目立って女性社員が増えた。「そもそも私がいた販売企画は全員が女性でした。弊社くらいの規模で社員を募集すると、優秀な女性がたくさん応募してくれます。女性パワーを活用することが、中小企業には不可欠なのです」 成績優秀なばかりではなく、女性には粘り強さがあると細野さんは指摘する。

また、多くが男性という職人さんの懐に、するりと入り込むような仕事をするには、商品企画を女性が行うのが有利だ。時には気難しい職人さんたちと、うまく話をつけてくる女性が多い。 お菓子好きな人が多いのも、女性の大きな強みだ。「私も仕事というだけでなく、お菓子が大好きです。小さい頃から、父が持って帰ってきたお菓子を食べながら『これはおいしいね』などと意見を言い合うのが、我が家の一家団欒でした」と細野さんは言う。

「面接の時に、お菓子が大好きという情熱を感じさせてくれる人がいますが、ほとんどは女性です。ただ、まれに男性でも『お菓子オタク』というくらいお菓子好きな人が入社してくることもあります」。銀座あけぼのは以前から、「自社製造のおかきは、宮城県産の宮黄金餅米しか使わない」という原産地主義を貫いている。「うちではそれが当たり前だと思っていたので、商品に原産地を表示してきませんでした。祖父の代からのこだわりですが、江戸っ子というのは、あえてこういったことを言わないのです(笑)」 ところが最近は他社の製品で、原産地をアピールするのが流行っている。そこで、「江戸っ子の粋」には反するが、銀座あけぼのでも原産地の表示を始めたそうだ。

そうしないとお客に「何も書いていないから、外米を使っているのかと思った」と言われてしまうからだ。これまでの跡取り娘への取材では、「跡を継いだものの、古参の役員とうまくいかない」という話を聞くこともあった。若い社長になった彼女に、障害はなかったのか? これについては、父が母の看病のために出社しなかった間、既に細野さん自身が会社を切り盛りしていた経緯もあり、「思ったよりも社内の受け入れはスムーズでした」という。

先代の父のやり方に真っ向から反発するのはだいたい男性で、私の知り合いの老舗の跡取り息子も、20代の頃は家を出たり商売を立ち上げたりし、家族との確執の末、今は家業に戻って落ち着いている。それに比べると女性の跡取りは、周囲とうまく折り合っていくタイプの人が多いようだ。無用な争いを好まない、女性ならではの「協調路線」なのだろう。また、大学卒業以来銀座あけぼの一筋のたたき上げでもある細野さんへの、周囲からの信頼も厚いのだと思う。

「しかしただ父の言うことを守るだけでなく、それ以上の結果を出さないと認めてもらえないことは覚悟しています」。では、細野さんと父親のビジネススタイルは、どう違うのか。 例えば春のディスプレーの企画が決まると、父親は「春らしい感じで」というイメージを伝えるだけだったが、細野さんの場合は「店舗のこのスペースにこの商品を置いて…」とシミュレーションを重ね、具体的な形に落とし込む。「具体的に明確に細かく指示していけば、どんな社員でもできるようになる。

自分から発案する社員、指示待ちの社員、いろいろな社員がいますが、みんなが今いる位置からレベルアップしていけるよう、心がけています」 木目細やかなフォローで“底上げ”していく、というのは、女性管理職が得意とするところだ。今期の企画や収益目標なども、細かいスケジューリングで指示していくことで、社員にも「そこに向けて自分はこう動こう」という自主性が生まれる。こういった具体的で明確な彼女の指示は、社内でも歓迎されている。

 

 

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2015年09月05日

銀座曙 No3

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理由は、日持ちしない商品だったこと。敬老の日に、直接祖父母に会いに行ける人ばかりとは限らず、遠距離で送りたい人もいる。しかし賞味期限が当日だったため、お客が買い控えしたのだ。 ヒットした商品もある。夏に出した商品で、シロップの中に梅、抹茶、漉し餡の3種類の水饅頭が浮いている「浮き浮きまんじゅう」だ。「ディスプレーから広告まで、すべて自分でやった商品が売れた。珍しく、コピーなどは外注して力を入れた商品なので、こんなにうれしいことはなかったです」と言う。

細野さんが30歳の時だった。実は、この大ヒット商品の広告コピーを担当したのが、細野さんの今のご夫君である。企画室長になった後すぐに、営業部長も兼務となった。企画室も人手が足りず、新卒や中途採用で、社員教育も一から行った。たった1人だった企画室のスタッフは、今では8人になっている。 銀座あけぼのは、3週間でディスプレーを替える。さらに定番商品のリニューアルを行い、新商品も多い時で1年に5〜6個は出す。多忙な日々の中、34歳で結婚。しかしその頃になっても、「結婚したら、会社を辞めてもいいかなと思っていたんです」と、あくまでも仕事に欲がなかった。

しかし、夫はコピーライターなので、自宅で仕事をする。そうなると、細野さんは外で働く方が夫婦としてはバランスがいい、と仕事を続けることになった。 さらに結婚3年目で、夫はあけぼのに入社することになる。「私が仕事の話をすると、夫はブランディングの専門家なので、あれこれと意見を言ってくれるのです。でも、口で言うのは簡単だけど、実際にやるのは大変なのよ…、といつの間にか口論になったりして。そんなこともあり、結局夫は会社に入ってくれたのです」。しかしこの頃になっても、細野さんには「自分が将来の社長」という意識は全くなかったと言う。

2004年11月、父である社長と蕎麦屋で昼食を取っていた細野さんは、突然こう言われた。「この後の役員会で、来期からお前を社長にすると言うから」。早すぎる引退のように見えるが、「この年の2年前に、母が亡くなっていたんです。父は、母が病に倒れてから1年ぐらいは、面倒を見てやりたいと言って会社にはほとんど出てこなかったのです」。 役員会の席で初めて妻が社長になると聞かされ、細野さんの夫も驚いた。

「主人や弟を社長にすることもできたのですが、何よりも『お菓子屋ということで、女性がいいと思った』と父は役員会で言っていました」と細野さんは言う。「私は商品部長、企画室長、営業部長、店舗も工場も全部経験しています。
また、銀座の商店会でも『社長の娘さん』ということで馴染みがあり、かわいがってもらえるなど強みもあると思ったのでしょう。主人がいて私を支えてくれるからと私を表に立て、『夫婦、兄弟みなで会社を盛り立ててほしい』と言い、父は本当にすっぱり引退してしまいました」

さて、跡取り娘はどういった経営戦略を取ったのか。まず細野さんは、2000年からインターネット上のショッピングサイト「楽天市場」に出店して、銀座あけぼのの商品の販売を始めた。「これは、社員からやりたいという声が上がったものです」ネット通販は、販路拡大だけでなくマーケティングにも利用できる。「新商品を開発するのに1年はかかります。日持ち、安全性、輸送に耐えられるかどうかのテストや、社内での試食なども行います」。また、楽天市場を通じてメルマガ会員となっている「あけぼの顧客」約1000人からモニターを募集して100人ほどにサンプルを送って試食してもらい、アンケート調査も始めた。

細野さんは店舗の社員300人に小さなノートを持たせ、お客からの声を漏らさず書きとめてもらっている。「部長だけの会議では、リアルなお客様のニーズから離れてしまうこともあります。社員一人ひとりのノートから、今何が必要とされているかが分かるんです」 父親が社長の時代は「カリスマについていく社員」が求められた。しかし自分の代になってからは、何でもスタッフと話し合って決めていくのが細野さんのスタイルだ。300人が提出するノートには、きちんと返事を書いているという。

 

 

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2015年09月04日

銀座曙 No2

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細野さんは「父親も、新しい発想をする人でした」と言う。例えば、おかきにチーズを入れた商品を開発したのも父親だ。「邪道と言われるようなことをやって、それをうまく商品として成功させるカリスマ性が、父にはあったのです」 「でも父は何も私に教えてくれませんでしたね。ほったらかしで、自分で考えて行動するしかない。当時は、父に冷たくされていると思っていました」。しかし、工場に配属した娘が思わぬ熱心さで仕事にはまっていくのを見て、カリスマ社長はひそかに「してやったり」と思っていたのかもしれない。

細野さんは25歳の時、新しい直営店舗、たまプラーザ店の店長になる。細野さんは、新店舗の立ち上げから関わった。菓子の包装は、小さい頃から手伝っているので慣れている。しかしアルバイトを雇ってシフトを組み、一店をすべて仕切るのは予想以上に大変だった。「毎日店を開けて、閉めるまでで精一杯でした」

店舗には喫茶スペースも併設していた。アルバイトを含めて5〜6人で切り盛りしていたが、朝アルバイトから「今日は行けません」と突然電話が入ったりする。接客に追われ、気がつくと喫茶部門のスタッフが誰もいず、焦ったこともあった。
「衛生管理士の資格は工場にいた時に取っていたので、ほかにスタッフがいない時は、お客さんの注文した品を私が自分で作って出すことも、しょっちゅうでした」 

細野さんが25歳の頃といえば、巷はバブルの真っ盛り。彼女の友人たちは華やかな日々を過ごしていたと思うが、細野さんは「3年間、毎日朝の7時から夜の9時まで働き続け、店を閉めると翌日のスタッフのシフトを考えたりしていて、11時頃になることもありました。休みは全くなし。当時は、友人の結婚式があるとやっと休みが取れる、という感じでした」 しかしこの頃の細野さんには、辛いという気持ちはなかったと言う。むしろ、お客と間近に接する楽しみを強く感じた時期だった。

「本当にこの仕事が好きだったんでしょうね」 「ただ、私のあまりの忙しさに、さすがに父もかわいそうと思ったのか、ある朝私が早くに出る時に、急に時計をくれました」。父親は無造作に「あげるよ」と時計を差し出したという。多分娘への精一杯の、そして不器用なねぎらいだったのだろう。しかし細野さんは内心、「そんな時計をくれるより、スタッフを増やしてほしい」と思ったとか。しかしもちろん、「社長」に面と向かってそんな要求はできない。父親でもあくまで社長だ。

その頃は既に、細野さんの意識は「銀座あけぼのの社員」になっていた。27歳で、企画室に異動となる。店舗ディスプレーや商品企画などを担う、同社の花形部門だ。しかし「私が入った時は、年配の室長が1人いるだけでした。父の代は、各店舗のディスプレーに関しては、『次は、春らしい感じでやるぞ』と大雑把な号令をかけるだけで、詳細は各店の店長任せだったのです」 季節のキャンペーンや新商品発売の際も、全店舗で統一したキャッチコピーやポップを作るという発想がなかった。

開店日や新商品発売の時に昔からつき合いのあるデザイナーが出向いていき、その場で手書きの看板を描く、という状態だった。企画室に異動して1年後に細野さんは室長になり、いよいよ自分の発想で商品企画や宣伝を担当することになる。現在のように、統一したディスプレーを全国100軒の店舗で一斉に行うスタイルは、細野さんが始めたものだ。 自分で企画した商品に思い入れはあるが、大失敗もあった。

「敬老の日に『ますますこれからまんじゅう』というのを企画したのです。枡の中におまんじゅうを詰めた商品でした」。祖母や祖父に「これからも、ますますお元気で」という意味合いを込めたもので、社内でも「これは当たる」と好評だったが、うまくいかなかった。

 

 

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2015年09月03日

銀座曙 No1

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http://www.matsuya.com/m_ginza/about/ginza/details/111005_01.html

「銀座あけぼの」といえば、おなじみの和菓子屋。各地のデパートの地下にある店舗でも知られている。お中元やお歳暮で届く、あられの詰め合わせを思い浮かべる人もいるかもしれない。築地育ちの私にとっては、三愛ビルの隣にある「気になる和菓子屋」だ。おいしそうな季節の和菓子をディスプレーしていて、通るたびに目をひかれた。 イチゴの季節にはイチゴをふんだんに使った和菓子が売られ、餡子がたっぷり入っていそうなふっくらとした大福が山と積まれている時もある。

和菓子の老舗というと、見本が宝石のように飾られていて、しんとして入りづらい店が多いのだが、あけぼのの店はいつもポップで元気な印象が強い。銀座の店頭は、いつでもお客でいっぱいだ。 今回の跡取り娘は、2004年11月に銀座あけぼのでおなじみの曙の社長に就任した、細野佳代さん。祖父が銀座で興し、料亭などに和菓子を卸していた老舗の3代目になる。「初めは、社長になるつもりは全くなかったんですよ」と柔らかな笑顔で言う細野さん。

取材当日は黒いパンツスーツで現れたが、着物でも着ていたら、おっとりした老舗のお嬢さんというイメージそのものだ。「大学卒業後、しっかり仕事をするつもりはあまりなかったのです。銀座あけぼのに入社したのも、結婚までの腰かけのつもりでした」。しかし実際は、大学を卒業してからずっと銀座あけぼので働いている、和菓子業界20年のベテランでもある。 細野さんは、銀座あけぼの2代目社長の長女として生まれ、幼稚園から私立の玉川学園に入る。

しかし、あまりにおっとりした娘の性格を心配した母親が、「このままでは先行きが心配」と、公立の小学校に転校させたそうだ。高校と大学はまた玉川学園に戻り、教育学部を専攻した。 しかし教育実習で小学校1年生を受け持った細野さんは、ある子供が問題行動を起こす様子を見て、行き詰まる。「こういった子たちに私がしてあげられることがあるのだろうか? これを仕事にするのはキツイ、と思ってしまったんです。

あとから考えたら、仕事の厳しさはどこでも一緒だったんですけれどね」。どうしても教師になりたかったというわけでもなく、厳しい就職活動をすることもなく、進路はすんなり銀座あけぼのに決まった。20人の新入社員とともに入社したが、両親は決して細野さんを甘やかさなかった。 入社した新人の配属先は本社か店舗だったが、細野さんの行き先は工場だった。16人の社員のうち、障害を持った人が半分という小さな工場だ。入社1日目から、細野さんはショックを受ける。

ほかの社員はみなベテランなのだ。卵を割る作業ひとつとっても、細野さんはみなに全くかなわない。「仕事をなめていた。これは頑張らなくては、と思いました」 早くほかの人に追いつきたいと奮起するあたり、細野さんは本当に素直だったのだと思う。可愛がられて育った「お嬢様」が会社に入ったら、1日でいやになる人もいるかもしれない。しかし細野さんにとって、工場は楽しい職場だった。 2人でペアを組み、1日に作るお菓子の量はざっと30万円分。

これらがちゃんと流通に乗って売れていくさまを見て、「私は、世の中の人においしいと思ってもらえるものを作り出しているんだ」と細野さんは初めて思った。 仕事の楽しさに目覚めると今度は、「このお菓子をもっとおいしくするには?」「もっと売るためには?」と試行錯誤するようになった。ついには、新作を持って関東圏の70店舗を訪ね歩き、営業するまでになった。これまで、こんな社員はいなかった。当然店舗の反応も様々だった。

「社長の娘だから話を聞いてやるか、という態度の人もいましたし、こんなものは売れないとつき返され、泣きながら帰ったこともありましたね」。ちなみに、この時の新作菓子は、しっとりタイプのマドレーヌ。細野さんの母親が得意だったお菓子である。今では、ハート型のマドレーヌ「銀恋」として、商品化されている。 「和菓子の新作がマドレーヌ?」と思う人もいるかもしれないが、もともと銀座あけぼのの和菓子は、斬新なものが多いというのが私の印象だ。

 

 

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2015年09月02日

なぜ、人は「セブン-イレブン」に行きたくなるのか?

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http://diamond.jp/articles/-/77559

1店舗あたりの売り上げが 他社より2割多い理由
経営においては「徹底」がとても大切です。皆さんもよくご存じのコンビニ業界を例に出し説明しましょう。小さな行動を「徹底」し、「継続」したことで、競合他社との業績を大きく引き離しているのが、セブン-イレブンです。セブン-イレブンは、現在、日本国内に約1万8000店舗ありますが、1店舗あたりの毎日の売り上げが、他のライバル店に比べて2割も多いのです。毎日2割違うのです。セブン-イレブンが約60万円台なのに対し、他のコンビニチェーンは50万円台前半のところがほとんどです。

でも、考えてみればけっこう不思議です。どのコンビニに行っても、本や雑誌が並び、日用雑貨が用意され、お菓子や食品、飲料が並ぶコーナーがあります。「どこで買っても似たようなもの」になってもおかしくないですよね。コンビニエンスストアでは、成功のためのキーワードが4つあると言われています。「品揃え」「鮮度」「クリーンリネス(店の美しさ)」「フレンドリーサービス」で、この4つがキーワードであることはどのコンビニも十分に承知しています。そして、それを実行している。

でも、売上高には歴然と差があるのです。
セブン-イレブンのおにぎりって他のコンビニよりもおいしいと思いませんか?以前、同社の役員さんから聞いた話ですが、おにぎりのお米は主に魚沼産のコシヒカリを使っていますが、バイヤーが田んぼの日当たりまで確認し、業者がお米を炊くときも米の芯の温度までチェックしているそうです。サンドイッチもそうです。私は、セブン-イレブンの「シャキシャキレタスサンド」というハムとレタスのサンドイッチが好きなのですが、その名の通り、レタスのシャキシャキ感が、他のコンビニのサンドイッチとは全然違うと思います。すごくおいしい。

おにぎりにしてもサンドイッチにしても、他のコンビニにも同じようなモノは売っている。でも、ちょっとしたことが全然違うから、お客さまは「セブン-イレブンのおにぎりやサンドイッチだから食べたい」と思い、他店より少し遠くても、セブン-イレブンまで足を延ばしてでも買いたいと思う人が出てくるのです。これは、商品に限ったことではありません。お店の前に置いてある灰皿も、店長がマメにチェックしているせいか、セブン-イレブンは他のコンビニよりもきれいになっていることが多いように思います。

毎週欠かさず、継続することの大切さ
実は、セブン&アイ・ホールディングスでは、イトーヨーカドーの店長会議を週1回、セブン-イレブンのスーパーバイザー会議を本社で週1回行っています。私の会社は、同社本社の目と鼻の先にあるのですが、毎朝、7時過ぎぐらいに会社の最寄駅に着くと、週に2回は同社の社員の団体を見かけます。彼らは、毎週欠かさずに会議を行っています。おそらく、20年以上1000回以上は行っていると思います。一見ムダなように思えますが、実際に顔を合わせることで、トップや仲間同士の考え方を直接共有し、それを小さな行動などや商品、サービスなどに具体化させやすいのです。やはり、「お客さま第一」を実践している会社は、小さな行動を「徹底」し、かつ「継続」しているのです。

セブン&アイ・ホールディングスは、みんなで顔を合わせて会議を行い、お客さまのために、より良い商品やサービスを提供するには、何をすべきか話し合う必要性を感じているのだと思います。毎週1度、会議を行うという「行動」を1年、5年、10年と続けることで、「お客さま第一」の意識が芽生えることを、同社は、20年の経験から知っているのです。でなければ、全国から店長やスーパーバイザーが毎週欠かさずに本社に集まることなんてできません。ましてや、続きません。それを続けることの大切さを知っているからです。

やり続けるというのは難しいものです。週に1回、会議を開くことならどの会社でもできますが、それを5年、10年と続けることができないのです。他の小さな行動も同じです。続かないのです。

「行動」「意識」「徹底」「継続」が 会社を変える
これが、おにぎりやサンドイッチのおいしさ、店員の接客態度、品揃えの豊富さ、お店の清潔度などの違いになって現れるのです。もちろん他社のコンビニだって、これらの要素がなってないとは思いませんし、セブン‐イレブンのお店の中にも十分でないところも実際あります。しかし、心を込めてお客さまに接しよう、できる限りお客さまの要望に応えられる品揃えを心がけよう、どのお店よりもきれいにする気持ちで掃除するという「行動」と、それに伴う「意識」は、やはり、セブン‐イレブンで働く社員は「徹底」され、かつ、「継続」しているのだと思います。

コピー用紙の紙の厚みはわずか、0.1mm程度。でも、それを100枚分積み重なたら、けっこうな厚みになりますよね。セブン&アイ・ホールディングスが行っている週に1回の会議や各お店で行っている小さな行動も同じです。たかが、週に1回。でもそれを積み重ねたら100回になり、1000回になります。その1000回は、厚みならぬ「重み」になるのです。だから、セブン‐イレブンは日本のコンビニのトップを走り続けることができ、1店舗あたりの毎日の売り上げが他社のコンビニよりも2割も多いという結果にはっきりと表れるのです。

小さな行動を徹底することがとても大切なことで、それが大きな差になるのです。

 

 

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2015年09月01日

米ハーバード大が注目した日本の新幹線清掃会社「テッセイ」

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「7分間の奇跡」。
最近、米国CNN放送が日本の高速鉄道新幹線のある清掃会社を絶賛した言葉だ。「われわれはどうせ清掃する人間だ」という自嘲と敗北意識でいっぱいだった会社。しかし定年退任した後、白衣従軍したあるリーダーによって、今は米国ハーバード大経営大学院や中国清華大など世界各国から見学に訪れるほど名の知られたトータルサービス会社に生まれ変わった。新幹線が東京駅に到着して再び出発するまでの7分間に行われる清掃作業は外で演劇のように観覧できるようにし、「7分間の新幹線劇場」という別名までついた。奇跡の現場を訪ねて行ってみた。

先月20日午前11時。東京駅20番ホームに新幹線「なすの270号」が入ってきた。プラットホームの床に表示された黄色いラインの外側で、赤いユニホームを着た約20人が列を整えて新幹線を迎える。20代から50代まで幅広い年齢帯のこの人たちは、列車が近づくと頭を下げてあいさつした。 それぞれ肩には大きなカバンを掛けている。帽子は季節
に合わせて桜の花がデザインされたピンで飾っている。

列車が止まると、カバンから大きなビニール袋を取り出し、乗客が降りる出口に近づいた。「お疲れ様でした」。ビニールを開いて乗客にあいさつすると、乗客は手に持っていたゴミをビニールの中に入れた。

ついに下車完了。この人たちは列車に乗ると、「乗車準備中」という札を出入り口に掛けた。パフォーマンスはここから始まる。「7分間の新幹線劇場」と呼ばれるパフォーマンスは、他でもない新幹線の清掃作業だ。列車の中に入った人たちはJR東日本の清掃担当子会社「テッセイ(TESSEEI)」の職員だ。 しかしなぜ7分なのか。通常、東京駅に入った新
幹線がプラットホームに停車する時間は平均12分。

午前11時に到着した「なすの270号」も11時12分に福島県郡山に向けて出発する。12分間から乗客が下車する2分間と乗車する3分間を引いた7分間に10両または16両編成の新幹線をきれいに清掃するのがミッションだ。

取材チームも7号車に乗り、7分間の清掃ショーを“観覧”した。「まず長さ25メートル客室のうち通路を歩いて左右100座席をチェックする。座席前の網の中と椅子に残ったゴミを床に落とす→自動座席回転機で座席全体を出発方向に向ける→座席背もたれのテーブルを開いて汚物を拭き取る→この時に閉められた窓のブラインドは開ける→通路に集めたゴミを掃き取る。汚物があればぞうきんで拭く→汚れた座席カバーが見つかれば取り替える→上級者のOKサインが出れば作業が終わる」。

速やかな作業を携帯電話のストップウォッチで測定したところ6分30秒ほど。清掃を終えた7号車の担当者は「上級者のOKサインを待つ時間を除けば、通常5分30秒ほどで作業が終わる」とし「新幹線の配車が増え、客が多い休暇シーズンには4分以内にすべての作業を終えなければいけない」と話した。 11時20分発の岩手県盛岡行き新幹線「はやぶさ1
5号」に乗って時間を測定したところ、今度は6分20秒、別の新幹線も6分40秒と似ていた。

10両編成の通常の新幹線は1チーム22人、16両編成の新幹線には2チーム44人が担当する。東京駅では一日2交代で全11チームが午前6時から午後11時まで清掃作業の責任を負う。清掃すべき新幹線は一日平均110本、新幹線が追加で投入されるシーズンには160本を超える。

1チームが一日平均、新幹線20本を処理しなければならず、大変な業務だ。座席数は一日12万席、単純計算しても年間4380万席だが、顧客の抗議は年間5、6件にすぎない。矢部輝夫部長は「わずかに乗客の抗議があるが、そのほとんどが遅く到着したためJR東日本から『時間がないのでテーブルの清掃はするな』という指示が出た場合」とし「実際の抗議の比率はゼロに近いと見ればよい」と話した。

 

 

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2015年08月30日

西洋の近代工業化は佐賀山中にルーツあり No3

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http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/43800

お互いを刺激し合った日本と欧州
多くの日本人は、日本が西洋から近代工業を取り入れて今の発展を手にしたと思っているが、300年前にはドイツが日本の技術を必死で取り入れていた――。冒頭に触れた軸受の話も含め、私たちは日本という国のポテンシャルにもっと自信を持っていいのかもしれない。伊東先生のこの記事には、日本からヨーロッパへ、ヨーロッパから日本へ文化が交流することで科学技術が大きく発展していった歴史の中で、なぜか中国や朝鮮半島が取り残されてしまった理由にも考察が加えられている。ここでは次の2文を引用するだけにとどめたい。

「中国のお家芸は強力なイノベーションの展開よりも、商機を読んで廉価な製品を売り尽くし、あとに残るものが少ないといった形であるような気が私にはするのである」 「発想とビジネスにおいて優れる中国は、
同時に腰を落ち着けて本質的に強力な技術革新を成し遂げることに、必ずしも長けていない」 経済発展に伴って地球上で存在感を増している中国だが、本当に世界のリーダーになれるのか――に世界の注目は集まっている。
しかし、リーダーの資質として致命的な欠点が実はここにあるような気がしてならない。


さて、ドイツに伝わってマイセン陶器として発展する有田焼は、ドイツに真似された一方でありがたいお土産をもらうことになる。これについても伊東先生が書いている(「ドイツが有名にした世界の葛飾北斎」)(「現代日本の繁栄は、江戸時代の鎖国に源流あり」)。 その内容をかいつまんで説明すると、マイセンの近くにザクセン銀山という銀を大量に産出する貴重な山があった。そこでは銀を取ったあとに大量のごみの山ができていた。

ドイツの人たちは厄介なゴミだととらえていたが、東インド会社を経営し世界事情に長けていたオランダの人たちには宝の山に映った。そしてただ同然で買い取り、船に乗せて東へ東へと運んで行った。そのゴミは酸化コバルトが多く含まれていることをオランダ人は知っていたのだ。イスラムの国々ではガラスにそれを混ぜてステンドグラスとなり、日本では有田焼の藍色を出す呉須となる。まさに貴重な素材がドイツからもたらされたのだ。

それだけではない。葛飾北斎の有名な「富嶽三十六景」などは、このドイツからもたらされた酸化コバルトの顔料によって実現できたという。ヨーロッパ人を魅了した北斎の有名な絵の数々は、実はドイツの銀山のゴミが原料だったのである。佐賀県の山の中の小さな町に、世界史を変えるだけの力があったという事実は、何とも興味深い話と言えないだろうか。

 

 

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2015年08月29日

西洋の近代工業化は佐賀山中にルーツあり No2

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http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/43800

そして日本の輸出入拠点である長崎を押さえていた佐賀藩は、幕府に内緒の密貿易で有田焼をヨーロッパに輸出し多大な利益を得、これが幕末の反射炉や蒸気船、アームストロング砲などの技術革新につながったことも書いた。
しかし、有田焼が欧州でい人気を得たのは、中国、朝鮮半島の鎖国のおかげだけではもちろんなかった。有田では磁器の技術革新を短期間の間に次々と重ねていく。その高い技術がヨーロッパの人たちを魅了したのだ。

特に有名なのが有田で最も古い窯元の1つ柿右衛門の初代・酒井田柿右衛門が開発した「赤絵付けの技法」と呼ばれるものである。中国から朝鮮半島を経て有田に伝わった磁器は、その白さが特徴で白磁と呼ばれる。
素焼きにされたものに呉須(ごす)と呼ばれる黒い色をした顔料を使って模様を描き、その上に釉薬(ゆうやく=うわぐすり)をかけて本焼きすると、白い素材の上に藍色の模様が現れる。

呉須の主成分は酸化コバルトであり、1300度という高い温度で焼く過程で化学反応を起こしてコバルト特有の青い色を出し、白地に藍色の模様という伝統的な白磁製品となる。 ここまでは中国、朝鮮半島から伝わった技術だが、初代柿右衛門は、藍色の模様だけに満足することなく赤い色の絵付けを加えることによって、中国発祥の白磁の価値を一気に高めた。その模様と色合いがヨーロッパの人たちの心をとらえたのである。

柿右衛門の技はノーベル賞級
赤絵付けは、本焼きが終わって青い色の模様をつけた製品の上に赤い顔料を使って絵を加え、本焼きより低い700〜800度の温度で再び焼いて絵柄を定着させる。 2014年に3人の日本人が青色ダイオードの発明でノーベル賞を受賞したが、初代柿右衛門はこの時代のノーベル賞級の開発をしたと言えるかもしれない。発光ダイオードの場合は周波数の低い赤から高い青へ、白磁の場合は焼成温度の高い青から低い赤へ領域を広げたことによって・・・。

それはともかく、白磁に新しい息吹を吹き込んだ柿右衛門は、さらに赤だけではなく黄色や緑、さらには金色の絵付けも加えた。こうして中国伝統の素朴な白磁は、一気に色彩豊かで豪華絢爛な磁器となったのである。 
そして、徳川時代に唯一貿易が許されていたオランダの東インド会社によって1650年代にヨーロッパに伝わり、貴族たちの間で引っ張りだこの人気商品となり、有田焼は世界一流のブランドとなった。

さて、これまで有田焼と日本の歴史についてまとめると、次のような流れになる。中国・朝鮮半島から技術導入→佐賀藩で有田焼が誕生→ヨーロッパで飛ぶように売れ佐賀藩の財政を潤す→幕末に佐賀藩が真っ先に反射炉を導入し蒸気船やアームストロング砲を開発し明治維新のもう1つの立役者となる→明治維新後の日本の急激な発展の礎を築いた。しかし、実はこれとは全く別の流れが存在した。それは次のようなもので、これまた極めて興味深い。

ヨーロッパに伝わった有田焼は宝石のように扱われ憧れの対象だった→有田焼のコピーを何としても作りたいとドイツのマイセンの人たちが考えた→有田焼に遅れること約100年でマイセン陶器を生み出すことに成功→マイセンで陶器産業が発展→ドイツで窯業から化学、近代工業が発展する礎となる。つまり、ドイツが工業国家として発展する基礎は有田焼が作ったとも言えなくもないのである。これについては、東京大学の伊東乾・准教授がすでに書いている(「ドイツの近代工業は日本のレプリカから始まった」)ので、まだお読みでない方はご一読をお勧めしたい。

 

 

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2015年08月28日

西洋の近代工業化は佐賀山中にルーツあり No1

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http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/43800

有田焼について理解を深める意味もあって、これまで本題から脱線を重ね佐賀藩の歴史について触れてきた。しかし、アームストロング砲や反射炉などについて触れてしまったせいで、思わず"虎の尾"を踏んでしまったようである。 
戦時中、日立製作所で空母用のエレベーターを設計していた老父の目にこの記事が止まり、呼びつけられて潤滑の歴史について講義を受ける羽目になってしまったのだ。

第2次世界大戦末期、大砲や機関銃の弾などに銅合金が大量に消費されてしまい、日本国内で深刻な銅不足を招いた。その結果、様々な機械部品の軸受に使われていた砲金とよばれる銅と錫の合金が手に入りにくくなってしまったという。 この場合の軸受は、自動車や自転車などによく使われている金属球を使う転がり軸受ではなく、回転軸を金属製の円筒に通しその間に注油して軸受とするすべり軸受けのこと。船にスクリューを通す部分を想像すれば分かりやすい。耐摩耗性、耐浸蝕性、潤滑性に優れた砲金はこのすべり軸受けにぴったりだった。

技術者が考えた苦肉の策
一方で、幕末に欧米でも十分に普及していない段階で佐賀藩がいち早く開発・実用化に成功たアームストロング砲には砲身にらせん状の切込みがしてあり、弾が回転して飛び出すようになっていることは前に書いた。
このらせん状の切込みがある鋼鉄製の砲身内を弾が回転しながら進んで行く際にも、砲身を傷つけず、自らも傷ついて暴発しないためには、やはり砲金の優れた特性が必要だった。この結果、大砲や機関銃の弾頭の材料として大量に使用されることになり、第2次世界大戦末期にはついにすべり軸受けとして使う分にも不足するようになってしまったわけである。

困った技術者たちは別の金属で代替する方法を早急に考え出さなければならなくなった。しかも戦時中のこと、使える材料は限られている。そこで知恵を絞った結果生まれたアイデアが、鉄の鋳物を軸受に使えないかというものだった。鋳鉄は脆く耐摩耗性にも乏しいから、普通なら軸受に使おうなどとは考えない。しかし、鋳鉄には無数の巣(す)と呼ばれる細かい空洞がある。この空洞に鉛筆の芯などに使われるカーボンの粉を詰め込んだらどうだろう・・・。

カーボンの粒子は表面が滑らかで、いわば粒子一つひとつが転がり軸受の鉄球のような存在である。軸受に使えば滑らかな回転が得られるのではないか・・・。それに、カーボンの細かい粒子は油と同じような働きも期待できるので、
軸受に油を使わなくてすむのではないか・・・。 日本で実際に油を使わない軸受が実用化されるのは戦後になってからだが、当時、貴重な砲金が使えないためにこんな開発が進められていたというのだ。まさに必要は発明の母と言われるゆえんである。

ちなみに当時、米国は日本やドイツの戦闘機から迎撃を受けないように高度1万メートル以上を飛べる爆撃機(B-29)を戦場に大量投入していた。この高高度を飛べるようにしたブレークスルーの1つが潤滑だったと言われている。

シリコーンをすでに実用化していた米国
気温が摂氏マイナス50度にもなる1万メートルの高度では、常温でさらさらの油でも固くなってしまい潤滑油の働きができなくなる。このため日本が誇ったゼロ戦もB-29をなかなか迎撃できなかった。B-29にはこの時すでに、シリコーンを使った潤滑が使われていたという。さて、寄り道もこのくらいにして創業400年を迎える有田焼の話に戻る。朝鮮半島から技術が伝わった磁器の生産が有田で始まり、一方で中国と朝鮮半島が非常に厳しい鎖国によって世界市場から閉ざされた結果、有田焼が欧州で大人気商品となったことは前回書いた。

 

 

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2015年08月27日

時給8000円を稼ぐ「ビール売り子」の超仕事術 No2

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トップ売り子さんとの違いは何か?
売り子さんを長年研究している「売り子さんファンクラブ」に取材を続けた。すると、この「時給8000円」を稼ぐ売り子さんにはいくつかの特徴があった。というより、売るための戦略が徹底しているのだ。

@ 魚の目、木の目、鷹の目
彼女たちは、いくつもの目を持っている。近くにいる目の前のお客さん。先ほど買ってくれた少し離れた場所にいるお客さん。そしてこれからお代わりを頼みそうな遠くのお客さん。お客様に対する目線、目の届き場所を適宜変えている。
ビールを頼むお客さんを逃さずキャッチしている。もちろん、そのためには、試合の展開を読んだり、買ってくれたお客さんを覚えていたり、ビールを飲むペースを把握していることが必要だ。

A自分の“しるし”=特徴を魅せろ
売り子さんがお客様を見つけていくことは大事だ。しかし、それ以上に必要なことは、お客様から声をかけて頂くこと。そのためには、「選ばれるしるし」が必要である。トップの売り子さんは、実に様々な、個性的な“しるし”を用いている。例を挙げよう。

・髪飾りに、花のモチーフや、キャラクターを付ける

・名札に、手描きのPOPやイラストを加えて、特徴づける

・首に巻くタオルを、球団カラーと合わせる、巻き方を目立たせる

と、実に様々な方法を各自でアレンジしている。自分という売り子を覚えてもらい、また買ってもらうことを考えている。

B販売効率を高めるドミナント戦略
トップの売り子さんは、あちこち歩きまわって、広くお客様を集めているのか。いや違う。(そもそも、売り子さんによって販売エリアが区切られている。)トップ売り子さんは、あまり、広く歩きまわらない。これは、筆者もオドロキの事実だった。実は、彼女たちも歩き回わらずに効率的に売りたい。それはそうだ。重いタンクをあちこち、昇り降りしていては体力が持たない。ビールやガスの補充にだって行かなくてはならない。

ではトップ売り子さんは、どうしているか。自分からまた多く買ってくれるお客さんを、絞って固めていくのだ。あるプロ野球ファンが最初1回ビールを買うとする。その際に、周囲のお客様にも合わせて宣伝・営業する。「今日は○○チームが勝つといいですね!」と元気よく一声添えて。「今、ビールのタンクを替えてきたばかりだから、新鮮ですよ!」と大きな声で勢いを伝える。さらにAで紹介した「覚えてもらうための」特徴を必ず伝えて、魅せる。買ってもらったお客だけでなく、周囲5メートル四方のお客を、自分のファンエリアにしていく。

こうすると、「またあの娘から買いたい」「私も買いたい」「じゃあ、私も」という価値の連鎖が起こっていく。あちこちのお客様を刈り取るのではなく、あるエリアを集中的にファンにしていく。これは、コンビニエンスストアの出店政策、ドミナント戦略そのままだ。後は勝手に売れていく 話を戻そう。ドミナント化で固定のファンができた、エリアも
定着した。すると後は試合展開次第ではあるが、ビールは勝手にどんどん売れていく。いや、ビールが売れるというより、あの売り子さんから買いたくなっているだけか。

時給8000円を達成することは、並大抵ではない。しかし、トップ売り子さんが実践しているエッセンスは、われわれのビジネスにも必ず役立つ。そんなことを考えながら、野球場で楽しみたい。

 

 

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2015年08月26日

時給8000円を稼ぐ「ビール売り子」の超仕事術 No1

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「球場の華」が緻密に組み立てる3つの戦略
http://toyokeizai.net/articles/-/69901

5月も半ばを過ぎ、夏場のように暑い日も珍しくなくなってきたこの時期。プロ野球がいよいよシーズンの本格的な戦いに入ってきている。そんな野球選手と同じように、野球場で奮闘する娘たちがいる。ビールの売り子さんだ。正しくは、「立売スタッフ」という職業名である。プロ野球シーズンだけの季節限定のアルバイトだ。 「ビール、いかかですか〜?」元気のい
い声とともに球場の客席を上へ下と歩き回る彼女たち。艶やかな服装、屈託のない笑顔、キビキビとした対応。

一見すると、華やかな職業、仕事のように見える。「球場の華」といってもいいだろう。だが、そんな彼女たちは、現場の3つの苦労と戦っている。背負うだけでも一苦労 まずは、背中に背負うビールサーバー。
その重さは、15〜18キログラムともいわれる。この仕事に就いた当初は背負うだけでも、一苦労。スタジアムの通路を往復するだけで精一杯だそうだ。2つめの苦労は、急勾配なスタジアムの階段。野球場に行ったことのある方はご存知かと思うが、結構な角度の階段が上から下まである。

お客さんから手が上がれば小走りに駆け上がり、タンクのビールがなくなれば取り替えにバックヤードへ帰る。修行僧のように何度も何度も昇り降りするのだ。最後は天候。2月から始まるオープン戦の頃の寒い風。梅雨時の突然の土砂降り。夏の直射日光――。天候の影響をモロに受けながらも、懸命に販売している。暑くても寒くても笑顔でいなくてはならない。そんな過酷な販売現場ではあるが、ビール売り子さんのアルバイトは若い女性に人気の職業だそうだ。この人手不足の時代でも、人材集めにはそれほど困らないらしい。

歩合制により3時間で3万円稼ぐ売り子も
魅力の1つは、頑張った分だけ得られる、歩合制の給与システムだ。球場や契約している酒店にもよるが、給与体系は大きく分けて以下のような内訳だ。固定給=出勤したことによる手当。ごく少額(交通費500円という名称のこともある)

歩合給=1杯○円、1杯の販売価格の○%がフィードバックされる。販売杯数が増えていくと、歩合の単価が上がったり、ボーナスが支給される

連続勤務給=野球が3連戦でその3日間連続で出勤すると手当追加

皆勤ボーナス=毎月全試合出勤するとボーナス追加

こうした各種成果給が組み合わさっている。歩合給の世界と言われる給与体系である。では、一体この過酷な現場で、この給与体系で、「何杯売って」「いくら稼いでいるのか」。気になるところだろう。
最近、テレビでよく見かけるタレントの「おのののか」さん(プラチナムプロダクション所属)は、以前ビールの売り子さんだったという経歴がある。彼女も、以前は東京ドームで伝説的な販売結果を残したと有名だ。本人の発言によれば、彼女の公式記録は1日に400杯。筆者は、リアルな売り子さんへのインタビューやネットでの情報を探してみたが、400杯というのは、どうやら圧倒的な数字のようだ。

通常は、初級者は50〜80杯。1日100杯前後、これが経験者の中での“平均的な売り子”さんだ。結果、1日の報酬は、9000円前後。時給にすると、2,000〜3,000円となる。これが、各球場に数人は存在する、トップ売り子さんになると、200から多いときで300杯売る。すると1日に2万〜3万円稼げる。時給にすると5,000〜8,000円だ。これは、「とても」いや「かなり」高い給与水準ではないだろうか。月収、年収まで追ってみよう。

月に、12日(3連戦を4回、毎週金曜〜日曜)出勤するとすれば平均的な売り子さんは、月収10万8千円。これも悪くない。トップ売り子さんは、日収2.5万円とすれば、月収30万円だ!時給だと、大企業の役員クラスと遜色ない時給を叩き出していることになる。年収で比較すると、企業の主任〜課長と同じレベルなのだ。

 

 

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2015年08月25日

急激な円安進行が日本経済にもたらすリスク No2

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円安でかさ上げされる企業利益 連動して株価も上昇
円安傾向が進むことによって、海外からの旅行者が大幅に増加しており、旅行者がわが国で落としてくれるお金は、見逃すことができない景気の下支え役を果たしている。円安は、自動車や機械、化学、繊維などの大手企業にとっては輸出代金の手取り額が増えるなど重要なプラス要因となる。同時に、生産拠点を海外に移転したり、M&Aで海外売上比率が高まっている企業にとっても大きな福音になる。

生産拠点などを海外に構築している企業は、円高の局面で海外投資を行った格好になっており、投資額が円安によって膨らむことになる。単純に考えれば、1ドル=70円台で投資を行った場合、1ドルにつき50円以上の差益が出ている勘定だ。それと同様に、海外展開を積極的に進めてきた企業は、海外での売り上げが円安によって、自動的に大きく膨らむことになる。例えば、1ドル=100円の為替レートの下では、1億ドルの売り上げは円換算で100億円だが、120円の水準まで円安になると、売り上げは単純に120億円になる。これは利益についても同じ効果がある。

そうした効果が見込める大手企業の決算では、海外子会社との連結ベースで財務諸表を作成するため、利益がかさ上げされるケースが多い。そのため、大手企業の業績は実態以上に回復して見えることもある。企業業績が改善すると、それに直接反応するのは株式市場だ。株価水準は、基本的に企業の収益と連動するはずである。足元でわが国の株式市場が安定した展開を続けている背景には、日銀や年金資金の株式投資があることに加えて、円安メリットが重要な役割を果たしている。株価が堅調な展開になると、株式保有者を中心に資産効果のパスを通して、個人消費を刺激することも期待される。

家計と中小企業への負の影響 地方と都市の格差も拡大
さらに円安傾向が長期間続くかについては色々な見方がある。ただ、米国の政策金利の上昇ペースは、かなり緩やかになるとみられることを考えると、円安・ドル高は7合目、8合目まで来ていると見る。足元の市場動向を観察すると、
ヘッジファンドなど投機筋がドルを買い上がっている兆候が見られ、彼らはどこかで利益確定の売りを仕掛けてくる可能性が高い。円売り・ドル買いのポジション巻き戻しが始まると、ドルの上値が限られると予想する。

今回のように短期間に円安・ドル高が進むと、日米両国の経済にとって不都合な要素が顕在化する。米国から見ると、ドル高は米国の輸出企業にとってマイナスだ。また、海外売り上げのドル換算額が減価する。それらはいずれも、米国の企業業績に逆風となる。米国の産業界から、そろそろドル高に対する懸念が本格化するだろう。米国政府としても、それに対して何らかの方策を講じるはずだ。一方、わが国にとって急激な円安はプラス面ばかりではない。

輸入価格が上昇すると、食料品や衣料品などの値上げを通して家計部門を直撃することも懸念される。家計の消費マインドが冷え込むと、個人消費の伸び悩みが一段と鮮明化することも考えられる。円安で最も大きな影響を受けるのは、海外からの原材料に依存して作った製品を、国内市場に出荷している中小企業だろう。国内市場に特化しているため円安メリットを受けにくく、原材料の上昇によるコストアップを価格転嫁できないからだ。

地方経済を見ると、円安や株高のメリットがあまり波及しておらず、少子高齢化の影響で成長に向けてのエネルギーを見出すことが難しいケースが多い。今回の急激な円安は、そうした地方と都市圏の経済活動の格差を拡大することになる。わが国の産業は構造変化が進んでおり、円安で輸出が大幅に伸びる状況ではなくなっている。むしろ少し長い目で見れば、急激に円安が進んだ後の反動を、リスク要因として頭に入れておくべきだ。

 

 

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2015年08月24日

急激な円安進行が日本経済にもたらすリスク No1

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http://diamond.jp/articles/-/72773

円安がわが国にもたらすのは プラス面ばかりではない
米国金利の先高観などを背景に、足元で円安・ドル高が急速に進んでいる。5月下旬には、約12年半ぶりの水準となる1ドル=124円台に至った。円安傾向が続くと、自動車等のわが国の主力輸出企業の業績は一段と改善することもあり、株式市場は安定した展開が続いている。一方、急激に円安になると、海外から輸入する製品などの価格が上昇しやすくなる。食料品など原材料を輸入に依存する業界などでは、コストアップ要因につながることが懸念される。

コストアップ要因を価格に転嫁できる大手企業には、それほど大きなマイナスは及ばないだろうが、製品価格を上げにくい中小企業などには大きな痛手になるはずだ。また一般消費者にとっても、輸入製品が急激に上がると財布のひもを締めざるを得なくなる。わが国のGDPの約6割を占める個人消費の伸び悩みが顕在化すると、ようやく回復してきた景気の腰を折ってしまうことも考えられる。

もう一つ無視できない点は、大手企業など円安のメリットを享受できる分野と、国内市場中心の中小企業などデメリットを受けやすい分野で大きな格差が生じることだ。原油価格が低位に安定している現在、
円安傾向はわが国全体にとってみればプラス要因として働くものの、その恩恵を受けにくい分野が存在することは十分に頭に入れておくべきだ。

急激な円安・ドル高の背景には ヘッジファンドのキャリートレード
各通貨間の交換レートである為替は、短期的には金利の動向が大きく影響する。世界の投資資金は、基本的に、金利の低い通貨から金利の高い通貨に流れる。そのため、金利が上がりそうな通貨に対する需要は高まりやすくなる。
大手投資家であるヘッジファンドなどは、相対的に金利の低い通貨で資金を調達し、それを為替市場で高金利の通貨に替えて運用することが多い。有体に言えば、金利差を取るためのオペレーションだ。“キャリートレード”と呼ばれる手法である。

彼らは、“キャリートレード”を時に数百億円単位で行うこともある。その取引量は、年間を通して世界の為替市場の半分程度を占めると言われている。そのため、彼らのオペレーションがどうしても為替市場を動かしてしまう。円とドルの金利の動きを考えると、日銀の黒田総裁が頑張っている間、恐らく円の政策金利が上昇することはないだろう。一方、米国のイエレンFRB議長は、今年中に政策金利を引き上げる可能性が高いことを示唆した。ということは、円とドルの金利差は、今年中にさらに拡大する可能性が高い。

そのビジネスチャンスを、海千山千のヘッジファンドが見逃すはずはない。今年、彼らの多くは、ユーロ売り・ドル買いのポジションで損失を被ったようで、年明け以降の成績はあまり芳しくないと言われている。その損失を取り戻すべく、ヘッジファンドや為替ディーラー連中は、ここへ来て一斉にドル買い・円売りに走った。その勢いはかなり迫力があり、世界の主要為替市場ではドルが買い込まれる展開になった。それに加えて、国内の輸入決済資金を手当てしなければならない、一部のメーカーなどもドルを買いに加わり、ドル上昇を加速する結果となった。

 

 

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2015年08月23日

続く円安、政府による為替介入はあるのか?

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http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150605-00000004-wordleaf-bus_all

為替市場では円安が続いており、一時1ドル=125円台まで下落しました。これまで基本的に円安は歓迎されてきたのですが、ここまで円安が続くと、行き過ぎを懸念する声が出てくる可能性があります。過度な円安を防ぐために、
政府が為替介入を行うということはあり得るのでしょうか。
.
続く円安、政府による為替介入はあるのか?
為替介入とは、為替相場の急激な変動を防ぐため、政府が取引に参加し、相場の安定化を図る措置のことです。具体的には財務大臣の命令によって、日銀が介入の実務を行います。日本はこれまでかなりの数の為替介入を行ってきました。しかしそのほとんどは、ドル買い円売りの介入、つまり円高に対応するための措置でした。為替市場は1973年から変動相場制に移行していますが、短期間、円安になることはあっても、基本的には40年にわたって円高が続いてきました。

急激な円高は日本の輸出産業に打撃を与えると考えられていましたから、積極的に介入が行われていたのです。  1985年のプラザ合意をきっかけに、1ドル=約240円だった円は、わ
ずか1年で150円台まで上昇することになりました。
当初、日本政府はプラザ合意に沿って円買いドル売りの協調介入を行ったのですが、あまりに急激な円高に方針を変更、大規模な円売りドル買い介入を実施したものの、ほとんど効果はありませんでした。

2003年からは再び円高圧力が高まり、為替は110円まで円高が進んでいます。日本政府は2003年に20兆円、2004年には15兆円にものぼる巨額のドル買い介入を実施しましたが、やはり目立った効果はなく、2012年にはとうとう70円台まで円高が加速してしまいます。 ドル買い介入を実施する場合には、国債を発行して円を調達してドルを買い入れます。しかし円高(ドル安)が進んでいますから、購入したドルの価値はどんどん下がっていきます。

借金をして値下がりする資産を買い続けていることになりますから、こうした介入は日本の財政に悪影響を与えます。1995年、大蔵省(現財務省)の国際金融局長だった榊原英資氏(のち財務官)が、米国と歩調を合わせドル買い介入を実施、80円台だった円を100円以下まで下落させることに成功した例もあります(これがきっかけで榊原氏はミスター円と呼ばれるようになりました)が、多くの場合、市場の動きに逆らった介入はあまりよい成果を上げていません。 
こうした教訓もあり、2011年以降、日本政府は為替介入をほとんど行わなくなりました。


また自由市場を重視する考え方が年々強くなっており、過度な介入は国際的にも許容されなくなっています。スイスは行き過ぎたスイスフラン高を回避するため為替介入を行っていましたが、購入したユーロの値下がりで中央銀行の資産劣化が激しくなり、今年の1月、突如介入を停止し、相場が大きく乱れるという出来事もありました。 円安が政治問題に発展した場合には、政府は介入を検討するかもしれません。

しかし、円安は製造業にとってマイナスにはなりませんし、物価目標に対してはプラスに作用します。仮に介入に踏み切ることがあっても、以前のような大規模なものにはならないでしょう。

 

 

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2015年08月21日

超高収益の秘密は「牛丼」にあり No1

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http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20150609/284056/?rt=nocnt

ファナックのビジネスモデルを徹底解剖

孤軍奮闘していた「ファナック」特集の取材に、春先から1個下の後輩(飯山辰之介、記者8年目)が加わった。最初に話した時は「製造業に詳しくありません」と言うから不安だったが、筆者(佐藤浩実、記者9年目)が今年4月後半にドイツへ出張している間、日本の機械見本市の取材をカバーしてくれていたそうだ。ファナックの機械を使っている顧客にも、話を聞くことができたという。モノ作りに関心を持つ仲間が増えるのは純粋に嬉しい。帰国早々、会社近くの牛丼屋で取材成果の報告会を開くことにした。

「薄利多売じゃないんですか」
「先輩、ちゃんと取材してきましたよ。都内で開かれた産業機械の見本市『インターモールド』にファナックが出展していたんです。今回はファナックの機械を使っている取引先の話も聞いてきました」 牛丼屋の席に着くや否や、後輩がこうまくしたてる。4月頭に忍野村を散策した時は、眠たそうな顔で、やる気があるのかどうかよくわからなかった彼だが、筆者が日本を離れていた2週間のうちに何かのスイッチが入ったようだ。

ドイツ出張直前、ファナックの「新商品発表会」に連れて行った時に、刺激を受けたのかもしれない。帰国直後でもあり、本当は久しぶりの日本食を堪能したいところだけど、まずは後輩の取材成果を聞こうじゃないの。「どうだった?」
「実は、ちょっと想像と違っていたんです。ある電動工具メーカーの役員によれば、『ファナック製の機械の加工精度はほどほどで、競合の方が良い』そうなんです。先輩、前に忍野村で『ファナックはフェンスで最新鋭の技術を守っている』とか自信満々に話してたじゃないですか。これ、どういうことなんですか」

フェンスの「豆知識」までちゃんと覚えていてくれたのね。感心していると、後輩が続けた。「しかも、いろいろな取引先が『ファナックの商品は安い』って言うんです。『安いから使ってる』なんて話す中小企業の社長もいましたよ。
これで売上高営業利益率40%も稼げるんですかね。薄利多売じゃないですか」 なるほどね。期待していた以上に、後輩は的を射た話を聞き出してきたようだ。日経ビジネス6月8日号特集「孤高の製造業 ファナック 利益率40%を
生む異様な経営」でもドイツで見た具体例を交えて詳報しているが、ファナックの商品は競合製品と比べた時に決して高くはない。

プラスチック部品を作る射出成型機のような例外もあるけれど、むしろ、「総合的に考えると安い」という評価をよく耳にする。そして、出来立てほやほやの新技術を搭載している機械は多くない。なのに、利益率は高い。これには、ファナックの開発思想が大きく影響している。かつて同社の「商品開発研究所」の壁に「ALWAYS KEEP IN MIND(常に意識せよ)」という言葉と
ともに貼られていた、3つの言葉が象徴的だ。 そうだ、この話も後輩にシェアしなくては!

「ファナックの研究開発には、WENIGER TEILE(部品点数を少なく=ドイツ語の造語)、RELIABILITY UP(信頼性を上げる)、COST DOWN(コストを下げる)という3つの指針
があるのよ」

「安い」を作る、3つの研究開発指針
キョトンとした表情の後輩に、もう少し補足する必要がありそうだ。 「WENIGER
TEILEから教えるね。ファナックは部品が増えてしまうような特注品はいたずらに受注せず、シンプルな設計の標準品を販売するの。
特注品だらけの競合メーカーと比べて1品種の生産量が多くなるから、生産工程を自動化するメリットが生まれやすいでしょ。COST DOWNにもつながるよね。あと、新しすぎて不確かな技術では
なく、できるだけ使い慣れた技術を使うのも特徴。モノ作りのための機械だからRELIABILITY
UPをすごく重視していて、8年に1回ぐらいしか故障しないんだとか…」

 

 

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2015年08月20日

潜入、ファナックの「主戦場」 No3

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忍野村には寮が完備されていて、魅力的で高給高学歴の若手がたくさん住んでいるのだ。ついでに質問してみた。「合コンとか、行きますか」「私はあまり行かないですが、結構行ってる人もいますよ。この辺りだと、ファナック社員というだけで合コンでもモテるんです。『男である前に、ファナック社員』なんですよ」 どんな質問にも答えてくれる若手社員さんに改めて感謝申し上げたい。だが、こんなことばかり質問していたら、若手社員さんは取引先との重要な仕事の話ができなくなる。別の方に話を聞こう。

次は「寮も会社も黄色いけど、うんざりしないのか」だ。この辺りは特集に掲載しているので参考にどうぞ。

奥深い世界に入り込む
約束の16時。発表会もお開きの時間に。エントランス前にはバスが何台も連なり、取引先が次々と乗り込んいく。だが先輩の姿がやっぱり見えない。最終バスの発車時刻が迫る。出発の時と同じシチュエーションにうんざりしつつ、エントランスをウロウロしていると、来た。小走りに、満面の笑みで、言った。「やっぱり出資比率の50対50は健在だったよ!」 いきなり何が50対50なのか。何がそんなに嬉しいのか。分からないが、重要な発見だったことは間違いなさそうだ。先輩は続ける。「あっちの奥のほうで、『ファイバーレーザー発振器』を見てきたのね」。

ファナックの新商品、ファイバーレーザー発振器が搭載された産業機械
確か、今日付の新聞に載っていた。ファナックは古河電気工業と共同出資会社を設立し、ファイバーレーザーの製造販売に乗り出すらしい。ファイバーレーザーとは何か。さっぱり分からないが、これまでの経験上、黙っていれば先輩が教えてくれることは分かっている。「・・・『レーザーカッター』って分かる?」。 ほら、来た。「板金をレーザーで焼き切るための
機械なんだけど、そのレーザーを作り出す装置をレーザー発振器と言うの。

これまでは『CO2レーザー発振器』と言われるものが主流だったんだけど、ここ3年ぐらいで『ファイバーレーザー発振器』というのが一気に増えた。実は緑のロボットもそうだったんだけど、以前のファナックはファイバーにも否定的だったのね。でも想定以上に市場が広がったために参入したと私は見ている」。「それと50対50に何の関係があるんですか」「古河電気工業との出資比率が50対50だったんだよね。ファナックって昔から、法律が許す限り出資比率を同じにすることにこだわってきた。

古くは米ゼネラル・モーターズや、米ゼネラル・エレクトリックとの合弁もそうだった。海外にサービス会社を作る時も、現地の有力企業とまず50対50で組む」「その心は?」「『助けてもらおうとか、助けてやろうという意識を排して対等に成長する』というポリシーがあるからなの。今回もそれは健在みたい」 「黄色は戦いの色」とか「合弁は50対50」とか、ファナックには面白い決まりが色々あるようだ。「ところで、そっちは何かいい話はあったの」 と先輩に尋ねられた。

数少ない珠玉の取材成果を披露しよう。「ありましたよ。ファナックの社員はね、モテるんです!」「そうなの?モテるの?面白いじゃない。特集に入れてみよう!」「いいですね!まずはどんなネタでもファナックに関するものなら調べてみましょう。この会社、面白い話がまだまだ出てきそうですもんね!」。 先輩に乗せられて、いつのまにか筆者もファナックの奥深い世界に入り込んでいくのだった。

 

 

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2015年08月19日

潜入、ファナックの「主戦場」 No2

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「緑のロボット」になぜか違和感
会場では黄色いジャケットの社員が、黄色いロボットの説明をしている。この黄一色の世界のなかで、異彩を放つロボットがあった。緑色なのだ。 異彩を放つ「緑色のロボット」「あれ、こいつだけ
なんか色が違いますね。動きも遅い」。先輩に尋ねてみた。黄色いロボットに目が慣れてくると、緑色に違和感を覚えてくるから不思議だ。「初めて見た時は私もその色に衝撃を受けたわ。重たい物を運ぶ時とか、人を助けるような用途を考えているんだって。人と離れて作業する黄色いロボットと区別するために緑色にしてるんだよ」

「人と一緒に働くロボットなんですね。こういうのって珍しいんですか」「いいえ。『協働ロボット』というコンセプトはここ数年いろいろなところで語られている。ちょうど(4月13日から)ドイツで始まっている展示会『ハノーバー・メッセ』でも、スイスのABBが『Yu-Mi』という2本腕のロボットを紹介しているし、独クーカ(KUKA)のブースも協働ロボットで溢れていて、ロボットがビールまで注いでいた。ファナックはどちらかというと、こういうコンセプトに消極的だったんだけど、ついに参入したのよ」

当初は「ファナックイエロー」に引き気味だった筆者だが、緑色を前にすると、「ファナックなんだから黄色くあるべきなんじゃないか」とか思えてくるから不思議だ。正直に先輩にも話してみた。「黄色いロボットじゃないと、ファナックって感じがしないですね」「ふふふ、甘いわね。気づかない?これ、既存の黄色いロボットに緑のスポンジを被せたような設計になっているでしょ。競合メーカーが開発している協働ロボットは、通常のロボットとは設計からして全然違うけど、ファナックの場合は黄色いロボットと共通の部分を増やして、設計開発や製造面での工数増を極力抑えようと工夫してるみたい」

「合理性を極限まで極めようとしているところが、ファナックらしいですね!」
知ったかぶりをしてみた。今回は先輩も満足そうに頷いてくれた。「こういう商品が出てくるところは変わったなと思うけど、確かに利益を出す設計、という軸はぶれない。根本的なポリシーは何十年も変わらないのがファナックなのよね」。
エントランスで先輩から聞いた「ファナックの変化」。その象徴が緑色のロボットらしい。初めて忍野村を訪れた日、先輩からファナックの業績は絶好調だと教わった。ではなぜ、今変化する必要があるのか、これはきちんと取材した方がよさそうだ。

黄色い人たちはモテるらしい
「それじゃあ、ここからは別行動にしましょう。後は勝手に取材してきて。私も聞きたいことがたくさんあるから。16時にエントランス集合で。じゃーね!」 ・・・危惧はしていたが、やっぱり取り残された。誰に何を聞こうか。とりあえず優しそうな若手社員を探す。単独取材の開始だ。「すみません。日経ビジネスという雑誌の者です。一つ質問させて下さい。これは・・・その・・・何ですか?」。取引先に交じって質問してみる。素人丸出しなのは承知しているが、本当に素人だから仕方がない。

「これはワイヤカットと呼ばれる機械です。タービンなど刃物加工ができない細かい加工に向いていて、金型メーカーや部品加工メーカーさんに使ってもらっています」。 呆れられるかと思いきや、若手社員はとまどいながらも、一生懸命、丁寧に説明してくれた。見慣れない黄色い制服のせいで、最初は近寄りがたいと思ったが、話してみれば普通だ。お礼を言って次の取材先を探す。腹をくくって、機械とは関係ない質問を別の若手社員に振ってみた。

機械関連は先輩が根掘り葉掘り聞き回っているに違いない。聞きたいことを聞こう。「すみません。ファナック社員はモテますか」「・・・は?(一瞬の沈黙の後)モテるかモテないかでいえば、多分この辺りではモテるんじゃないですか」。
とんでもない質問にも応じてくれてありがたかった。しかも大きな発見もあった。ファナック社員はモテるのだ。後で調べてみると、ファナックには高学歴の理系社員が多いらしい。給料もいい。

 

 

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2015年08月18日

潜入、ファナックの「主戦場」 No1

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http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20150605/283958/?rt=nocnt

初めて黄色い壁の内側に入る機会を得たのは4月14日。ファナックが取引先向けに開く「新商品発表会(オープンハウス)」の取材だった。

「新製品」じゃなくて「新商品」ね
「10時半に新幹線の三島駅に集合ね。ここからファナックが取引先向けにバスを用意しているから一緒に乗っていきましょう。2人で申し込んでおいたからね」先輩との前日の約束通り、10時半に駅に到着するも姿は見えない。電話にも出ない。駅前で待つ2台のバスは既に関係者を乗せ、発車準備を整えている。うち1台は既に満席だ。もしかして先輩寝坊か。一人であの黄色い会社を取材するのは正直心細い。どうしようとオロオロしていると、バスが発車するギリギリの時間に電話が鳴った。

「何やってるの?私もう満席のバスの方に乗っちゃってるよ」。 まだ席が空いていた2台目のバスに慌てて乗り込む。あと少し電話がかかってくるのが遅かったら、取り残されるところだった。 三島駅からファナック本社までは1時間程度。「ファナック通り」から敷地に入り、林を抜けると会場が見えてきた。エントランスは取引先の関係者や黄色いジャケットを羽織ったファナック社員でごった返している。遠方から訪れる取引先も多そうだ。

「こうした新製品発表会は頻繁に開かれているんですか?」「いいえ、年に1度だよ。国内だけじゃなくて、国外からも取引先を招いて、新商品や試作機を紹介しているの。ちなみに『新製品』じゃなくて『新商品』発表会ね。
ファナックでは『商品』と『製品』を明確に区別しているらしいわ。『製品』はただ作ったもの。抜群の競争力と高い利益を生み出す製品だけを『商品』と呼ぶんだって」 相変わらず先輩の「ファナック豆知識」はとどまることを知らない。

もう先輩だけで特集を作れるんじゃないだろうか。存在意義を自問していると、横で先輩がささやいた。「この発表会に4回ほど来てるけど、最近ちょっと雰囲気が変わったんだよね。うまく言えないんだけど、明るくなった感じがする」。
先輩がほのめかした「ファナックの変化」、これは特集の主要テーマである。詳細は本誌をご覧いただきたい。

「落穂拾い」が稼ぎ頭に
発表会場に足を踏み入れる。筆者には見慣れぬ機械が所狭しと並べられている。巨大なロボットが自動車を軽々と持ち上げ、ドリルが猛烈なスピードで正確に金属を削っている。
黄色い制服のファナック社員と取引先関係者とでごった返す新商品発表会場 「さて、これが先々週に少し話した『ロボドリル』ね。この機械、普通の工作機械より少し小さいの。主軸のサイズから『主軸30番』と呼ばれていて、昔はあまり作りたがる会社がなかったんだ」

ファナックの産業機械「ロボドリル」
「工作機械メーカーが主力で作っているのは、もっとサイズが大きい『主軸40番』なのね。40番は、仕様にもよるけど、数千万円するのが当たり前。一方で、30番のロボドリルは数百万円と単価が安い。だから『うまみが少ない』機械って言われていたわけ。ファナック自身も画家ミレーの作品になぞらえて、ロボドリルは『落穂拾い』だと公言していたよ」 もっとも、今はこの「落穂拾い」の機械がファナックの稼ぎ頭に育っているらしい。なぜなのだろうか。疑問を察したかのように先輩は続けた。

「うまみが少ないはずのロボドリルなんだけど、台湾とか中国でEMS(電子機器の受託製造)という業態が成長したことで流れが変わったのね。米アップルが『iPhone』を開発したでしょ。
彼らはデザインを重視して、スマートフォンのケースをプラスチックでなくアルミを削り出して作ることにした。これに韓国のサムスン電子や中国の新興スマホメーカー、小米(シャオミ)など、多くのスマホメーカーが追随したのね。金属を削ってケースを作るのが一般的になったわけ。これで安くてアルミを正確に削れるロボドリルの需要が一気に伸びた」

 

 

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