2015年09月28日

50代で年収380万、痛みでトイレも使えぬ生活苦!   No1

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タクシードライバーが沈む不況と過当競争の底なし沼 ―都内タクシー会社の乗務員・坂田義則さん(仮名)のケース

タクシー業界で働く乗務員(タクシードライバー)を取り上げる。彼は50代で月収手取り20万円台。1日に20時間ほど車を運転するため、下半身を痛め、和式トイレを使えない日々だ。後半では、タクシーの運転手が加盟する労働組合を取材した。この業界の厳しい実態が見えてくる。 あなたは、生き残ることができるか。2009年度のタクシー市場は、1兆7749億円(法人、個人合計)。バブル崩壊前後となる1991年度の6割強にまで落ち込んだ(日経新聞 2010年10月27日朝刊)。

業界で大シュリンクが起きているベースには、自家用車や電車などの交通手段の充実、長引く不況による利用者の減少などが挙げられる。また、2002年からの規制緩和により、タクシー台数が一気に増えた結果、業者間、ドライバー間で競争が激化したことも、ドライバーの生活苦に拍車をかけている。まさに「規制緩和不況」の典型的な業界と言える。今後は、医療、福祉、観光分野などで潜在的な需要を掘り起こすことが、業界にとっての課題となる。

老後不安でタクシーを始めたものの50代で年収380万円前後の生活苦
「ここ数年は平均年収が380万円前後(額面)で、月収の手取りは20万円台の後半かな……。歩合給だから、額は稼ぎに応じて毎月変わる」 タクシードライバーの坂田義則さん(仮名・54歳)は、太い声でつぶやく。6年前(2006年)に都内のタクシー会社に入り、現在は2つ目の会社に勤務する。前職は、損害保険のセールスをしていた。2001年に仲間と代理店を立ち上げた。だが、外資系の保険会社が市場に参入するようになり、お客を奪われ、数が減っていった。04年の頃をこう振り返る。

「世間並みの暮らしをするためには、1億円くらいの契約額が必要だった。それが辞める頃には、2000万円ほど。その20%の400万円が俺のところに来る。だけど、そこから経費が消える。手元には、300万円ほどしか残らない。これでは、食えねぇ……。代理店仲間の大半は辞めたね」 タクシードライバーになろうと思ったのは、老後のことを考えたからだという。60代以降は年金で生活していくことを希望している。 「これ
までの経歴は、車に関わる仕事が多い。

それを活かすことができて、正社員として働くことができるところがよかった。社会保険とか労働保険が整備されているからね。それに、退職金と年金を老後にもらえる体制になっている職場がいい。だが、退職金制度を設けているところはほとんどない。この年齢になると、これらの条件をある程度満たす職場はタクシー会社しかなかった」「これでは、食っていけねえ……」保険のセールスからタクシーへ転職30代半ばから50代で失業した人は、確かに業界や会社を選ぶ幅が狭くなる。この世代の失業期間が長い理由の1つが、ここにあるのだと思う。

選択の幅が狭いにもかかわらず、キャリアの幅が広いことが問題なのだ。たとえば、営業、経理、総務、広報などの仕事を色々経験しながら年数を重ねると、その会社では評価されるのかもしれない。しかし、組織を離れ、自分という商品を売ろうとするときに「何が得意なのか」わからない。また、独立して生きていくレベルにはおおよそ届いていない。保険セールを手がけた時期もあったとはいえ、坂田さんのように基本的には車に関わる仕事1つに絞り、数十年も続けてきた人は、失業しても次の職場が早く見つかる傾向がある。

「芸は身を助ける」と言うが、「一貫した職業は生活を守る」ことができるのかもしれない。坂田さんは、ある意味で恵まれている。現在は、都内西部の府中市に1人で住む。家族の養育費は不要だ。たとえば、家族4人(子ども2人)の夫と比べると、年間で数十万〜数百万円は少なくて済むだろう。家は父親が建てたもので、一軒家である。賃貸マンションのように毎月、住居費を支払う必要はない。これだけでも年間で少なくとも100万円以上は経費を削減できる。

がむしゃらに仕事をすればするほどどんどん泥沼にハマっていく仕事
今の会社では、2日連続の出番となっている。これを「1(いち)出番」と呼ぶ。たとえば、月曜日と火曜日に働き、水曜日は休日、木曜日と金曜日が出番となる。2日間で運転できる時間は、この会社では上限が20時間と決まっている。厚労省・国交省が決めた告示での規制の上限は、21時間。それとは別に、3時間の休憩時間を取ることが義務付けられている。この時間に車を止めて、仮眠をとる。 品川を拠点に、駅の前に車を付けて待ったり、1時間ほど走り続け、客を拾う。

 

 

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2015年09月27日

「ベンツはもう、誰でも持ってるでしょ?」 No3

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http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/276757/083100005/

お目立ち度アップの効果をアピール
「ヒミコ」が紹介に次ぐ紹介でコンスタントに売れていることから、同社ではいま、220万バーツ(約770万円)の「ガリュー」、79万バーツ(約280万円)の「ビュート」の販売に力を入れている。「ガリュー」のターゲットは「ヒミコ」ユーザーほどではないが、高額所得者層。「ビュート」のターゲットは、タイに増えてきている中間層だ。 どちらの層も、衝動買いを誘えるリッチな「ヒミコ」の客とは違い、購入にはやや慎重な姿勢を示す。光岡の名前を知らないから家族で相談をし、もう少し検討してから決めたい。

そんな客の意識を変えていくため、平野氏はいま2つの施策を展開している。 一つは知名度アップ策。潜在顧客が集まりそうな場所でイベントを開き、光岡自動車との接点を増やす取り組みだ。この8月には、富裕層の子弟が多く通うことで有名なバンコク大学でイベントを開き、車を展示。手頃でカジュアルなコンパクトセダン「ビュート」は高い反響を得た。 Facebookに出した広告も知名度アップに貢献している。

「一度出しただけですが、2000人ぐらいだった『いいね』の数がいきなり1万9000人に増え、本社(日本)のFacebookページを上回った。Webへのアクセスも跳ね上がりました。車自体のインパクトが相当あったのかもしれません。タイとの相性の良さを感じています。LINEも活用して、実売につなげていきたいですね」

タイのFacebookユーザーは2000万人超。LINEユーザーは2400万人を超え、日本に次ぐ世界第2位。タイ人は、美しく格好いいモノ、強烈な個性を放つモノには素直に反応し、自撮りでSNSにアップするのが大好きだ。イベントとからめながらSNSを巧みに活用すれば、光岡自動車の知名度は確実に上がるだろう。 もう一つの拡販策は、試乗の働きかけだ。モーターショーなどで興味を示した客に連絡を取り、試乗車で商業施設に乗り付け、衆目を集め、特別待遇を受ける快感を味わってもらうサービスである。

「一番安い『ビュート』で走っても、周囲の人はみんな見ますね。この価格帯でそんな体験ができる車はない。そうすると、79万バーツでも高くない。BMWの『ミニ』もいいけど値段が倍以上するし、『ビュート』なら色も内装も選べると思っていただけるんです」タイに進出している日系企業限定で、「ガリュー」のリースプランもスタートした。料金は月額2万2000バーツ(約7万7000円)。空港での客の出迎えやゴルフ場への往復に利用してもらい、客の満足度を高め、企業の好感度アップにもつなげてもらおうという考えだ。

進むべき方向を見つけ、体制の見直しが実り始めたミツオカモータータイランド。タイでの経験には、日本にフィードバックできる要素も多いと平野氏は言う。

「とりあえず」でもかまわない
「タイにいて感じるのは、よりクラシックな車への期待感です。もっと光岡らしい、もっとクラシックスタイルに特化した車があってもいい。『ビュート』に人気が集中している日本にも必ず需要はあるはずです」 クラシックカーファンの間で高い人気を誇るブランドに、英国のモーガンがある。少量生産で予約が3年先まで埋まっていることでも有名だ。タイの光岡自動車の顧客には「本当はモーガンがほしいけれど、納車まで時間がかかるし高いから、とりあえず光岡で」という客が少なくない。

だが、平野氏は「それでいい」と話す。
「とりあえず買ってみたら、すごく良かった。もっと欲しくなった。そう思われるのが理想です。このポジションに立てるのは光岡以外にはない。だからこそ、もっとクラシックな車があれば、お客様の選択肢も増え、人気が得られると思うんです」 タイに進出すればASEAN全域を掌握できる。そんな当初の夢は砕け散ったが、進出したからこそ新しい道筋が見えてきた。現実に合わせた改善策を推し進める平野氏が目指すのは、モノづくりとセールスが一体化した仕組みを構築し、いずれはすべてタイ人で運営できる体制に持って行くことだ。

仕組みの完成度が高ければ、基本部分は他の国にも応用できる。現地のことは現地の人材で。光岡自動車は長期的な視点で、以前とは異なる「新しい海外進出の形」を追求している。

 

 

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2015年09月26日

「ベンツはもう、誰でも持ってるでしょ?」 No2

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http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/276757/083100005/

しかし、FTAは成立したものの、完成車の輸出となると、どこも自国の産業を守るためにさまざまな税金をかけてくる。結局、価格的には日本から輸出するのと変わらなくなるんですね。これではタイで作って輸出する意味がない。かといって、進出したこと自体を否定してしまうと何も残らなくなる。そこで、昨年からタイでの販売に注力し、身の丈に合ったビジネスにシフトしました」 ゼネラルマネ
ジャーの平野葉流架氏。以前は日本でクレイモデラーを担当していたが、4年前からタイに赴任。

ヨントラキットの工場内に設けた光岡車用の生産ラインは年間150〜160台のキャパシティを備えていたが、これを3分の1に縮小。工員も減らし、さらには販売も合弁会社への委託から直営に切り替えた。光岡自動車が重視するメンテナンスやアフターサービスが委託先では思うようにできなかったためだ。 「我々が扱っている車は安くはない。それなりのサービスが求められるのに、対応が悪く、修理にも時間がかかりすぎていた。これはもう自分たちで主導権を握り、日本と同レベルとまでは行かなくても、近い水準に持っていかなければ未来がないと判断しました」

平野氏がまず手をつけたのは、光岡の車を熟知した整備士の育成だ。日本からベテラン整備士を呼び、1年以上もの時間をかけてタイ人整備士を教育し、自分たちで請け負えるメンテナンス体制を整えた。 部品の在庫を持たず、その都度日本から輸出していたやり方も見直した。到着までに時間がかかる上に、代理店が何社も介在して価格が高くなり、客の不評を買っていたからだ。

最上位車種は日本以上の売れ行き
「いまは主要な部品は直で輸入し、ストックしています。タイで作り始めた部品もありますよ。日産のディーラーと交渉して、『ミツオカの車で使っていいパーツ』として認証してもらいました。値引きも可能になりました。お客様からは、『ようやく普通の体制になったね』と言われます(笑)」 セールスの手法もガラリと変わった。委託販売の時代は、「1台売ってなんぼ」のインセンティブ制度。「売ったら終わり」で、その後の顧客へのフォローはほぼ皆無だったが、平野氏はここにも全面的にメスを入れた。

車を売りつけるのではなく、客のライフスタイルを聞く。値引きの話に終始するのではなく、なぜ光岡の車に興味を持ったのか、どんな生活シーンに使うのかをヒアリングする。販売員というよりもアドバイザー的な役割を果たすセールススタッフの育成だ。顧客との時間を大切にしたいと、郊外のバンナーに開設したショールーム。8割は予約客。飛び込みで入店する客も2割ほど。 「例えば、ゴルフがお好きなお客様であれば、それにふさわしい提案をしていく。好みを把握して、内装の提案をする。

日本では当たり前の販売方法ですが、タイでそこまでしている会社はないんですね。光岡の知名度はまだ低い。手間はかかりますが、ここで差別化しなければ選んでもらえません。この8月にショールームをグランドオープンしたのもお客様との会話の場を確保するため。近いうちにカフェも併設する予定です」

いったん信頼関係を築けば、タイ人客はプラスアルファのオプションには前向きだ。4万バーツ(約14万円)かかるガラスコーティングのメリット(洗車が楽)を伝えれば、ほとんどの客が「じゃあ、お願いします」とオプションを追加する。「ヒミコ」を買ったついでに「ガリュー」も買うといった「車のついで買い」するユーザーも、全体の2割を占める。車にそこまでお金をかけたくないシビアな客が多い日本とは違い、客の心に響くアドバイスをすれば目に見えた効果が出るのがタイのマーケット。平野氏がセールススタッフのアドバイス力を強化する理由はここにある。

ショールームで圧倒的な存在感を誇る「ヒミコ」。平野氏の隣にいるのは、タイの自動車業界の超大物。ショールームのグランドオープンにはたくさんのVIP客が足を運んだ。ヒミコはタイの超リッチ層の心をつかみ、年間の販売台数は日本を上回っている。購入後も、スタッフは手書きのDMを発送したり、機会を見て電話を入れて、『お車の調子はどうですか』と尋ねたりするなど、顧客との関係維持に努めている。保証期間が切れた後で入るクレームにも、「対応できません」と突っぱねたりはしない。

要望を聞き、可能な範囲で対応し、歩み寄りの姿勢でクレームに臨む。 「前に、タイで最初に『ヒミコ』を購入された超VIPのお客様から『ドアから風の音が漏れる』というクレームが入ったことがありました。ところが、タイ人スタッフがあたふたしてしまい、『オープンカーだから音がするのは当たり前だ』と言って、お客様を怒らせしまったんですね。僕が出て行って、同乗してみたら確かに音がしたので、お預かりして修理をしたら、信頼していただけるようになった。

それ以来、同じような立場のお客様を紹介いただいたり、VIPが集まるパーティに呼んでいただいたりと応援してもらっています」顧客が自身のネットワークで光岡自動車の良さを伝え、顧客開拓に力を貸す。この傾向は、特に375万バーツ(約1300万円)する一番の高級車「ヒミコ」で強い。年間の販売台数はいまでは日本より上だ。

 

 

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2015年09月25日

「ベンツはもう、誰でも持ってるでしょ?」 No1

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http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/276757/083100005/

どこでもいいので、バンコクの中心部にあるちょっと高級な商業施設に車で乗りつけてみよう。 スタッフが現れ、駐車場へと車を誘導してくれるはずだ。 だが、誰もが同じ場所に駐車できるわけではない。 高級車は専用のVIP車ゾーンへ、そうでない車はその他のゾーンへ。車のランクによって容赦なく振り分けられる。タイは厳然たる階級社会であると同時に、見た目で判断される社会だ。金持ちは金持ちらしい格好をし、ブランド品を身につけ、高い車に乗る。そして快適な待遇を得る。

重要人物のカンバンとしての自動車
自分の「カンバン」として、威力抜群なのはなんといっても高級車だ。渋滞では道を譲られ、空港の駐車場が「満車」表示で入れない場合でも、別のスペースに案内され、難なく停められることも多い。具体的に言えば、ベンツ、BMW、ポルシェ、フェラーリ。こうした車なら、まず間違いなくVIP車として扱われる。 この華やかな顔ぶれに食い込み、タイの富裕層の支持を着々と獲得している日本車がある。日本で十番目に生まれた自動車メーカー、光岡自動車だ。主に日産の市販車をベースにカスタマイズした車両を販売する光岡自動車は、ここタイでは3つの車種を販売している。2人乗りオープンカーの「ヒミコ」、クラシック型セダンの「ガリュー」、コンパクトセダンの「ビュート」。それぞれ独特のデザインで、存在感は抜群だ。

2015年8月、富裕層の子弟が多く通うバンコク大学で、光岡自動車は車の展示イベントを開催。車をバックに自撮りする学生が続出した。 ミツオカモータータイランドのゼネラルマネジャー・平野葉流架氏は言う。 「タイはヨーロッパの文化が入っているためか、クラシックカーに対して拒絶反応がないんですね。注目されたいという意識も強く、見るからにクラシックな車が売れる。『人目を引きすぎると恥ずかしい』という日本人とは対称的です」

乗るからには目立ちたい。関心を集めたい。それは本当なのか。光岡自動車のユーザーに実際に聞いてみた。 5年前にモーターショーで見かけて以来、「ガリュー」が気になっていたというチラポンさんは、今年ようやく購入を決意。現在、納車を待ちわびているところだ。といっても予算の工面がつかなかったわけではない。工面がつかなかったのはお金ではなく駐車スペース。機械メーカーの社長を務めるチラポンさんは、ベンツ2台にプジョー、シボレーの計4台を所有する超リッチマンだ。

「ベンツは誰でも持ってるでしょ?」
「少し迷っていましたが、やっぱり買ってよかった。ベンツはどこにでもある車ですが、『ガリュー』はそうじゃない。とてもラグジュアリーなので、フォーマルなイベントに出かける際に利用するつもりです」 「ガリュー」購入にあたっては、車体の色は黒、内装はベージュ、サンルーフ付きの仕様に変更した。いずれも自身の好みを生かしたカスタマイズオーダーだ。「内装についてはリアルウッドのパネルやハンドルに変更することも考えています」とチラポンさんは楽しそうだ。

「ビュート」を愛用しているマダム、チダーパーさんにも話を聞くことができた。 「ビュートで走っていると、皆、こちらを見るのよ。ヴィンテージ感のあるクラシックなデザインが目立つので、本当に気に入っています。ほかの車? ベンツも持っているけど、もうありふれちゃって、誰でも持ってるでしょう? その点、ビュートは希少で、注目度は高いですよ」 チダーパーさんの愛車は
クリーム色の「ビュート」。「ベンツ」も所有しているが、現在のお気に入りは圧倒的に「ビュート」だ。

そう言いながら、外装はクリーム色、内装は真紅の色でカスタマイズした「ビュート」に乗ってチダーパーさんは笑顔でポーズを取ってくれた。ベンツは誰もが持つ車ではないが、光岡ユーザーの常識では「持っていて当然」なのだろう。光岡自動車が、タイのマーケットで独自のポジションを確立し始めているのは間違いないようだ。内装は、チダーパーさんの好みを反映して真っ赤に統一。今日はバッグも内装の色に合わせてコーディネート。タイの中間層がターゲットの「ビュート」。価格も手頃でデザインもカジュアル。日本ではこのモデルが一番人気がある。

頓挫した最初の挑戦
だが、その突出した個性ゆえに、容易に成功をつかむことができたかというと、それは違う。光岡自動車がタイに進出して5年。当初掲げていた計画は頓挫し、なかなか受注に結びつかない時期が長かった。 実は、成果が出始めたのは今年、2015年に入ってからだ。マーケットを絞り、あえて工場の機能を縮小し、サービス全般を見直す中で光が見えてきた。 2010年9月、光岡自動車はタイの車体組み立てメーカー・ヨントラキットと合弁会社を設立。初の海外生産に乗り出した。

タイを拠点にしたのは、タイ国内での販売を開始すると同時に、FTA(自由貿易協定)を利用してASEAN域内への輸出を促進するためだ。だが、計画はもろくも崩れ去った。タイの工場の責任者として赴任した平野氏は振り返る。 「当初はタイで生産した車の8割をシンガポールやマレーシア、インドネシア等に輸出しようと考えていました。合弁先も、『近隣諸国のディーラーが買ってくれますよ』と景気の良いことを言ってましたし(笑)。

 

 

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2015年09月24日

犬の平均寿命は30年で約2倍に!知られざる超高齢化の実態

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http://diamond.jp/articles/-/78393

ペットが家族の一員として、大切に育てられるようになった現代。買い主の愛情に呼応して、ペットの寿命は人間同様に伸び、高齢化も進んでいる。その背景には、食事、医療、運動など、様々な要因があり、人間並みの商品・サービスも目白押しだ。そんな、ペットの健康事情の実態と背景をレポートする。

犬は14.17歳、猫は14.82歳 平均寿命が延びた最大の理由は?
適正な栄養と運動、充実した医療が犬の長寿命化を支えてきた 筆者が幼少期を過ごした昭和40年代の田舎町で、犬といえば重たい鎖に繋がれ、庭の片隅で来訪者を威嚇する「番犬」であった。室内犬は「座敷犬」などと呼ばれ、お金持ちの象徴として犬とは違う生き物として存在していた。猫は、飼い猫というよりあたりを彷徨う野生動物。時々天井裏に放り込まれ、ネズミ退治を用命されるなど、現代との立場の違いに愕然とさせられる。

さて、そんな犬猫は現在どのくらいいるのだろうか。一般社団法人ペットフード協会の資料によると、平成26年犬の飼育頭数は1034万6000頭、飼育世帯は15.06%にのぼる。猫は同年995万9000頭、飼育世帯は10.13%。平均寿命は犬14.17歳、猫14.82歳だという。同協会の会長である石山恒氏によると「昭和58年の独自調査では、犬の平均寿命は7.5歳」というから、ここ30年で倍近い延びをみせていることがわかる。その背景として、まず食事があげられよう。

冒頭に紹介した番犬の時代。与えられた餌は、家族の食事の残り物であった。人間の食べ物では、味が濃過ぎる上、栄養バランスも悪いのが当然。ドックフードやキャットフードなど、犬や猫にとっての栄養バランスを考慮した専用フードは、いつ頃普及したのだろう。「昭和62年の時点でドックフードの定着率は20.9%、キャットフードが32.6%。以降、急激に普及して現代では双方とも90%を超えています」(石山氏)専用フードの普及が、犬猫の平均寿命の伸長に与えた影響は大きいといえる。

次に医療の充実。農林水産省の資料によると、動物病院の数は平成25年で1万1032施設。平成16年時は、9245施設だったので近年急速に増えていることがわかる。感染症予防は万全、健康診断もあたり前。血液検査、尿検査、糞便検査、レントゲン、超音波など、検査項目も人間並みである。動物病院の増加と共にペット保険の登場も犬猫の健康増進に大きく貢献したといえるだろう。ちょっとでも気になることがあるとすぐに病院。今や待合室はさながら人間の病院並みの混雑ぶりである。ペット専用ジム、老犬ホームも急増中
さらに、運動施設も多様化の一途をたどっている。ドッグランはもちろん、専用プールを使った泳ぎ方教室、ランニングマシンやバランスボールを使ったストレッチジム……効果的な運動プログラムで、メタボを解消しようとおじさん犬が汗を流している。また、犬の場合「長い年月を経て様々な改良を重ねてきた歴史があり、皮膚トラブルや四肢障害など、特定のトラブルが特定の犬種に出る傾向にある」と、石山氏。こうしたトラブルの改善及び予防などを目的としたドッグハイドロセラピーという施術が注目されている。

ドッグハイドロセラピーなど新しい施術も登場、犬の健康産業は広がるばかり
ドッグハイドロセラピーは、セラピストと犬が一緒に専用プールに入り、水の抵抗力や浮力を利用し、関節や弱った部位に負担をかけずに筋力を活性化する。そのため、老犬や手術後のリハビリが必要な犬、関節等にトラブルを抱えた犬、さらにダイエットやストレス解消、運動不足、老犬の筋力維持など、様々な目的で活用されている。中目黒にあるJ'ONEは、ドッグハイドロセラピーの第一人者といわれる“J”アントニオが主宰する施設とあって、3ヵ月先まで予約でいっぱいだとか。

「運動不足や生活習慣病、精神的にストレスを抱えている犬が増えています」と、同施設のトップセラピスト諸岡貴子氏。アロマを使った独自のセラピーも人気というから、人間社会そのものだ。いま、日本の犬は人間同様に7歳以上の高齢犬が53.4%を占める超高齢化社会。年老いた犬を預かり、食事や排泄、投薬などの介助を行う老犬ホームも急増中である。今後、胃ろうによる寝たきり老犬の増加、なんてことにならないよう願ってやまない。

 

 

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2015年09月23日

デング熱感染者が出た代々木公園は今   No2

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日本では今年もデングに感染した蚊は1匹も見つかっていませんが、ヒトの方は今年だけですでに、174例(8月30日現在)もの輸入感染例が確認されています。

――デング熱は人から人へとはうつらない
インフルエンザやエボラ出血熱などとは違って、「ある人がデングのヒトと濃厚接触したところで感染しない」というのは事実なのですが、デング熱に罹っているヒトをヒトスジシマカが刺し、同じ蚊がさらに別のヒトを刺せば、その人がデング熱に罹る可能性はあります。そのため、専門家の中には「一人出てくればネズミ算式に広がる」「デング熱はいつ流行してもおかしくない」と言う人もいましたが、今年は、ネズミ算どころか、国内でデング熱に罹った人は一人もいません。

割合は不明ですが、デング熱には「罹っていても症状の出ない人」が相当数いると言われています。また軽症では風邪とよく似た症状を示すため、デング熱以外の病気として診断されている人もいると言われます。 発症しなかったのか別の病気と診断されたのかは不明ですが、昨年、海外でデング熱に罹って帰国した人をヒトスジシマカが刺し、さらに別の人を刺したことが国内でのデング熱患者発生につながったと推測されています。

しかし、私にはデング熱が日本でネズミ算式に広がり、「流行」といわれる状況になるのは、一定以上の割合で蚊と人、特に蚊の方がウイルスを持つようになったときであると考えています。 また、「蚊にデングをうつす人」というのもデング熱に罹った人全員ではなく、デング熱の症状を現し、血液中のウイルスが相当量に達している状態の人であると推測しています。 ここに昨年の国内感染者160名のリストがありますが、そのほとんどが代々木公園やその近辺に行った人です。また、去年も今年もデング熱になった人の家族や友人が蚊に刺されてデング熱になったというような話は1例も聞いていませんね。

黄熱病やウエストナイル熱も蚊が媒介に
世界には蚊が媒介する病気が色々とあります。 デング熱やマラリアもそうですが、ワクチンのある日本脳炎や黄熱病、そして、ウエストナイル熱などのほか、マイナーな病気を含めるともっともっとあります。これまで、デング熱を媒介する「ヤブカ」ばかりを目の敵にしてきましたが、日本にもいるコガタアカイエカやアカイエカなどの「イエカ」は日本脳炎やウエストナイル熱などを媒介します(ただし、ウエストナイル熱はヤブカも媒介します)。東京都のサーベイランスで捕集した蚊からは、これまでも蚊が媒介する主要な病原体の遺伝子は検出されていません。

が、それでも昨年は、そもそも蚊の調査をしていなかった代々木公園からデング熱が出ました。 グローバル化や温暖化が進み、デングの蚊もデングのヒトも国際的流入を止めることができない以上、暗がりで楽しんでいたら「今度はウエストナイル熱に感染した」という可能性もゼロではありません。 ウエストナイル熱は1999年に初めて米ニューヨークで確認され、その後、2000年、2001年と南部21州にまで感染が拡大した病気です。そもそも、東京都が2001年に蚊の調査を始めたのもウエストナイル熱を警戒してのことでした。

世界で一番人間を殺している動物は蚊、二番目がヒトです。 世界には3000種類以上もの蚊がいますが、蚊は人間の知らない病原体をまだまだ持っており、種類を問わず、刺されないことが非常に大切です。みなさま、外で女性を口説くのなら、必ずや虫よけ対策を。そして、夜の公園では暗がりでも薄明かりでも蚊にご注意を。 「デング熱の処方箋・その3」。蚊のことばかり考えすぎて、ちょっと蚊に刺されるのも快感になってきた、村中璃子がお届けしました。 

 

 

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2015年09月22日

デング熱感染者が出た代々木公園は今   No1

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今年の代々木公園には「蚊がいない」と評判です。 昨年は70年ぶりとなるデング感染者を国内で初めて出し、一時期は立ち入り禁止となった代々木公園。殺虫剤が撒かれた後も、しばらくは人が寄り付かなくなっていたあの代々木公園が、です。事実関係を確認するために、本当に蚊が減っているのかを調べてみました。 東京都では2001年から「感染症媒介蚊サーベイランス」を実施しています。以来、毎年6月から10月までの期間、公園や霊園・植物園など蚊が生息する都内16施設で、蚊を捕まえては、その数を調べたり病原体の有無を調べたりしてきました。

さらに、今年からは、代々木公園、日比谷公園、上野恩賜公園など、都内にある9つの大型公園をサーベイランス施設として追加。全部で25カ所の蚊についてモニタリングしています。 まずは従来の16施設における昨年までと今年の蚊の数。去年と今年ではほとんど数が変わらず、各観測地点での蚊の補足数は数十から数百匹。何もしなくても、時期がくると一桁オーダーで蚊の数が変わるのが興味深いですね。 <感
染症媒介蚊サーベイランスの結果>

一方、こちらが代々木公園を含む新たな9施設の蚊の数。ほぼすべての観測地点と観測時点で、その数は「ゼロもしくは一桁」で推移しています。<デング熱・チクングニア熱媒介蚊サーベイランスの結果>
どうやら、「今年の代々木公園に蚊がいない」のは事実。 しかも、日によっては“ディズニーランド並み”のようです。  まさか、代々木公園は本当にディズニーランドを見習ったのでしょうか。 

東京都ペストコントロール協会会長の玉田昭男氏によれば、「それは昨年の9?10月に薬剤を散布し、越冬する蚊を駆除したから」。 蚊の発生を防ぐには、成虫が卵を産む秋口の蚊を駆除して、翌年の蚊の発生を防ぐことが非常に有効です。新たなサーベイランス地点に加えられた9つの大型公園は、いずれも「昨年、秋に薬剤を散布した場所」。

発生してから駆除するのもいいですが、前年の殺虫剤に勝るものはありません。 しかし、都としては、デング熱など病気を持った蚊が見つかった場合のみ、薬剤を散布するというスタンス。今のところ、蚊が多い従来の16施設での薬剤散布の予定もありません。日本にいる100種類以上の蚊のうち、デングを媒介するのはヒトスジシマカ。北海道と青森を除く日本中に生息する、あの白黒の「ヤブカ」と呼んでいる蚊です。 

「酔いにまかせて夜更けの公園で女の子を口説いていたら、彼女の足も自分の腕も蚊に刺されまくった」そんな経験があり、都内の公園でデング熱感染者が出たというニュースを聞いて、内心ヒヤッとした人もいるのではないでしょうか。 本コラム(「デング熱の処方箋・その1」)でもお伝えした通り、蚊が引き寄せられるのは、体温・汗・呼気の3つ。体温もテンションも高く、息も荒いとくれば、夜の公園でカップルが蚊の格好のターゲットになるのは仕方のないことですが、そんな時にもうひとつ知っておきたいのは、蚊によって異なる性質です。

夜の暗がりなら安全?
蚊には大きく「イエカ」と「ヤブカ」の2種類があります。 夜、耳元にブーンと来てヒトの血を吸うのは、夜に活動性の高い「イエカ」の仲間。 ヒトスジシマカなど「ヤブカ」の類は、昼間から夕方の日中に活動性が高く、昨年、代々木公園で最初のデング熱患者となった学生さんがデングウイルスを持つ蚊に刺されたのも日中の出来事でした。 ――「ヤブカ」は原則、夜にヒトを刺すことはない。 ならば、私も「公園に行くならカップルはできるだけ暗いところでやって」とアドバイスしたいところです。

しかし、専門家の中には「電灯の下など明るいところではヤブカも刺す」という人や「生き物だから断定はできない」という人もおり、殺虫剤の開発等とは直接関係の無い蚊の生態については、驚くほど分かっていないことが多いらしいのです。結局、夜更けの公園であなたを刺したのは、デング熱とは関係のないイエカ?  それとも、灯りに引き寄せられて現れ、昼
間と勘違いして刺したヒトスジシマカ? その答えは簡単に出そうにありません。 現時点で注目すべきは、デングの蚊ではなく、「デングのヒト」の方です。

 

 

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2015年09月21日

なぜディズニーランドには蚊がいないのか

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http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/082600030/083100002/

東京ディズニーランドは今日も多くのお客さんで賑わっています。長時間の順番待ちもなんのその。色んな味のポップコーンをほおばりながらパークを歩き、ミッキーマウスと写真を撮り、パレードを見て、夜空に花火が上がる時間までいてもまだまだ遊んでいたい、いつもと違う「夢の国」。 それにしてもです。 まだまだ暑いのに「あれ?」と思ったことはありませんか。 どこにもビールを売ってない  思わず同意してしまいそうになりますが、東京ディズニーシーの方ではアルコールを提供しており、ディズニーランド内にも会員制でお酒を飲める店が1軒あるそうです。

ディズニーランドには蚊がいない
そう、ないのはビールではなくて蚊です。というわけで、前回に続いて、デング熱とそれを媒介する蚊のお話です。 この話、一部のディズニーランドファンの間では以前から有名らしいのですが、本物ではないにせよ、ディズニーランドにはジャングルさながらの川や森、水を使ったアトラクションがたくさんあります。蚊の大好きな人間もうんざりするほどいるのに、どうしてなのでしょうか。 

ディズニーランドを経営するオリエンタルランドのウェブサイトによると、「オリエンタルランドでは、自主的に排水の浄化処理を行うとともに、水資源のリサイクルに取り組んでおり、テーマパークの水域や水を利用したアトラクションには、ろ過装置を設置し、水を効果的に循環させることで、その水質を維持管理している」とのことです。

昨年は、70年ぶりに国内でデング熱患者が発生し、ウイルスを媒介する蚊のコントロール方法が改めて注目されました。 オリエンタルランドの広報担当者にも確認をとると、「水の浄化・リサイクルシステムはデング熱などの対策として導入した施設ではありませんが、結果的に蚊を発生しにくくしているのではないかと思います。また、蚊が完全に発生しないわけでありません」との回答が返ってきました。

このところ、私もにわかに蚊に詳しくなりました。 詳しくなった、といってもたかが知れていますが、「私は事務方なので担当者を」などと謙遜しているオジサマ方がなべて蚊に詳しく、何でも教えてくれるという驚きの経験が続いています。 そんなオジサマのひとりに教えてもらったのが、蚊が好むのは「動きのない水」だということ。 排水升や雨水升、放置された空き缶・コンビニ袋、通気口の隙間、タイヤ内の水たまりなどだけではなく、「竹の切り株」や「墓地の花立」など、思わぬところに蚊は卵を産み、ボウフラは発生します。

お墓に出るのは 蚊と幽霊 ひんやり涼しくなりますね。 “動きのある水”から蚊は発生しない
東京都の公園の害虫対策などを請け負う、東京都ペストコントロール協会によれば、「公園でも噴水や小川など“動きのある水”から蚊が発生することはなく、排水枡や木のくぼみに溜まった水などから発生します。どんなドブ川であっても、流れがあれば蚊はいません。ただし、池など動きのない水であっても魚がいれば大丈夫。一般家庭から『池から蚊が発生しているがどうしたらよいか』という問い合わせがあった場合、まずは魚を飼うようにアドバイスします」

なるほど、もしも蚊がわく池があれば、噴水に変えるか、金魚や鯉を飼えばいいわけです。けれども、今のところディズニーランドの川に鯉や金魚がいる気配はありません。昨年は「代々木公園もディズニーランドの浄水システムを見習えば?」という記事もたくさん出たようですが、実際のキモはとてもシンプル。 ディズニーランドに蚊がいないのは、水のリサイクルに伴う「水の動き」があるからです。 特殊な浄水システムは必要ありません。 ディズニーランドからはやや話がそれますが、蚊の個体数を左右する重要な条件がもうひとつあります。それは背の低い植え込みや植物などの量です。

一般に蚊の行動範囲は「低く」、地上から1メートル以下。日ごろは丈の低い草の後ろ側に止まって隠れており、動物が通って草を揺らすのを感じたり、動物の体温・汗・呼気などを感じたりすると、飛んで行って血を吸います。 だから、公園や庭でも、低いところのヤブや下草を刈ることが有効。高いところの木を切っても、蚊の対策としてはあまり意味がありません。 蚊を減らしたければ、蚊が卵を産む場所と住む場所の両方を無くせばよい。 つまりは、「手入れの行き届いた庭」をつくれば、蚊は発生しにくいのです。

ただし、ツツジなどの植え込みや、盆栽・植木鉢には要注意。 たとえ、手入れが行き届いていても、背の低い草木の陰は、蚊の格好の隠れ家です。

 

 

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2015年09月20日

南部鉄器の伝統を守りながらカラフルな急須を開発し、海外進出を加速    No3

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海外進出当初は、主に日本好き、東洋好きの人々に置物として購入されていたイワチューだが、現在では生活の中で楽しまれるようになったということだろう。

重厚で優しい鋳肌を活かして着色したカラフルな南部鉄器
作り方は変えないし、海外でも作らない。 クリスマスシーズンは通常の2倍ほども販売量が増える。プレゼントとして購入する外国人が多いからだ。自分で使った上で、よい品物だと思うから人に贈るのだろう。鉄器は大切に使えば、孫の代まで長持ちし、使えば使い込むほど味が出てくる。それがまた、ヨーロッパ人に好まれるのだという。  長く使うからこそ、急須の中に石
灰がたまったり、メンテナンスの必要も出てきたりする。その時、しっかりとした対応ができるように、岩清水は信用のある代理店を通して売っている。

「私たちの製品は大量生産できるものではありません。もちろん、現地の人々の好みや生活スタイルなどを取り込んだデザインを工夫していますが、どんなに売れようとも作り方は変えないし、海外で作ることもありません。
海外で作られたコピー商品もヨーロッパで出回っていますが、外見は似ていても中身は全く違う。だから、小売店を見て回ると、日本製を扱う店とそれ以外の店は明確に分かれています。購入するお客さんの層が違うからでしょう。その点ではコピー品は怖くありません。日本の伝統文化の質を守っていくことが私の仕事です」

海外に出ていなかったら今の岩鋳はない
最近では海外で岩鋳の急須を見た日本人観光客が、日本製と知って驚いて帰国後に注文するケースも少なくない。カラフルな急須が国内でも話題になり始めている。  「もし、思い切って海外に出て行ってい
なかったら今の岩鋳はなかったでしょう。やはり、基本がちゃんとできているからこそ、新しいことにも挑戦できたのだと思います。もちろん、今後も伝統文化は絶やさず守っていきます。その上でさらに新しいことを手がけていきたいですね」と、岩清水は祖父、弥吉の遺志をしっかりと引き継いでいる。

伝統を守りながら、革新を続けてきた岩鋳では現在、職人のなり手も多く、若い人が入社してくる。60歳のベテランを筆頭に、50代、40代、若手と6人の職人が伝統工法を守っている。今どきの姿格好の若者たちだが、熱心に鉄器づくりに取り組んでいるという。
 「昔は若い人の定着率が悪かったですが、今は長続きしています。地元で伝統工芸やものづくりが好きという若者も増えているようです。

鉄器づくりは1500度もの鉄を鋳型に注ぐなど危険な作業があるので、決して事故を起こさないように残業はさせず、休日はしっかり取ってもらうことを原則にしています。職人には健康第一で早く技術を身につけてほしい。しかし、いくら腕のいい職人を育てても、売り方を工夫しなければ会社として存続できません。それはもったいないことです。伝統産業だろうと、製造と販売のバランスを取ることが重要だと思います」

以前から国内向けにもデザインや大きさを変えたりIHクッキングヒーターにも使えることをアピールするなど、工夫してきたが、革新的な変更はできなかった。海外からの要望に耳を傾け、あえて挑戦したからこそ、カラフルな急須が生まれ、それが逆輸入されて日本でも人気になった。岩清水の伝統と革新への思いはさらに熱を帯びている。

 

 

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2015年09月19日

南部鉄器の伝統を守りながらカラフルな急須を開発し、海外進出を加速    No2

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海外進出もこうした弥吉の先見性から始まった。1960年代後半に、弥吉の弟である当時の専務が製品を抱えて船に乗り、ヨーロッパに渡って1カ月間売り歩いた。当時は微々たる量だったが、それでも日本や南部鉄器に興味を持つヨーロッパ人が鉄瓶や急須を求めて、岩鋳は国内と同じ製品を輸出していた。  岩清水が岩鋳に入社したのは1993年。それまで印刷会
社に勤めていた岩清水は、製造の現場で勉強した後、海外事業を担当するようになった。


転機となったのは、その3年後の1996年頃のこと。パリの紅茶専門店から岩鋳に「カラフルな急須を作ってほしい」という依頼があったのだ。だが、鉄器は黒いのが当たり前で、岩清水も職人たちも戸惑った。そんなものを作って、本当に売れるのかという不安もあった。 「鉄器は“鋳肌(いはだ)”と呼ぶ鉄の素材感をいかに出すかが重要で
す。鋳肌を活かしつつ、カラフルな色を出すのには苦労しました。しかし、そもそも黒色も着色ですから、色のバリエーションを増やすだけです。職人さんから反発があったということはありませんでした」

3年かけて着色法を開発
岩鋳の職人たちは3年かけて、着色法を開発。ウレタン樹脂を吹き付け、食品用顔料を使ってカラフルな着色を実現した。「急須で入れたお茶は口に入るものですから、安全性のために食品用の顔料を使っているのです」と岩清水は説明する。内側はフタの裏までホーロー引きだが、カラフルといえども鋳肌はちゃんと生きており、南部鉄器としての重厚さを保っている。  製品開発後、依頼
先の紅茶専門店に納めたところ、一躍ヨーロッパで人気となり、さらにアメリカにも上陸、最近では中国などアジアへも輸出している。

「現在は15カ国程度に輸出しています。年間売上(10億円)は国内と海外で半分ずつになりました。欧米では急須が最も売れており、国内の一般的な急須より一回り大きいものが人気です。ヨーロッパの方がアメリカよりカラフルな製品を好みますが、黒は基本的に根強い需要があり、他の色はまんべんなく売れています。中国では急須より、伝統的な鉄瓶が売れていますね。輸出の際には、壊れたりしないように梱包にも気を遣っています」と岩清水。

現在、ヨーロッパ、アメリカ、中国、韓国、シンガポールに代理店を置き、代理店各社とも長い付き合いが続いている。岩清水は年に数回海外にわたり、代理店と緊密にコミュニケーションを取りながら、現地のニーズを吸い上げるようにしている。

ホームパーティーで様々な急須を楽しむ
海外向けの製品は岩鋳の専任デザイナーがデザインしているが、海外デザイナーが南部鉄器に興味を抱いて特別にデザインした製品もある。ニューヨーク近代美術館の喫茶スペースでは伝統的スタイルの急須「曳舟」が採用された。現在は使われていないが、これはデザイン性と実用性の高さが認められた結果である。急須だけでなく、シチューパンや鍋などキッチンウエアも少しずつ海外で売れるようになった。
海外では国内より価格が約2倍半は高くなる。

国内で6000円ほどの売れ筋の急須が、1万5000円程度になる。決して、安い値ではない。基本的に紅茶用のティーポットとして使われており、下からローソクで温めながら飲む。 「欧米では、色と形を変えながらい
くつも急須を使うお客さんが少なくありません。調べると、岩鋳の急須はホームパーティーで話題として盛り上がるらしいのです。パーティーのたびに色や形の異なる急須で楽しんでいるのでしょうね。ヨーロッパらしい楽しみ方だと思います」

 

 

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2015年09月18日

南部鉄器の伝統を守りながらカラフルな急須を開発し、海外進出を加速    No1  

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https://www.blwisdom.com/lifeculture/interview/innovators/item/9580-12/9580-12.html?mid=w471h90200000995646&limitstart=0

17世紀の中頃、南部藩で茶の湯釜を作らせたことから始まった伝統の南部鉄器は、黒光りする渋い鉄瓶が有名だが、南部鉄器の工房の一つである岩鋳の副社長岩清水弥生は、伝統を守りながらもカラフルな急須で海外進出を加速。今では、「イワチュー」として親しまれている。

欧米で大人気の「イワチュー」とは
いま、カラフルな南部鉄器の急須が欧米で人気を呼んでいる。赤や緑、オレンジ、白色など30色もの急須をティーポットとして楽しむのが欧米人のおしゃれな趣味になっている。これらの南部鉄器は「イワチュー」と呼ばれている。
イワチューとは、盛岡市で南部鉄器の工房を営む明治35年創業の工房「岩鋳」である。伝統の手作りを守りながら、同時に合理化・自動化できる部分は機械を使って年間約100万点にのぼる鉄器を生産しており、南部鉄器では最大規模の生産量を誇る。

岩鋳の代表取締役副社長で、ゆくゆくは4代目を継ぐ予定の岩清水弥生(45歳)は、こう語る。  「当社は明治35年の創業で、112年目を迎えますが、南部鉄器の工房として
は若い方です。曾祖父が創業した当時は盛岡市内で200軒ほどの工房があったようですが、現在は当社を入れて14軒になりました」  南部鉄器は17世紀中頃、南部藩が京都から釜師を招き、茶
の湯釜を作らせたのが始まりだ。以後、南部藩は鉄器づくりを奨励、17世紀には茶釜を小型化して鉄瓶を生み出し、南部鉄器として全国に知られるようになった。

南部鉄器から溶け出す鉄分は人が吸収しやすい二価鉄が多く含まれていることから、貧血予防に効果があり、鉄瓶で沸かしたお湯はカルキを除去するので水道水でもおいしい水に変わる。このような効能も日本で長く愛用されている理由のひとつだろう。
鉄瓶を作る工程は60以上、ほとんどが手作業という手間の掛かる製品である。1人で全工程をこなせるような一人前の釜師になるには最低15年、鉄瓶などに釜師の名を付けられるようになるには30〜40年もかかる。 釜師になると、自ら
デザインし、鋳型を作り、

文様を施し、鋳込みから着色まで行う。ちなみに、もともと銀色の鉄器が味わい深い黒色を帯びるのは、漆を焼き付け、鉄さびと茶汁を混ぜ合わせた「お歯黒」を塗るからだ。 こうした工程を他の工房と協力して
分業で行っている場合もあるが、岩鋳では社内で一貫して生産しているのが強みだ。「一貫生産だからこそ、様々な工夫や新製品を開発することができるのです」と岩清水は言う。鉄瓶を作る工程は64から68で、そのほとんどが手作業だ。写真は鋳込みの終わった鉄器を再度炭火で焼く「釜焼き」。これによって酸化被膜がつき、さび止めになる。

パリの紅茶専門店から「カラフルな急須がほしい」
岩鋳は祖父の弥吉が、鉄瓶だけでは南部鉄器の将来がないと、新製品開発を進めたことで発展してきた。1960年代から機械化を進め、すき焼き鍋や企業向けなどの記念品として灰皿も開発した。そうした姿勢に南部鉄器の伝統をないがしろにするものだと批判する同業者もいたが、弥吉には「仕事がなくなったら伝統も何もないし、職人も守れない。鉄器を広く知ってもらうことが必要だ」という信念があった。

1968年には観光客が製造工程を見学できるようにし、見学者に食事を提供するレストラン施設も開業、製品を売る店舗も作った。東北新幹線が開通してからは岩鋳が観光コースに組み込まれ、南部鉄器を広めることに貢献した。現在、「岩鋳鐵器館」として、展示ギャラリーや伝統工法による製造工程を見学できるコースを設け、多くの観光客を集めている(東日本大震災以降、集団客が減少したことから、現在レストランは閉鎖されている)。

 

 

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2015年09月17日

なぜ「寝かせた肉」はおいしいのか?    No2

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http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/44699

やわらかさや香りが熟成肉のカギ
牛肉のラベルには「A4」や「A5」などと記されているが、これは国産牛を枝肉で取引するときの規格による格付けである。国産牛には和牛と交雑牛、乳牛があり、格付けは、むだなく肉が取れる割合である歩留まり等級のA〜Cと、肉質等級の1〜5の組み合わせで分類されている。 「格付けは、おいしさの指標ではありません。たとえば、黒毛和牛は一般的に骨が細いので歩留まりがよく、等級はAとなります。肉質等級は脂肪交雑の仕方、つまり霜降りかどうかなどで決まるので、どんなにおいしくても赤身肉ならランクは下がります。

あくまでも好みの問題なんですよ」と中島さんは言う。枝肉の格付け。歩留まり等級は、Aが標準より歩留りがよく、Bは標準、Cは劣るもの。肉質等級は、脂肪交雑、肉の色沢、肉のしまりときめ、脂肪の光沢と質から評価する。 そもそも肉のおいしさは何で決まるのだろうか。

「うまみという味のベースに加え、肉のやわらかさや脂肪と一体となった舌ざわりが牛肉特有のおいしさをつくります。それに香りも重要な要素です」と、肉のおいしさを研究する日本獣医生命科学大学教授の松石昌典さんは話す。松石さんらは、和牛のおいしさに関わる甘いコクのある香りを見つけ、「和牛香(わぎゅうこう)」と名付けた。和牛香は、脂肪と肉が接する部分、つまり霜降り部分で生成するという。 例えば、霜降り和牛は赤身の中に脂肪が入り込んでいるので、肉はやわらかい。

高級な霜降り和牛なら、霜降り部分には約50%も脂肪が占めるので、口の中で肉はとろけ、それと同時に好ましい香りが広がり、格別のおいしさを感じるのである。 ところが、熟成肉のやわらかさや香りは、別物だという。「熟成肉のおいしさは、うまみが増すこともありますが、独特のやわらかさや熟成肉特有の複雑な香りの要素が大きいです」 先に述べたように肉は解体直後に硬くなり、その後やわらかくなるが、熟成肉では、長時間熟成させることでその程度が大きくなり、さらに、やわらかさが増す。

「長く熟成させると筋肉の構造が大きく緩んでくるのです。すると、霜降り和牛とは異なる、ふわっとするような、独特のやわらかさになります。また、複雑な熟成肉の香りには、微生物の働きによる発酵臭が含まれています。ただし、熟成肉の香りは好みが分かれるようです」と、松石さんは説明する。

ブームに終わらず定着するには
日本人の牛肉の消費量は、高度経済成長期から増加を続けてきたが、いまは横ばい状態だ。そのため、多くの食肉関係者は熟成肉に期待を寄せている。食肉加工メーカーであるスターゼン広報IR室室長の海老原俊司さんも「熟成肉という新しいジャンルができれば、消費者の選択肢が広がる」と話す。 「ただし、熟成肉は普通の牛肉とまったく取り扱いが異なります。肉の特性を熟知していないと事故につながりますから、加工業者も消費者も正しい理解が必要です。素人が熟成肉をつくろうなどしては危険です」と前出の中島さんは釘をさす。海老原さんも「信頼できるお店で熟成肉を食べたり購入したりしてほしい」と話す。

熟成肉のブームはいつまで続くのか、そして、熟成肉は私たちの食生活に定着するのだろうか。熟成肉の今後のゆくえが気になるところだ。 最後に中島さんが「熟成肉では、たれやソースはあま
り使わず、塩味でじっくりと肉の旨味を味わってください」とアドバイスしてくれた。そこで、熟成肉の塩味のステーキを試してみることにした。街に出ると、ドライエイジングビーフの専門店には人がいっぱい。さらに、別のバルも予約で満席で、人気のほどがうかがえた。

そこで、デパートの地下食品売場へ行ってみると、ドライエイジングビーフ協会の認定証を掲げた専門店に、赤身とサーロインステーキの2種類の熟成肉が並んでいた。筆者がデパート地下食品売り場で買い調理した熟成肉。部位はサーロイン。 購入した肉からは、経験したことのない甘い香りが漂う。焼くと香ばしい香りに変わった。「これがナッツの香りか」と思いつつ口の中へ。確かにやわらかいし、口の中に残る味も、いままでのステーキと違うものを感じた。

熟成は、安い赤身肉でもおいしく食べることができるよい方法だ。ただ、熟成肉を食べてみたが期待外れだったという声も聞く。確かな品質の熟成肉が出回るなら、肉のジャンルの1つとして確立しそうだ。

 

 

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2015年09月16日

なぜ「寝かせた肉」はおいしいのか?    No1

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http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/44699

「熟成肉」の人気が高まっている。まだ食べたことはなくても、気になっている人も多いのではないだろうか。また、熟成肉がどんな肉かをあまり知らずに食べている人もいるかもしれない。かくいう筆者も気になるけれど、これまで食べたことがなかった。熟成肉とはどんな肉なのかを探ってみた。

熟成肉ブームが到来
ステーキハウスや焼肉屋の店頭に「熟成肉」の文字が並ぶ。牛丼チェーン店でも熟成肉を使ったメニューが登場した。 熟成肉とは、より長く寝かせた肉のこと。熟成していない肉に比べて旨味や風味が増している上に、肉はやわらかい。 欧米で熟成肉は「エイジングビーフ」としてよく知られたメニューだ。日本での熟成肉ブームは、食肉販売業の日本人がニューヨークのステーキハウスで、肉を包装せず、専用冷蔵庫で風を当てて水分を飛ばしてつくる「ドライエイジングビーフ」を食べたことに端を発する。

「これはおいしいし、目新しい」と目をつけ、数年前に技術を取り入れたことで日本でも火が付いた。 なお、ウェットエイジングという方法もある。これは肉を布でまいたり、真空包装をしたりして冷蔵庫で保管する方法だ。どちらの製法も酵素の働きによりタンパク質が分解し、アミノ酸やペプチドに変化することで、旨味が増す。

「熟成肉」の定義とは?
「肉は腐る直前がおいしい」というが、熟成肉は腐りかけの肉ではない。腐るとは、腐敗細菌が繁殖し、タンパク質などが分解されて悪臭や有害物質が発生すること。一方、熟成肉では、温度や湿度をコントロールして肉を寝かせることにより、腐敗細菌の働きを抑えつつ、肉が本来もつ酵素や有用細菌を働かせて肉の熟成を進めるのである。 ドライエイジングでは、水分を蒸発させるため、うまみが凝縮する。熟成後は、肉のまわりにびっしりカビが生え、表面の色も変わるが、外側をきれいに取り除くときれいな赤い肉が現れる。

「熟成香」とよばれるナッツのような独特な香りも生まれる。ただし、熟成と腐敗は紙一重。取り扱いが悪いと、あっという間に腐敗する。よい熟成肉をつくるには、細心の品質管理と熟練の技が必要だ。 「ドライエイジングでは、食用にできる部分の割合は50〜60%くらい。その上、手間もかかるので、価格が高いのです。ただ、現時点では熟成という加工について共通の定義はなく、会社により加工時の温度や湿度、さらに熟成日数もまちまちです」と、東京食肉安全検査センターセンター長の中島和英さんは話す。

現時点では、熟成肉の定義がはっきりしていないので、手間暇かけたドライエイジングビーフも、冷蔵庫で数日寝かせただけの牛肉も、「熟成肉」といえてしまう。人気の高まりを受けて多くの加工業者が熟成肉に参入しているが、味も衛生状態もまちまち。熟成肉が出回るほど、品質の差は広がり、粗悪な品では食中毒も出かねない。 そこで、農林水産省はドライエイジングビーフを日本農林規格(JAS)に加えた上で、製造方法などに一定のルールを設ける検討を始めた。今秋から検討を始め、早ければ来年度中にルールが決まる予定だ。

昔から日本にも熟成肉はあった
「日本でも、昔から『枝を枯らす』といって、肉を熟成させる方法はあったのですよ」と中島さん。枝肉(内臓を取り除き、背骨から2つに切り分けた状態の肉)を吊るしておいて、熟成させる。昔の肉屋の店先でよく見られた光景だ。 解体直後の肉は死後硬直により硬くなるので、肉がやわらかくなるまで普通の肉でも10日ほど吊るしておくが、枝枯らしでは、枝肉を1カ月から2カ月も吊るしておく。すると肉のまわりに白いカビがびっしり生えるので、食べごろを見極めて肉をおろし、カビを取り除く。肉の色は黒っぽくなるが、脂肪やすじ、肉が一体となっておいしさが増す。

肉の種類によってノウハウがあり、手間もかかるので職人技が求められるが、よりおいしく食べさせるための工夫だった。 一方、欧米では、硬い赤身肉をおいしく食べ、保存性を高めるための工夫がドライエイジングだった。「和牛ならランクの低い赤身の肉がドライエイジングに向いています。乳牛などでもいいでしょう。ドライエイジングは価格の安い肉に付加価値をつけることができるいい方法なのです」と中島さんは話す。

 

 

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2015年09月15日

絶滅危機のウナギは庶民の食卓に戻るのか     No3

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http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/44004

水産総合研究センターウナギ統合プロジェクトチーム(神奈川県・みなとみらい)の田中秀樹氏らがアブラツノザメの卵が餌として有効であることを見つけたことがターニングポイントとなり、2002年には、仔魚をシラスウナギにまで変態させることに成功。2010年には、長年の努力が実を結び、ついに完全養殖が実現した。とはいえ、これは実験室レベル。次の目標は、シラスウナギの量産化である。 これまでは、10リットル
のボール型の水槽に仔魚を飼育し、1日に5回、アブラツノザメの卵にビタミンなどを加え、ペースト状にした餌を与えていた。

餌を与えると、水が汚れるので、毎日仔魚をサイホンやピペットで新しい水槽に移しかえる。この方法は、大変な労力を伴う上に、得られるシラスウナギ1つの水槽に10尾程度だ。 「飼育システムを効率化し、シラスウナギを1万尾規模で安定生産できる飼育方法を開発しています」と同センター主任研究員の増田賢嗣氏は話す。水槽の形から、給餌方法や水槽の洗浄方法など各プロセスを詳細に検討し、地道な工夫を重ねることで、少しずつ飼育規模を大型化させた。その結果、2014年には1 トンの大型水槽での飼育が可能になった。この水槽
で2万8000尾の仔魚を飼育し、441尾をシラスウナギにまで変態させることができ、量産化への展望が大きく開けた。

「大型水槽での飼育に成功しましたが、実用化に向けては、生存率を上げることや飼育日数を短くすることが必要です」と同センター資源生産部部長の桑田博氏は話す。現在の飼育条件では、仔魚がシラスウナギになるまでに、10カ月ほどを要し、天然のウナギよりも時間がかかっている。生存率も実験レベルより低い。生存率が低く、飼育期間が長ければ、当然、飼育コストが高くなる。コスト削減は実用化に向けた重要な課題だ。さらに、アブラツノザメの漁獲量が激減し、エサの卵が手に入りにくくなっていることから、餌の開発も必要だ。

「量産化に向けて、手に入りやすい原料を探し、栄養価の高い新たな餌を開発しています」と桑田氏は話す。 「工業製品と違って、生物を量産する技術は本当に難しいです。まだ課題はたくさんありますが、一刻も早く安定的にシラスウナギを量産する技術を完成させ、生産現場で使ってもらいたいです」と増田氏。完全養殖の成功には40年もの年月がかかったが、シラスウナギ量産化に向けての技術開発は急ピッチで進んでいる。

ウナギが普通に食べられる日を待ち望んで
私たちが、ウナギを食べてきた背景には、需要のままにシラスウナギを獲り続けてきたことがあった。その結果、シラスウナギは激減してしまった。しかし、シラスウナギの量産化が実現すれば、これまでシラスウナギの不足で不安定だったウナギの養殖業も安定するだろう。天然のシラスウナギに頼る必要がなくなれば、私たちも安心してウナギを食べることができる。なんとも待ち遠しい話だが、しばし時間がかかりそうだ。先に述べたように、ウナギの減った原因は、乱獲の他にも自然破壊が進んだことで、天然ウナギの餌が減り、生息できる川が少なくなったことも考えられている。

ただ、ウナギの生態は複雑で、不明な点が多く、資源回復の糸口を見つけるのは難しい。そこで、日本だけではなく、中国や台湾などウナギをめぐる東アジアの国々が力を合わせてウナギを守っていこうという動きもある。このような資源回復の努力や、シラスウナギ量産技術の開発によって、ウナギが普通に食べられる日が来ることを期待したい。

 

 

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2015年09月14日

絶滅危機のウナギは庶民の食卓に戻るのか     No2

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http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/44004

全国ウナギの生産量と主要生産地。国内の養殖生産量は2万トン前後を推移してきたが、2013年は1万4200トンと大幅に減少。生産地の順位は2010年と変わらない。

もはやヨーロッパウナギでも足りない戦後、再びシラスウナギが不足したとき、中国に加え、台湾や韓国からもシラスウナギを輸入するようになった。1969(昭和44)年には、ニホンウナギとは異なる種のヨーロッパウナギの輸入も始まった。1970年代には台湾や中国で、ウナギの養殖が本格的に行われるようになった。豊富な水量や広大な土地、労働賃金が安いことから、日本より低コストでウナギを生産できる。これらの国ではウナギを食べる習慣はなく、全て日本人向けだ。 この頃の日本は、高度経済成長期の真っただ中で、ウナギ消費量もますます増えた。

すると、またシラスウナギが不足し、今度は中国でもヨーロッパウナギのシラスウナギを輸入し、養殖を始めた。中国や台湾で蒲焼に加工した製品も大量に輸入されるようになり、ウナギの生産は過剰気味に。価格は大きく下がり、私たちは安くウナギを食べられるようになった。ウナギが高級食から庶民の食べ物になったのも、本をただせばシラスウナギの不足に端を発するものだったのだ。 今ではヨーロッパウナギの資源も枯渇し、輸入が厳しく規制されることになった。ニホンウナギとヨーロッパウナギだけでは、もはや日本の需要を満たすことは困難だ。そこで、数年前から、マダガスカルやアメリカ、インドネシアなどから、アメリカ種やバイカラ種など異種のシラスウナギが輸入されるようになった。

環境の悪化でウナギの生息場が減少
ウナギの資源が減った原因は、乱獲の他に気候変動による海流の変化や生息環境の影響が挙げられている。先に述べたようにウナギは生態が複雑で、海や川を行き来する魚だ。生息域が広いので、環境の変化の影響を受けやすいのである。 戦後、急速に進んだ河川や沿岸の環境破壊は、ウナギの生息に大きな影響を与えたと考えられている。河川や沿岸の護岸工事によって天然ウナギの隠れ場やエサの生息場が失われ、また、ウナギが遡上する河川にダムや堤防が建設され、ウナギの生息域が大幅に減ってしまった。

環境の改変とウナギ資源の減少を科学的に証明するのは難しいが、このような環境の改変や水質の悪化によってウナギが生息しにくくなったところに乱獲が加わり、シラスウナギの漁獲量の大きな減少が進んだのだろう。ここ10年ほど、ウナギの輸入量と生産量はともに減少し、ウナギの値段も高騰している。消費量は減り、廃業するウナギ料理店や養殖業者も増えている。ウナギが庶民の食べ物になったのも、つかの間の出来事だったのだ。それどころか、このままシラスウナギが減り続けたら、幻の食べ物になるかもしれない。

“完全養殖” が一挙解決への光明
そこで、期待が高まっているのがウナギの完全養殖である。完全養殖とは、卵をふ化させて得た仔魚を育て、成魚にまで育てるもの。40年ほど前から研究が進められている。ウナギは身近な魚であるが、産卵形態は分かっておらず、人工飼育では、全く成熟しなかった。そこで、ウナギにサケなどのホルモンを投与して、人為的に成熟させる方法が開発された。これで親ウナギの催熟技術が向上し、仔魚を得ることができるようになったのだ。しかし、その仔魚を飼育する技術の開発は困難を極めた。その最大の要因は仔魚の餌が分からなかったことだ。 研究者は手当たり次第、餌を探した。

 

 

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2015年09月13日

絶滅危機のウナギは庶民の食卓に戻るのか     No1

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http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/44004

ウナギは土用丑の日の食べものとしてよく知られ、日本人にはなじみの深い食べものだ。世界にもウナギを食べる民族はいるが、日本人の消費量は断トツだ。 ところが、ここ数年、ウナギの値段は高騰し続け、ついにはニホンウナギが絶滅危惧種に指定された。このままウナギが減り続け、食べられなくなる日がくるのだろうか。

養殖も許可制に、食卓のウナギは幻となるのか
関東地方では4月に真夏日が観測されるなど、今年は早くから暑い日が続く。今年7月24日の土用丑の日にはまだ間があるが、かば焼きの香ばしい香りが恋しくなっている人もいるのではないだろうか。 ウナギは、ビタミンやミネラルを豊富に含む栄養価の高い食品で、昔から滋養食品として食べられてきた。しかし、2014年にニホンウナギが絶滅危惧種に指定され、ウナギ資源に対する危機感が高まっている。ウナギ資源を保護するための対策は強化されており、国内の養殖業は2014年から届け出制となり、今年の6月1日からは許可制になった。

相次ぐウナギのニュースに、「ウナギが食卓から消える」と不安を抱いている人も多い。 ウナギ属は知られているだけで世界に19種類分布しているが、日本でみられるニホンウナギ(Anguilla japonica)は、日本のほか、台湾
や韓国、中国などに生息している。ウナギは、海と川を行き来する回遊魚で、冬から春にかけて、「シラスウナギ」とよばれる透明な稚魚が日本付近の河口に集まってくる。しばらくして親と同じ色をしたクロコになると川を遡上し、多くは川や池で成長し、成熟すると産卵のため海に向かう。

日本人が1年間に食べるウナギは約6万トンだが、その99%は養殖ウナギだ。養殖業者は、漁師が捕まえた0.2グラムほどのシラスウナギを買い取り、池で餌を与えて、200〜300グラムの大きさまで育てる。つまり養殖ウナギとは、天然の稚魚を人工的に育てたものなのである。シラスウナギの漁獲量は年々落ち込み(図)、それに伴い、取引価格が高騰している。2003年には1キロあたり16万円だった価格が、2013年には過去最高の1キロあたり248万円まではね上がった。

2014年は漁獲量が増え、取引価格が少し値下がりしたものの、2015年の漁獲量はかんばしくなさそうだ。こうしたシラスウナギの高騰にともない、一獲千金を狙った密漁が後を断たない。ところが、シラスウナギの不足はいまに始まったことではなかった。

シラスウナギ不足は戦前から
ウナギの養殖は、明治時代に始まった。江戸時代までは、川や沼で捕まえた天然ウナギを食べていたが、1879(明治12)年に東京・深川の服部倉次郎が池でウナギの幼魚を育てたのが始まりといわれる。 その後、服部が浜名湖沿岸で養殖に成功したことをきっかけに、この地域を中心に、静岡県や愛知県でウナギの養殖業がさかんになった。大正時代は、まだ天然ウナギの漁獲量の方が多かったが、昭和に入って間もない1928(昭和3)年には、養殖ウナギの漁獲量が天然ウナギの漁獲量を上回った。

ウナギの養殖池が増えると、シラスウナギの需要も増加し、シラスウナギが不足し始めた。浜名湖周辺だけではシラスウナギをまかないきれず、養殖業者は関東や四国、九州、さらには中国の青島や上海にもシラスウナギを求めた。上海でとれたシラスウナギを船で長崎まで運び、長崎から浜名湖地方までは鉄道で運んだという。 戦争中の養殖は停滞したが、戦後徐々に回復し、高度経済成長期には養殖池が拡大した。すると、1960年代には再びシラスウナギ不足になり、価格も高騰した。

そのため、徳島県や鹿児島県などシラスウナギの産地では、シラスウナギをそのまま出荷するより、養殖して成魚にするほうが経済的にメリットがあると考え、水田やビニルハウスを利用して養殖を始めた。 こうして、シラスウナギの不足が引き金となり、新たなウナギの産地が誕生した。かつてウナギの生産量は、静岡県が全国の生産量の4分の3を占め、首位を独占したが、1982(昭和57)年に首位を退き、現在のトップは鹿児島県になっている。

 

 

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2015年09月12日

浅野屋3代目 浅野まきさん No5

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新規採用にも毎年力を入れるが、人集めは頭が痛い。製造部門はラインで流す大量生産ではないだけに、職人が一人前に育つのは時間がかかる。「最近は専門学校卒でも正社員になりたがらない人も多い。高卒の人の方が、よほど頑張っている場合もあります。うちではアルバイトでもやる気のある人は店長にして、アルバイト店長も誕生しています」 浅野さんが一緒に働きたい人は、「職業意識のある人」だ。「私たちはパンを作って買っていただいて、日々生活が成り立っている。それを分かって働いてくれる人がいいですね」と言うのだ。

「パンは生き物です。同じように作っても、季節や天気によって出来上がりが違う。長時間発酵をさせ、手間隙かけて作る。製造の担当者は、そのことを分かって作ってほしい。また、販売担当者は、そうして頑張って作っていることを受け止め、一生懸命売ってほしいのです。うっかりパンを落としてしまったら、ポイと捨てるのではなく、『もったいないことをしてごめんなさい』という気持ちを持ってほしいのです」 こういう話をする時の浅野さんの目は、本当に真剣だ。やはり「ものづくり」に関わる人だなあと思う。浅野屋はやはり、製造業なのだ。

「でもこの仕事をしていて、やるせない思いに駆られることもあります。飽食の時代でありながら、一方で世界には満足に食べることもできない子供たちがいますよね」という浅野さん。 毎日多くのお客が訪れ、パンが売れていく。店頭に並ぶ70種類のパンも、トレンドに合わせてめまぐるしくメニューが変わる。東京ミッドタウン店の下は、24時間営業の巨大マーケット。まさに飽食の時代の現場にいるのだ。

浅野屋では、孤児院や教会の施設にパンをプレゼントすることもある。企業としてできることから、社会貢献をしているのだ。最近は環境問題にも気を使う。「ゴミを出す企業として、考えるべきことがたくさんあります。昨年からは、紙の手提げ袋を有料化しました」 レジ袋をもらわない客にポイント加算するサービスも始めたが、運用が難しかった。買うパンは1個でも3個でも1つの袋に入れるが、ある客に「パンを3個買って袋をもらわなかったら、3ポイントつくはずじゃない」と怒られたのだ。

今は、新しいやり方を模索中である。顧客満足度アップとエコロジーの両立に悩む、浅野さんである。 今の生活の中心は仕事。多忙のため、趣味の食べ歩きの機会も減った。「悲しいけれど、趣味は仕事です(笑)。あとは歌舞伎鑑賞。市川海老蔵が好きで、襲名の時はパリと九州以外は全国の公演に行きました。酒井順子さんの『負け犬の遠吠え』を読んだ時、これは私のこと?と思いましたよ」

現在付き合っている恋人はいるが、結婚などの既成概念にとらわれたくない。「彼も食関係の人なので、仕事の悩みの相談にも乗ってくれます。もし結婚したくなったらすればいいし、子供も自然に任せればいいと思っています。でも、今でもこんなに忙しいのに、子育てと両立できるのか。私、あまり器用な方ではないですし…」 「小さな会社ですが、何年かかってもいいから、試行錯誤して理想に近づいていきたい。いつも、『これが終点じゃない』という改善意識を持っていたいのです。

毎日同じように作っても、パンはそのたびに違う。同じパンをずっと買ってくださるお客様をがっかりさせたくない。今日はいいものが作れた、素敵な接客ができた…。社員のみながそんなふうに少しずつ前進していければ…と思っています」まだ浴衣も自分ひとりでは着られない浅野さんだが、夢は着付けを習って、自分で着物を着て歌舞伎に行くことだそうだ。自由が丘、六本木と出店は一段落したが、次は各店舗を回りたいという。和服姿で優雅に歌舞伎鑑賞をする日は、まだ少し先になりそうだ。

【取材雑感】
この取材を通じて、外から来た社長ではなく跡取りだから、そして息子ではなく娘だからこそ経営に成功したというケースを見ると、うれしい気持ちになる。外部の優秀な頭脳は移植できても、家業の根底にある“魂”のようなものは、跡取りでなければ持ち得ないだろう。 また浅野さんは、女性らしいネットワーキング力を企画に生かし、協調性を強みにして父親や社員と良好な関係をつくりながら、果敢に経営改革に乗り出したと言える。日本の「ものづくりの魂」は、現代の跡取り娘たちがしっかりと受け継いでいるのである。

浅野まき(あさの・まき)
1969年東京生まれ。浅野屋2代目、浅野耕太の長女として生まれる。清泉女子大学卒業後、丸紅に入社。紙パルプ部に勤務する。1998年、浅野屋に取締役として入社。2006年7月、代表取締役社長に就任。日本ソムリエ協会認定ワインアドバイザーの資格を持つ。

 

 

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2015年09月11日

浅野屋3代目 浅野まきさん No4

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浅野さんのリクエストを、全員が頭をひねって商品化したのだ。銀座の和菓子屋、曙4代目の細野佳代さん(参考記事は、こちら)も、「自分の目標があると、『こうしたら、うまくいくのでは』と社員にしつこく何度も伝えることで、達成できるものです」と言っていた。2人の跡取り娘のマネジメント手法は、よく似ているようだ。 「父は、やれと言ったらトップダウンで指示する。私の場合は、しつこくみんなにリクエストするのです。協調的なのでしょうか」

浅野さんの代になってから商品開発にも力を入れ、店の棚に並ぶパンの数は格段に増えた。今は定番が30種類。店頭には常に60〜80種類の商品が並ぶ。 情報共有の際に一番大事なのは、「悪いことほど、早めに報告すること」だそうだ。「お釣りの計算ミス、商品入れ忘れなどのクレームは、どんな小さなことでも、メールで全員が情報共有するようにしています。メールなら、言った言わないというトラブルもない。もちろん現場でも話をしますが、すぐにメールを全員に送ります」

父の時代は、良いことはすぐ上に報告するが、良くないことは報告が遅れることが多かった。浅野さんの代になり、風通しがよくなったのだ。 情報共有にこだわるのは、日々の改善意識があるためだ。売り上げの数字は毎日上がってくる。時間当たり、どれだけの人が何を買ったかすぐに分かる。非効率的な部分を正せば、売り上げは確実に上がる。 「軽井沢の繁忙期には、1日何千人ものお客様がいらっしゃいますが、冬は100人以下になることも。

どうすれば全店舗で効率よく売り上げられるか、常に改善を考えています」と浅野さん。浅野屋は対面販売だ。現場の失敗から学び、情報を共有し、具体的な改善点を整理してマニュアルに落として共有する。例えば銀座松屋店は、リニューアルで店舗面積は小さくなったが、収益は上がった。 「レジの場所など店内レイアウトを変えるとか、袋やトング(パンを挟む道具)などの販売用ツールをどこにしまうかなど、小さな工夫を積み重ねていくのです」

東京ミッドタウン店の3台のレジは可動式で、客数に合わせて移動できる。これには浅野さんは設計段階から加わり、「番重(パンを入れるプラスチック製コンテナ)が何枚積めるかにこだわった」という。パンの焼き上がり時間をずらし、焼き立てを提供できるよう、ストックできる番重の枚数が効率化とサービス向上につながる。 今までの店舗での試行錯誤が、自由が丘店と東京ミッドタウン店には生かされているのだ。効率を考え抜かれた店内レイアウトなら、製造も販売も確実にやりやすくなり、顧客満足度につながる。

「1回来ていただいたお客様に、残念な思いはさせたくない。『常に正確に早く』が基本です。こういった訓示を朝礼で唱和したりはしませんが、スタッフがミスをしたら、そのたびに必ず確実にやり直すように指導します」 ブランディング戦略としては、父の時代から「軽井沢レザン」などでイメージ構築していた「軽井沢色」をいっそう強く打ち出す。「軽井沢シリーズの一環として、量り売りのパンは軽井沢ショコラ、軽井沢キャラメルなどブランド化しています。東京ミッドタウン店のブラッスリーでも、信州豚のグリル、軽井沢ベーコンや星野温泉の地ビールを出しています」

パンを運ぶ男性が浅野屋のロゴマーク
浅野屋のシンボルである「おじさんマーク」も、キャラクターとして生かすため、パンの袋にデザインした。ブランドマーク袋を持った人がいれば、認知度アップにつながる。自由が丘店開業時には、白地に赤のマークのトートバッグをノベルティとして配った。「東京ミッドタウン店では、ノベルティのバッグは黒地に金にしました。シックにしたかったのと、今年は“シャイニー系(光り物)”が流行ですから」。さすが浅野さん。おっしゃるとおり、ファッション業界では、2007年の靴やバッグはゴールドが流行なのだ。

 

 

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2015年09月10日

浅野屋3代目 浅野まきさん No3

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「デパ地下には、ほかのパン屋さんもたくさんあります。うちだけにお客様が来るのではなく、『共存共栄』がモットー。魅力的な場所なら多くの人が足を運び、そのうち何回かに1回はうちで買ってくれるようになるでしょうから」。再開発が進む丸の内では、三菱地所の担当者が「点で勝つより面で勝て」と口にしているが、浅野さんも同じことに気づいているのだ。 その頃から浅野さんの父親は、相談相手にはなってくれるがあくまでも浅野さんを見守る立場となった。

浅野屋の世代交代は徐々に進み、2006年オープンの自由が丘店は、すべて浅野さんの企画によるものとなった。 また2006年は、浅野さんにとって激動の時期だった。徹底的な経営改善の必要に迫られたからだ。「バブル崩壊後の不採算部門整理をやらなくてはならなくなりました。漫然と経営できる時代ではなくなったのです」 父親は、不採算店でも頑張って存続しようとするタイプ。しかし浅野さんは、常に収支をチェックし、「感覚」では商売をしない。

「父はロマンを求め、私は現実的に。親子でバランスが取れているんです。父を説得しつつ、不採算店は徐々に統廃合していきました」2006年10月には都内と軽井沢のレストランを閉店し、母校近くのブランジェ浅野屋四谷店も閉めた。 そこには、「跡取り娘」ならではの強みがあったと浅野さんは言う。「父はカリスマ経営者でしたが、手放す時は潔かった。私を信頼して任せてくれました。これがもし息子だったら、対立したかもしれない。私が娘だったから、うまく父と調整ができたのだと思います。社員も、父の説得は私の役目と思っています」

浅野さんより古い社員も、人一倍食への情熱がある元気な跡取り娘を、すんなりと受け入れてくれた。「みんな昔から知っている人ですし、浅野屋がよりよくなるために、時間をかけて一緒に変わっていこうという目的を共有しています。今が終着点でなく、祖父から父へ受け継がれたように、何十年先も愛され続けるパン屋でありたいのです」 こうして2006年7月に社長に就任した、3代目浅野まきさん。後編は浅野屋のブランディングと経営改革について伺う。

「私は、男の子のように自由に育てられました。今の自分があるのも、親の理解ある放任主義のおかげだと思います」と語るのは、浅野屋3代目、代表取締役社長の浅野まきさんだ。跡取りを意識せずにバブルを謳歌していたOL時代だったが、思えばその頃に、跡取りとしての浅野さんの土台はできていた。女性の中には、企業内でキャリアを積まなくても、プライベートでの人脈構築や情報収集・分析力に長けている人がいる。バブル期に「Hanako族」と言われたOLたちがそうだ。料理店の開拓や海外旅行のスケジューリングなどに、卓越した能力を発揮する。コミュニケーションもうまく、会の幹事も得意な女性たちのこうした能力は、広告代理店やマスコミに勤めていれば十分に生かされる。

しかし企業でこの能力を生かせなかった場合、退職後にママさんコミュニティーを上手に運営したりして力を発揮するものだ。浅野さんは、それまでに培ったネットワークや感性を、家業に入ることで、マーケティングや経営企画に思う存分生かせたのだと思う。新しい出店や取引先開拓の際も、食を通じた彼女の人脈がものを言った。浅野さんが経営に参画してから、浅野屋はどう変わったのか? 浅野さんが最も注力するのが、社内の情報共有だ。浅野屋の正社員は約80人、アルバイトやパートも入れると200人いる。本社スタッフは15人で、新製品を企画する商品会議には、製造と販売の責任者10人が集う。

新商品、バゲットを桜の形にしたパン「スリジェ」
「スタッフは東京と軽井沢に散っているので、私の役目は『メーラー』です。様々な情報を共有するために、あちこちにメールを送りまくっています」と浅野さん。例えば、新しいデニッシュを開発する時は、何通りもの大きさの試作品を作ることになる。「新規出店までは毎週商品会議をしますが、『私はこういう商品を作りたい』などと、会議メンバーにしつこく何度もメールするのです」 東京ミッドタウン店のオープンに合わせて作った「スリジェ(桜)」というパンは、バゲットを桜の形にしたもの。

 

 

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2015年09月09日

浅野屋3代目 浅野まきさん No2

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「いわゆる、バブル後期のOLです。紙パルプ部の担当に配属されましたが、仕事は決して楽ではなく、毎月100時間ぐらい残業しました。あとは飲み会、食事会、ゴルフに海外旅行…。ある意味、バブルを謳歌していましたね」 マガジンハウスが首都圏のOLをターゲットに「Hanako」を創刊したのが89年だから、まさに浅野さんは「Hanako族」である。兄がいたので、跡取りになるという意識はなかったが、なにしろ食べることが大好きだった。家族は年1回はイタリアに行き、チーズやパン工場、ワイナリー、レストランを訪ね歩く「食の旅」をしていたほどだ。

どうせ飲み歩いているなら、と96年にはワインアドバイザーの資格を取る。その時のワイン仲間を中心に、飲食業界の人とも急速に親しくなった。1年365日のうち360日は外食しているような、「食仲間」ができる。 「食のプロも他業種の人もいましたが、みな食への情熱がすごいのです。私も料理をデジカメで撮影したりワインの名前をメモしたりして、『食メモ』を作りました」その間も浅野屋はめまぐるしく工場を移転したり、レストランなど新規事業に進出したりと、多角経営を進めていく。

だが、必ずしも成功ばかりではなく、商業施設内の店舗に出店して失敗したこともあった。「バブル期は多角経営で広げてはしぼみ、また広げて…といろいろやりました。そのうち、私もワインのことで口を挟んだりして、徐々に会社に関わるようになったのです。だんだん『私が手伝った方がいいかな』という雰囲気になりました」 ついに浅野さんは、1998年に取締役として浅野屋に入社。兄がその前に入社していたが、父親とソリが合わずに退社していた。そこで「チャラチャラとOLをしていた」浅野さんに、白羽の矢が立ったのだ。

「最初は跡取りとしてというより、周りの社員と馴染んでどのくらい仕事ができるか、父に試されていたのだと思います。営業企画で父のサポートをしながら、軽井沢店の繁忙期には毎年店にも立ちました」。まず現場を知らなければ、というのが父親の教えだった。 浅野さんが食の業界に入ってからは、それまでに構築した「食仲間」のネットワークが強い人脈となった。食べ歩きの経験も、血肉になっていた。バブル期のOLは、伊達には遊んでいなかったのだ。

営業企画の仕事は、売り上げ人気ランキングデータやお客の意見など、毎日上がってくる日報にすべて目を通すこと。また、浅野さんはマニアックなほどの雑誌好きだという。「20代向け女性誌の『CanCam』から、料理雑誌の『料理王国』、業界誌まで多くの雑誌に目を通しています。食だけではなく、世間のトレンドも見るようにしています。うちのお客様は20代からお年寄りまで幅広いので、例えば20代の子がコンビニで何を買うかというデータも、参考になるんですよ」

父親はカリスマ経営者で、直感で新しいものを取り入れて浅野屋を大きくしていった。しかし娘のまきさんは情報収集型で、ランキングなどデータ重視型である。 「製造責任者や店長の商品会議に参加するようになったのは、私の代からです。製造、販売の両方で議論していきますが、私が外国で見たパンをデジカメ撮影して、『こういう商品はどうか』と社員にメールしたりします。社員はみな忙しいので、私が情報収集・伝達係なんです」

もともと仕切り屋で、人の面倒を見るのが好きな浅野さん。食仲間との旅行や社員との海外視察旅行では、添乗員のように細かくスケジューリングするそうだ。「旅行先のおいしいお店にみなを連れて行くために、事前に現地の知り合いにしつこくメールして情報をもらったりします」 2003年、浅野屋の銀座松屋店がリニューアルした。その頃から浅野さんは、店のレイアウトなどほとんどの企画を決めるようになる。スペインやロンドンを視察して、商品のパッケージのアイデアを決めるなど熱心に取り組んだ。

 

 

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