2015年06月17日

シャープが考え抜いた「失敗の本質」 No2

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片山はまだ50代である。再出発は本人にとってはもちろん、パワフルな元社長が社内からいなくなってシャープにとっても好ましい。互いにいわばウィン-ウィンの決着といえる。 片山はフェローに退いてから約9カ月の間に、自らの失敗の本質を高橋に語ったのだろうか。「聞いていない」と高橋は言っている。「片山とは月に一回も顔を合わせませんでした。彼自身が本社から身を遠ざけていました。新聞や雑誌などが、事実かどうかは別にして、前の社長たちが経営にいろいろ関与したと書いていますからね。片山は私に接触するとまた同じことをしていると思われるので、避けていたのでしょう」。

出した答えが「シャープのおかしな文化を変える」
町田や片山は苦境を乗り切ろうと精力的に動いた。12年3月に発表した台湾の鴻海精密工業との資本業務提携を主導したのは当時会長だった町田である。その8月、鴻海と出資条件を巡る交渉に当たったのは、相談役に退いた町田と代表権のない会長になっていた片山である。さらに資本増強のために片山は外資からの資本導入を求めて飛び回った。社長の奥田は影が薄かった。意思決定権者は誰なのか、こうした混乱が、同社の危機的なイメージを増幅した。

結局、奥田は短命に終わる。高橋への社長交代の真相は薮の中だが、二枚看板、三枚看板の異常事態を正すことが大きな力となって働いた。企業統治が不安定では、資金繰り上、唯一の頼りとなった金融機関の信用をつなぎ止められない。昨年5月の社長交代が内定した時の記者会見で、社長の奥田は「今回、役員人事を大幅に見直して、これまでのシャープと決別する」と発言し、さばさばとした表情を見せた。

さらに「何をやるにしても、今度はすべての権限と責任が高橋に集中するわけなので、この形を私も片山も崩さないようにやって行きたい。これによって新生シャープは再生できると思う」と述べている。高橋はかつての大物たちを反面教師に、違う経営スタイルをとっている。 「テレビをすべて液晶に変える」と言った町田や、「21世紀型コンビナート」とうたって巨大な堺工場の成功を夢見た片山などとは一線を画して、大戦略を語らない。

社長内定以来、一貫して発信しているメッセージは「シャープのおかしな文化を変える」である。企業文化の改革も大事だが、事業を今後どうするのか。しかし液晶や太陽電池に代わる成長事業をこうして創出するといったビジョンを打ち出そうとはしない。 「証券アナリストからは『シャープの高橋は何も考えていないし、何も方向性を示さない』と、厳しい言葉をもらっています」。周囲から自分に批判や不満が向けられていることは重々承知のうえなのである。それになぜ応えようとしないのか。

同社は昔、関西家電3社の中で、パナソニックと同社に吸収された旧三洋電機に次ぐ三番手に留まっていた。それが液晶テレビで大躍進した。連結売上高はピークで3兆4177億円、同じく営業利益は1865億円を稼いだ。ところが一転して、13年3月期までの2期合計で9214億円の純損失を出した。どうしてここまで悲惨な状態に追い込まれたのか、それへの答が「おかしな文化を変える」なのである。

常務執行役員米州本部長で米国に駐在していた高橋に、「副社長で戻って来い」と片山から電話が入ったのは、12年の3月下旬だった。「米国に来てまだ2年なのに帰れでしょう。それもいきなり副社長と言われて驚きました」。本当にびっくりするのはまだ早かった。4月1日付で、片山から奥田への社長交代とともに、副社長執行役員営業担当兼海外事業本部長になる。6月には代表取締役副社長執行役員と異例のスピード昇進である。

それまで奥の院である取締役会で、「どのような議論によって意思決定がなされてきたのか知らなかった」と言う高橋は、大赤字の実相に初めて向き合ったという。「えらいこっちゃ、つぶれると思いましたよ」。ショックは大きかった。「米国にいた時に、創業130年あまりのイーストマン・コダックが米連邦破産法11条の適用を申請して倒産したのです。私が帰ってきた年は、シャープが創業100周年だったので、まるで同じものを見ているような既視感にとらわれました」。

 

 

posted by タマラオ at 06:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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