2015年09月10日

浅野屋3代目 浅野まきさん No3

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「デパ地下には、ほかのパン屋さんもたくさんあります。うちだけにお客様が来るのではなく、『共存共栄』がモットー。魅力的な場所なら多くの人が足を運び、そのうち何回かに1回はうちで買ってくれるようになるでしょうから」。再開発が進む丸の内では、三菱地所の担当者が「点で勝つより面で勝て」と口にしているが、浅野さんも同じことに気づいているのだ。 その頃から浅野さんの父親は、相談相手にはなってくれるがあくまでも浅野さんを見守る立場となった。

浅野屋の世代交代は徐々に進み、2006年オープンの自由が丘店は、すべて浅野さんの企画によるものとなった。 また2006年は、浅野さんにとって激動の時期だった。徹底的な経営改善の必要に迫られたからだ。「バブル崩壊後の不採算部門整理をやらなくてはならなくなりました。漫然と経営できる時代ではなくなったのです」 父親は、不採算店でも頑張って存続しようとするタイプ。しかし浅野さんは、常に収支をチェックし、「感覚」では商売をしない。

「父はロマンを求め、私は現実的に。親子でバランスが取れているんです。父を説得しつつ、不採算店は徐々に統廃合していきました」2006年10月には都内と軽井沢のレストランを閉店し、母校近くのブランジェ浅野屋四谷店も閉めた。 そこには、「跡取り娘」ならではの強みがあったと浅野さんは言う。「父はカリスマ経営者でしたが、手放す時は潔かった。私を信頼して任せてくれました。これがもし息子だったら、対立したかもしれない。私が娘だったから、うまく父と調整ができたのだと思います。社員も、父の説得は私の役目と思っています」

浅野さんより古い社員も、人一倍食への情熱がある元気な跡取り娘を、すんなりと受け入れてくれた。「みんな昔から知っている人ですし、浅野屋がよりよくなるために、時間をかけて一緒に変わっていこうという目的を共有しています。今が終着点でなく、祖父から父へ受け継がれたように、何十年先も愛され続けるパン屋でありたいのです」 こうして2006年7月に社長に就任した、3代目浅野まきさん。後編は浅野屋のブランディングと経営改革について伺う。

「私は、男の子のように自由に育てられました。今の自分があるのも、親の理解ある放任主義のおかげだと思います」と語るのは、浅野屋3代目、代表取締役社長の浅野まきさんだ。跡取りを意識せずにバブルを謳歌していたOL時代だったが、思えばその頃に、跡取りとしての浅野さんの土台はできていた。女性の中には、企業内でキャリアを積まなくても、プライベートでの人脈構築や情報収集・分析力に長けている人がいる。バブル期に「Hanako族」と言われたOLたちがそうだ。料理店の開拓や海外旅行のスケジューリングなどに、卓越した能力を発揮する。コミュニケーションもうまく、会の幹事も得意な女性たちのこうした能力は、広告代理店やマスコミに勤めていれば十分に生かされる。

しかし企業でこの能力を生かせなかった場合、退職後にママさんコミュニティーを上手に運営したりして力を発揮するものだ。浅野さんは、それまでに培ったネットワークや感性を、家業に入ることで、マーケティングや経営企画に思う存分生かせたのだと思う。新しい出店や取引先開拓の際も、食を通じた彼女の人脈がものを言った。浅野さんが経営に参画してから、浅野屋はどう変わったのか? 浅野さんが最も注力するのが、社内の情報共有だ。浅野屋の正社員は約80人、アルバイトやパートも入れると200人いる。本社スタッフは15人で、新製品を企画する商品会議には、製造と販売の責任者10人が集う。

新商品、バゲットを桜の形にしたパン「スリジェ」
「スタッフは東京と軽井沢に散っているので、私の役目は『メーラー』です。様々な情報を共有するために、あちこちにメールを送りまくっています」と浅野さん。例えば、新しいデニッシュを開発する時は、何通りもの大きさの試作品を作ることになる。「新規出店までは毎週商品会議をしますが、『私はこういう商品を作りたい』などと、会議メンバーにしつこく何度もメールするのです」 東京ミッドタウン店のオープンに合わせて作った「スリジェ(桜)」というパンは、バゲットを桜の形にしたもの。

 

 

posted by タマラオ at 07:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記