2015年09月09日

浅野屋3代目 浅野まきさん No2

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「いわゆる、バブル後期のOLです。紙パルプ部の担当に配属されましたが、仕事は決して楽ではなく、毎月100時間ぐらい残業しました。あとは飲み会、食事会、ゴルフに海外旅行…。ある意味、バブルを謳歌していましたね」 マガジンハウスが首都圏のOLをターゲットに「Hanako」を創刊したのが89年だから、まさに浅野さんは「Hanako族」である。兄がいたので、跡取りになるという意識はなかったが、なにしろ食べることが大好きだった。家族は年1回はイタリアに行き、チーズやパン工場、ワイナリー、レストランを訪ね歩く「食の旅」をしていたほどだ。

どうせ飲み歩いているなら、と96年にはワインアドバイザーの資格を取る。その時のワイン仲間を中心に、飲食業界の人とも急速に親しくなった。1年365日のうち360日は外食しているような、「食仲間」ができる。 「食のプロも他業種の人もいましたが、みな食への情熱がすごいのです。私も料理をデジカメで撮影したりワインの名前をメモしたりして、『食メモ』を作りました」その間も浅野屋はめまぐるしく工場を移転したり、レストランなど新規事業に進出したりと、多角経営を進めていく。

だが、必ずしも成功ばかりではなく、商業施設内の店舗に出店して失敗したこともあった。「バブル期は多角経営で広げてはしぼみ、また広げて…といろいろやりました。そのうち、私もワインのことで口を挟んだりして、徐々に会社に関わるようになったのです。だんだん『私が手伝った方がいいかな』という雰囲気になりました」 ついに浅野さんは、1998年に取締役として浅野屋に入社。兄がその前に入社していたが、父親とソリが合わずに退社していた。そこで「チャラチャラとOLをしていた」浅野さんに、白羽の矢が立ったのだ。

「最初は跡取りとしてというより、周りの社員と馴染んでどのくらい仕事ができるか、父に試されていたのだと思います。営業企画で父のサポートをしながら、軽井沢店の繁忙期には毎年店にも立ちました」。まず現場を知らなければ、というのが父親の教えだった。 浅野さんが食の業界に入ってからは、それまでに構築した「食仲間」のネットワークが強い人脈となった。食べ歩きの経験も、血肉になっていた。バブル期のOLは、伊達には遊んでいなかったのだ。

営業企画の仕事は、売り上げ人気ランキングデータやお客の意見など、毎日上がってくる日報にすべて目を通すこと。また、浅野さんはマニアックなほどの雑誌好きだという。「20代向け女性誌の『CanCam』から、料理雑誌の『料理王国』、業界誌まで多くの雑誌に目を通しています。食だけではなく、世間のトレンドも見るようにしています。うちのお客様は20代からお年寄りまで幅広いので、例えば20代の子がコンビニで何を買うかというデータも、参考になるんですよ」

父親はカリスマ経営者で、直感で新しいものを取り入れて浅野屋を大きくしていった。しかし娘のまきさんは情報収集型で、ランキングなどデータ重視型である。 「製造責任者や店長の商品会議に参加するようになったのは、私の代からです。製造、販売の両方で議論していきますが、私が外国で見たパンをデジカメ撮影して、『こういう商品はどうか』と社員にメールしたりします。社員はみな忙しいので、私が情報収集・伝達係なんです」

もともと仕切り屋で、人の面倒を見るのが好きな浅野さん。食仲間との旅行や社員との海外視察旅行では、添乗員のように細かくスケジューリングするそうだ。「旅行先のおいしいお店にみなを連れて行くために、事前に現地の知り合いにしつこくメールして情報をもらったりします」 2003年、浅野屋の銀座松屋店がリニューアルした。その頃から浅野さんは、店のレイアウトなどほとんどの企画を決めるようになる。スペインやロンドンを視察して、商品のパッケージのアイデアを決めるなど熱心に取り組んだ。

 

 

posted by タマラオ at 06:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記