2015年09月07日

銀座曙 No5

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「未来を大きな長いスパンで考えるのは父や男性にかないませんが、細かくスケジューリングして目標に近づくのが私のやり方です」と細野さんは言う。部下に対して大雑把にしか指示を出さない男性社員を見ると、イライラすることもあるという細野さん。「もっと丁寧に指示してあげれば、できるのに…と思いますね」 2007年で社長就任3年目を迎える細野さんだが、今後の目標としているところは?「弊社は90円から商品があるので、和菓子を通じて100円で“日本”を体感できるんです。すごいと思いませんか? 

若い世代にも和菓子の素晴らしさを伝え、心を満たされるような時間をつくるお菓子を売っていきたい。日本文化に根ざした、世界に誇れるようなブランドにしよう、と主人といつも話しています」最近は洋のパティシエが和の素材を使って作ったわさびチョコレートや、抹茶、和栗、紫芋のケーキなどを見かけるようになった。こうした洋の世界の攻勢には、どんなスタイルで対抗していくのか。洋を取り入れる路線もあるのか、という問いに、細野さんはきっぱりと首を振った。「洋菓子が和テイストになったからといって、逆は絶対にしたくないのです。

私たちはあくまで和でいきたい。ただ、若い人にも気軽にカフェで“和のデザート”感覚で食べてもらえるようにはしていきたいと思っています」例えば玉川高島屋SCの店舗で出す、「究極の寒天」を使ったデザート。寒天を龍泉洞(岩手県)の水で煮出して極限までゆるい寒天を作り、その上に秋ならカボチャ餡をカボチャの形にして載せる。とろけるような食感と和菓子らしい季節感が好評だ。今は、寒天と小豆と砂糖ともち米だけで作る「究極の最中」を開発中だ。厳選された素材でよりシンプルに。

細野さんの理想の和菓子は和のミニマリズムを目指しているようだ。食器やお茶にもこだわった和テイストのカフェの運営が、当面の夢だという。「私は、商売熱心だった祖母に似ていると言われます」と細野さん。銀座あけぼのは、祖父と祖母が焼け跡から銀座、赤坂、浜町に立ち上げた。祖父は相当変わった人だったそうで、お客が「こういうものを探している」と言うと、「じゃあ、明日までに仕入れておきます」と言って工夫して作ってしまう。三つの大豆を海苔で巻いた「山海豆」という商品がそれである。

米菓も始め、当時からバームクーヘンも売っていたという、新進気鋭の人だったようだ。しかしこの祖父は、細野さんが7歳の時に亡くなっている。細野さんの思い出の中では、祖母の姿が鮮やかだ。「一緒に銀座に行ったり、よく母と3人でお雛様のあられを混ぜたりしました」 「後継とは一種の文化」という言葉が、野村進さんの『千年、働いてきました 老舗企業大国ニッポン』にある。この本によれば、老舗の後継者は「跡継ぎになれ」と言わなくても、3世代、多世代同居をして祖父母や両親を見て育つと、自然に後継者になっていく文化があるのだという。

細野さんと会って、この本の言葉がとても腑に落ちた。細野さんのような後継者が、女性だからといって排除されることなく、これからは続々と誕生していくのも一つの文化になっていくのではないか。跡取り娘を取材していくうちに、そんな気持ちを強く持つようになった。「…いろいろな社員がいるけれど、みんな今いる位置からレベルアップしていけるよう、心がけています」という細野さんの言葉は、女性管理職らしい。

そしてまた、細野さんが最初に働いた工場で障害のある人を雇用したのは、細野さんの母親の発案だと言う。「3歳下の妹がダウン症なのです。妹がちゃんと働けるような場所をつくろうと、母が中心になって銀座あけぼのの中に障害者の働ける工場をつくりました。今は父個人が、社会福祉法人も立ち上げています」 たとえ能力差があっても、誰にも働く場所があって当たり前。そんな家庭で育まれた細野さんだからこそ、「明確に具体的に細かくフォローし、誰もがその仕事ができるようにする」という発想につながるのではないか、と感じた。

細野 佳代(ほその かよ)
1964年東京生まれ。4人兄弟の長女。玉川学園大学卒。卒業後、祖父が興した「曙」に入社。工場のスタッフから始まり、たまプラーザ店店長、企画室長、営業部長、商品本部長を経て、2004年11月に父親である社長から代表取締役社長に任命される。

 

 

posted by タマラオ at 06:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記