2015年09月04日

銀座曙 No2

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細野さんは「父親も、新しい発想をする人でした」と言う。例えば、おかきにチーズを入れた商品を開発したのも父親だ。「邪道と言われるようなことをやって、それをうまく商品として成功させるカリスマ性が、父にはあったのです」 「でも父は何も私に教えてくれませんでしたね。ほったらかしで、自分で考えて行動するしかない。当時は、父に冷たくされていると思っていました」。しかし、工場に配属した娘が思わぬ熱心さで仕事にはまっていくのを見て、カリスマ社長はひそかに「してやったり」と思っていたのかもしれない。

細野さんは25歳の時、新しい直営店舗、たまプラーザ店の店長になる。細野さんは、新店舗の立ち上げから関わった。菓子の包装は、小さい頃から手伝っているので慣れている。しかしアルバイトを雇ってシフトを組み、一店をすべて仕切るのは予想以上に大変だった。「毎日店を開けて、閉めるまでで精一杯でした」

店舗には喫茶スペースも併設していた。アルバイトを含めて5〜6人で切り盛りしていたが、朝アルバイトから「今日は行けません」と突然電話が入ったりする。接客に追われ、気がつくと喫茶部門のスタッフが誰もいず、焦ったこともあった。
「衛生管理士の資格は工場にいた時に取っていたので、ほかにスタッフがいない時は、お客さんの注文した品を私が自分で作って出すことも、しょっちゅうでした」 

細野さんが25歳の頃といえば、巷はバブルの真っ盛り。彼女の友人たちは華やかな日々を過ごしていたと思うが、細野さんは「3年間、毎日朝の7時から夜の9時まで働き続け、店を閉めると翌日のスタッフのシフトを考えたりしていて、11時頃になることもありました。休みは全くなし。当時は、友人の結婚式があるとやっと休みが取れる、という感じでした」 しかしこの頃の細野さんには、辛いという気持ちはなかったと言う。むしろ、お客と間近に接する楽しみを強く感じた時期だった。

「本当にこの仕事が好きだったんでしょうね」 「ただ、私のあまりの忙しさに、さすがに父もかわいそうと思ったのか、ある朝私が早くに出る時に、急に時計をくれました」。父親は無造作に「あげるよ」と時計を差し出したという。多分娘への精一杯の、そして不器用なねぎらいだったのだろう。しかし細野さんは内心、「そんな時計をくれるより、スタッフを増やしてほしい」と思ったとか。しかしもちろん、「社長」に面と向かってそんな要求はできない。父親でもあくまで社長だ。

その頃は既に、細野さんの意識は「銀座あけぼのの社員」になっていた。27歳で、企画室に異動となる。店舗ディスプレーや商品企画などを担う、同社の花形部門だ。しかし「私が入った時は、年配の室長が1人いるだけでした。父の代は、各店舗のディスプレーに関しては、『次は、春らしい感じでやるぞ』と大雑把な号令をかけるだけで、詳細は各店の店長任せだったのです」 季節のキャンペーンや新商品発売の際も、全店舗で統一したキャッチコピーやポップを作るという発想がなかった。

開店日や新商品発売の時に昔からつき合いのあるデザイナーが出向いていき、その場で手書きの看板を描く、という状態だった。企画室に異動して1年後に細野さんは室長になり、いよいよ自分の発想で商品企画や宣伝を担当することになる。現在のように、統一したディスプレーを全国100軒の店舗で一斉に行うスタイルは、細野さんが始めたものだ。 自分で企画した商品に思い入れはあるが、大失敗もあった。

「敬老の日に『ますますこれからまんじゅう』というのを企画したのです。枡の中におまんじゅうを詰めた商品でした」。祖母や祖父に「これからも、ますますお元気で」という意味合いを込めたもので、社内でも「これは当たる」と好評だったが、うまくいかなかった。

 

 

posted by タマラオ at 07:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記