2015年09月08日

跡取り娘の経営戦略   No1

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浅野屋3代目 浅野まきさん 

2007年3月30日、三井不動産が六本木防衛庁跡地に開発した東京ミッドタウンがオープンした。開業1カ月の来場者は480万人、ゴールデンウイークは9日間で150万人、平日でも12万人が訪れるという人気スポットだ。その一角、六本木交差点から乃木坂に向かって歩き、ボッテガベネタを通り越したガレリア1階に人気のパン屋、浅野屋東京ミッドタウン店がある。オープン当日や連休中は、1日に1400人ものお客が訪れたこともあるという。

ガラスのショーケースにはこんがり焼けたデニッシュが並び、パンを求める客が常に列を作っている。奥には本格的なピザ釜のあるブラッスリーもあり、午前4時まで営業している。東京ミッドタウン店開業までの間、文字通り東奔西走していたのが、今回の跡取り娘、2006年7月に浅野屋代表取締役社長に就任した浅野まきさん(38歳)だ。 軽井沢に旧道店、白樺台店、信濃追分店、東京には自由が丘店、松屋銀座店、東京ミッドタウン店と6店舗を構える浅野屋。

夏季営業の軽井沢店では、レーズンパン「軽井沢レザン」を求めて並ぶ観光客の姿が夏の風物詩にもなっている。私が小中高と通っていた母校が四谷にあるが、この校舎の裏にかつての浅野屋本店があり、購買部にも納入されていた。浅野屋は、10代の私の旺盛な食欲を満たしてくれた、懐かしいパン屋さんでもあるのだ。生地がふんわりとして、おいしかった記憶がある。今から30年も前の話だ。 しかし、母校近くの小さなパン屋だった浅野屋が、軽井沢に大きな店舗を構え、デパ地下にもどんどん出店していくのを見て、大躍進の秘密はなんだろう、とずっと不思議に思っていた。今回の取材で、浅野屋の興味深い歴史を跡取り娘の浅野さんに初めて教えてもらった。

浅野屋の歴史は古く1933年にさかのぼる。意外にも、パン屋としては軽井沢店が事始めだった。「祖父の浅野良朗は石川県から16歳で東京に来て、食料品店に11年間勤めてから、麹町に浅野商店を開業しました。戦前から軽井沢で、在日大使館や外国人の食糧配給所を外務省から委託されていたのです」と浅野さんは言う。 現在地価が高騰している別荘地軽井沢を拓いたのは、外国人宣教師。外国人のためにパンを売ったのが、浅野屋軽井沢店の始まりなのだ。

祖父は食料品店を中心に商売をしていたが、父の浅野耕太はパン製造業に力を入れた。1976年に四谷店を開業し、2つのパン工場を作った。それが、私の学生時代の思い出の浅野屋だったのだ。1979年、浅野さんが10歳の時に、38歳の父はブランジェ浅野屋を設立し、四谷店はブランジェ浅野屋四谷店となった。 浅野さんの古いアルバムを見せてもらうと、幼少期の写真に交じって懐かしいセーラー服の制服を着た姿があった。浅野さん自身も私の母校の後輩で、幼稚園から入学したのだ。浅野屋は、彼女が在学中、学校指定のパン屋さんだったそうだ。

「父は新しいものを取り入れるのが早い人でした。スペインのサラゴサのファルファス社の石釜とか、天然酵母のパンなどをいち早く導入しました。小さなパン屋の頃から、機械も妥協せずにいいものを使い、手作りと機械のバランスのいい、おいしいパンを作れるようにしていました」 浅野屋の歴史を追っていくと、バブルの1983年から急速に拡大していく。軽井沢にレストランを作り、夏季営業から通年営業に。また四谷にビルを建て、深川工場を稼働し、ホテルやレストランにパンを納入するようになる。その頃の浅野さんは清泉女子大学の体育会テニス部の元気な女子学生で、91年に丸紅に入社し、華やかなOL生活が始まった。

 

 

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2015年09月07日

銀座曙 No5

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「未来を大きな長いスパンで考えるのは父や男性にかないませんが、細かくスケジューリングして目標に近づくのが私のやり方です」と細野さんは言う。部下に対して大雑把にしか指示を出さない男性社員を見ると、イライラすることもあるという細野さん。「もっと丁寧に指示してあげれば、できるのに…と思いますね」 2007年で社長就任3年目を迎える細野さんだが、今後の目標としているところは?「弊社は90円から商品があるので、和菓子を通じて100円で“日本”を体感できるんです。すごいと思いませんか? 

若い世代にも和菓子の素晴らしさを伝え、心を満たされるような時間をつくるお菓子を売っていきたい。日本文化に根ざした、世界に誇れるようなブランドにしよう、と主人といつも話しています」最近は洋のパティシエが和の素材を使って作ったわさびチョコレートや、抹茶、和栗、紫芋のケーキなどを見かけるようになった。こうした洋の世界の攻勢には、どんなスタイルで対抗していくのか。洋を取り入れる路線もあるのか、という問いに、細野さんはきっぱりと首を振った。「洋菓子が和テイストになったからといって、逆は絶対にしたくないのです。

私たちはあくまで和でいきたい。ただ、若い人にも気軽にカフェで“和のデザート”感覚で食べてもらえるようにはしていきたいと思っています」例えば玉川高島屋SCの店舗で出す、「究極の寒天」を使ったデザート。寒天を龍泉洞(岩手県)の水で煮出して極限までゆるい寒天を作り、その上に秋ならカボチャ餡をカボチャの形にして載せる。とろけるような食感と和菓子らしい季節感が好評だ。今は、寒天と小豆と砂糖ともち米だけで作る「究極の最中」を開発中だ。厳選された素材でよりシンプルに。

細野さんの理想の和菓子は和のミニマリズムを目指しているようだ。食器やお茶にもこだわった和テイストのカフェの運営が、当面の夢だという。「私は、商売熱心だった祖母に似ていると言われます」と細野さん。銀座あけぼのは、祖父と祖母が焼け跡から銀座、赤坂、浜町に立ち上げた。祖父は相当変わった人だったそうで、お客が「こういうものを探している」と言うと、「じゃあ、明日までに仕入れておきます」と言って工夫して作ってしまう。三つの大豆を海苔で巻いた「山海豆」という商品がそれである。

米菓も始め、当時からバームクーヘンも売っていたという、新進気鋭の人だったようだ。しかしこの祖父は、細野さんが7歳の時に亡くなっている。細野さんの思い出の中では、祖母の姿が鮮やかだ。「一緒に銀座に行ったり、よく母と3人でお雛様のあられを混ぜたりしました」 「後継とは一種の文化」という言葉が、野村進さんの『千年、働いてきました 老舗企業大国ニッポン』にある。この本によれば、老舗の後継者は「跡継ぎになれ」と言わなくても、3世代、多世代同居をして祖父母や両親を見て育つと、自然に後継者になっていく文化があるのだという。

細野さんと会って、この本の言葉がとても腑に落ちた。細野さんのような後継者が、女性だからといって排除されることなく、これからは続々と誕生していくのも一つの文化になっていくのではないか。跡取り娘を取材していくうちに、そんな気持ちを強く持つようになった。「…いろいろな社員がいるけれど、みんな今いる位置からレベルアップしていけるよう、心がけています」という細野さんの言葉は、女性管理職らしい。

そしてまた、細野さんが最初に働いた工場で障害のある人を雇用したのは、細野さんの母親の発案だと言う。「3歳下の妹がダウン症なのです。妹がちゃんと働けるような場所をつくろうと、母が中心になって銀座あけぼのの中に障害者の働ける工場をつくりました。今は父個人が、社会福祉法人も立ち上げています」 たとえ能力差があっても、誰にも働く場所があって当たり前。そんな家庭で育まれた細野さんだからこそ、「明確に具体的に細かくフォローし、誰もがその仕事ができるようにする」という発想につながるのではないか、と感じた。

細野 佳代(ほその かよ)
1964年東京生まれ。4人兄弟の長女。玉川学園大学卒。卒業後、祖父が興した「曙」に入社。工場のスタッフから始まり、たまプラーザ店店長、企画室長、営業部長、商品本部長を経て、2004年11月に父親である社長から代表取締役社長に任命される。

 

 

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2015年09月06日

銀座曙 No4

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女性活用も進めている。本社スタッフ50人中半数が女性。細野さんがビジネスの中心に参画してから、目立って女性社員が増えた。「そもそも私がいた販売企画は全員が女性でした。弊社くらいの規模で社員を募集すると、優秀な女性がたくさん応募してくれます。女性パワーを活用することが、中小企業には不可欠なのです」 成績優秀なばかりではなく、女性には粘り強さがあると細野さんは指摘する。

また、多くが男性という職人さんの懐に、するりと入り込むような仕事をするには、商品企画を女性が行うのが有利だ。時には気難しい職人さんたちと、うまく話をつけてくる女性が多い。 お菓子好きな人が多いのも、女性の大きな強みだ。「私も仕事というだけでなく、お菓子が大好きです。小さい頃から、父が持って帰ってきたお菓子を食べながら『これはおいしいね』などと意見を言い合うのが、我が家の一家団欒でした」と細野さんは言う。

「面接の時に、お菓子が大好きという情熱を感じさせてくれる人がいますが、ほとんどは女性です。ただ、まれに男性でも『お菓子オタク』というくらいお菓子好きな人が入社してくることもあります」。銀座あけぼのは以前から、「自社製造のおかきは、宮城県産の宮黄金餅米しか使わない」という原産地主義を貫いている。「うちではそれが当たり前だと思っていたので、商品に原産地を表示してきませんでした。祖父の代からのこだわりですが、江戸っ子というのは、あえてこういったことを言わないのです(笑)」 ところが最近は他社の製品で、原産地をアピールするのが流行っている。そこで、「江戸っ子の粋」には反するが、銀座あけぼのでも原産地の表示を始めたそうだ。

そうしないとお客に「何も書いていないから、外米を使っているのかと思った」と言われてしまうからだ。これまでの跡取り娘への取材では、「跡を継いだものの、古参の役員とうまくいかない」という話を聞くこともあった。若い社長になった彼女に、障害はなかったのか? これについては、父が母の看病のために出社しなかった間、既に細野さん自身が会社を切り盛りしていた経緯もあり、「思ったよりも社内の受け入れはスムーズでした」という。

先代の父のやり方に真っ向から反発するのはだいたい男性で、私の知り合いの老舗の跡取り息子も、20代の頃は家を出たり商売を立ち上げたりし、家族との確執の末、今は家業に戻って落ち着いている。それに比べると女性の跡取りは、周囲とうまく折り合っていくタイプの人が多いようだ。無用な争いを好まない、女性ならではの「協調路線」なのだろう。また、大学卒業以来銀座あけぼの一筋のたたき上げでもある細野さんへの、周囲からの信頼も厚いのだと思う。

「しかしただ父の言うことを守るだけでなく、それ以上の結果を出さないと認めてもらえないことは覚悟しています」。では、細野さんと父親のビジネススタイルは、どう違うのか。 例えば春のディスプレーの企画が決まると、父親は「春らしい感じで」というイメージを伝えるだけだったが、細野さんの場合は「店舗のこのスペースにこの商品を置いて…」とシミュレーションを重ね、具体的な形に落とし込む。「具体的に明確に細かく指示していけば、どんな社員でもできるようになる。

自分から発案する社員、指示待ちの社員、いろいろな社員がいますが、みんなが今いる位置からレベルアップしていけるよう、心がけています」 木目細やかなフォローで“底上げ”していく、というのは、女性管理職が得意とするところだ。今期の企画や収益目標なども、細かいスケジューリングで指示していくことで、社員にも「そこに向けて自分はこう動こう」という自主性が生まれる。こういった具体的で明確な彼女の指示は、社内でも歓迎されている。

 

 

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2015年09月05日

銀座曙 No3

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理由は、日持ちしない商品だったこと。敬老の日に、直接祖父母に会いに行ける人ばかりとは限らず、遠距離で送りたい人もいる。しかし賞味期限が当日だったため、お客が買い控えしたのだ。 ヒットした商品もある。夏に出した商品で、シロップの中に梅、抹茶、漉し餡の3種類の水饅頭が浮いている「浮き浮きまんじゅう」だ。「ディスプレーから広告まで、すべて自分でやった商品が売れた。珍しく、コピーなどは外注して力を入れた商品なので、こんなにうれしいことはなかったです」と言う。

細野さんが30歳の時だった。実は、この大ヒット商品の広告コピーを担当したのが、細野さんの今のご夫君である。企画室長になった後すぐに、営業部長も兼務となった。企画室も人手が足りず、新卒や中途採用で、社員教育も一から行った。たった1人だった企画室のスタッフは、今では8人になっている。 銀座あけぼのは、3週間でディスプレーを替える。さらに定番商品のリニューアルを行い、新商品も多い時で1年に5〜6個は出す。多忙な日々の中、34歳で結婚。しかしその頃になっても、「結婚したら、会社を辞めてもいいかなと思っていたんです」と、あくまでも仕事に欲がなかった。

しかし、夫はコピーライターなので、自宅で仕事をする。そうなると、細野さんは外で働く方が夫婦としてはバランスがいい、と仕事を続けることになった。 さらに結婚3年目で、夫はあけぼのに入社することになる。「私が仕事の話をすると、夫はブランディングの専門家なので、あれこれと意見を言ってくれるのです。でも、口で言うのは簡単だけど、実際にやるのは大変なのよ…、といつの間にか口論になったりして。そんなこともあり、結局夫は会社に入ってくれたのです」。しかしこの頃になっても、細野さんには「自分が将来の社長」という意識は全くなかったと言う。

2004年11月、父である社長と蕎麦屋で昼食を取っていた細野さんは、突然こう言われた。「この後の役員会で、来期からお前を社長にすると言うから」。早すぎる引退のように見えるが、「この年の2年前に、母が亡くなっていたんです。父は、母が病に倒れてから1年ぐらいは、面倒を見てやりたいと言って会社にはほとんど出てこなかったのです」。 役員会の席で初めて妻が社長になると聞かされ、細野さんの夫も驚いた。

「主人や弟を社長にすることもできたのですが、何よりも『お菓子屋ということで、女性がいいと思った』と父は役員会で言っていました」と細野さんは言う。「私は商品部長、企画室長、営業部長、店舗も工場も全部経験しています。
また、銀座の商店会でも『社長の娘さん』ということで馴染みがあり、かわいがってもらえるなど強みもあると思ったのでしょう。主人がいて私を支えてくれるからと私を表に立て、『夫婦、兄弟みなで会社を盛り立ててほしい』と言い、父は本当にすっぱり引退してしまいました」

さて、跡取り娘はどういった経営戦略を取ったのか。まず細野さんは、2000年からインターネット上のショッピングサイト「楽天市場」に出店して、銀座あけぼのの商品の販売を始めた。「これは、社員からやりたいという声が上がったものです」ネット通販は、販路拡大だけでなくマーケティングにも利用できる。「新商品を開発するのに1年はかかります。日持ち、安全性、輸送に耐えられるかどうかのテストや、社内での試食なども行います」。また、楽天市場を通じてメルマガ会員となっている「あけぼの顧客」約1000人からモニターを募集して100人ほどにサンプルを送って試食してもらい、アンケート調査も始めた。

細野さんは店舗の社員300人に小さなノートを持たせ、お客からの声を漏らさず書きとめてもらっている。「部長だけの会議では、リアルなお客様のニーズから離れてしまうこともあります。社員一人ひとりのノートから、今何が必要とされているかが分かるんです」 父親が社長の時代は「カリスマについていく社員」が求められた。しかし自分の代になってからは、何でもスタッフと話し合って決めていくのが細野さんのスタイルだ。300人が提出するノートには、きちんと返事を書いているという。

 

 

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2015年09月04日

銀座曙 No2

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細野さんは「父親も、新しい発想をする人でした」と言う。例えば、おかきにチーズを入れた商品を開発したのも父親だ。「邪道と言われるようなことをやって、それをうまく商品として成功させるカリスマ性が、父にはあったのです」 「でも父は何も私に教えてくれませんでしたね。ほったらかしで、自分で考えて行動するしかない。当時は、父に冷たくされていると思っていました」。しかし、工場に配属した娘が思わぬ熱心さで仕事にはまっていくのを見て、カリスマ社長はひそかに「してやったり」と思っていたのかもしれない。

細野さんは25歳の時、新しい直営店舗、たまプラーザ店の店長になる。細野さんは、新店舗の立ち上げから関わった。菓子の包装は、小さい頃から手伝っているので慣れている。しかしアルバイトを雇ってシフトを組み、一店をすべて仕切るのは予想以上に大変だった。「毎日店を開けて、閉めるまでで精一杯でした」

店舗には喫茶スペースも併設していた。アルバイトを含めて5〜6人で切り盛りしていたが、朝アルバイトから「今日は行けません」と突然電話が入ったりする。接客に追われ、気がつくと喫茶部門のスタッフが誰もいず、焦ったこともあった。
「衛生管理士の資格は工場にいた時に取っていたので、ほかにスタッフがいない時は、お客さんの注文した品を私が自分で作って出すことも、しょっちゅうでした」 

細野さんが25歳の頃といえば、巷はバブルの真っ盛り。彼女の友人たちは華やかな日々を過ごしていたと思うが、細野さんは「3年間、毎日朝の7時から夜の9時まで働き続け、店を閉めると翌日のスタッフのシフトを考えたりしていて、11時頃になることもありました。休みは全くなし。当時は、友人の結婚式があるとやっと休みが取れる、という感じでした」 しかしこの頃の細野さんには、辛いという気持ちはなかったと言う。むしろ、お客と間近に接する楽しみを強く感じた時期だった。

「本当にこの仕事が好きだったんでしょうね」 「ただ、私のあまりの忙しさに、さすがに父もかわいそうと思ったのか、ある朝私が早くに出る時に、急に時計をくれました」。父親は無造作に「あげるよ」と時計を差し出したという。多分娘への精一杯の、そして不器用なねぎらいだったのだろう。しかし細野さんは内心、「そんな時計をくれるより、スタッフを増やしてほしい」と思ったとか。しかしもちろん、「社長」に面と向かってそんな要求はできない。父親でもあくまで社長だ。

その頃は既に、細野さんの意識は「銀座あけぼのの社員」になっていた。27歳で、企画室に異動となる。店舗ディスプレーや商品企画などを担う、同社の花形部門だ。しかし「私が入った時は、年配の室長が1人いるだけでした。父の代は、各店舗のディスプレーに関しては、『次は、春らしい感じでやるぞ』と大雑把な号令をかけるだけで、詳細は各店の店長任せだったのです」 季節のキャンペーンや新商品発売の際も、全店舗で統一したキャッチコピーやポップを作るという発想がなかった。

開店日や新商品発売の時に昔からつき合いのあるデザイナーが出向いていき、その場で手書きの看板を描く、という状態だった。企画室に異動して1年後に細野さんは室長になり、いよいよ自分の発想で商品企画や宣伝を担当することになる。現在のように、統一したディスプレーを全国100軒の店舗で一斉に行うスタイルは、細野さんが始めたものだ。 自分で企画した商品に思い入れはあるが、大失敗もあった。

「敬老の日に『ますますこれからまんじゅう』というのを企画したのです。枡の中におまんじゅうを詰めた商品でした」。祖母や祖父に「これからも、ますますお元気で」という意味合いを込めたもので、社内でも「これは当たる」と好評だったが、うまくいかなかった。

 

 

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2015年09月03日

銀座曙 No1

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http://www.matsuya.com/m_ginza/about/ginza/details/111005_01.html

「銀座あけぼの」といえば、おなじみの和菓子屋。各地のデパートの地下にある店舗でも知られている。お中元やお歳暮で届く、あられの詰め合わせを思い浮かべる人もいるかもしれない。築地育ちの私にとっては、三愛ビルの隣にある「気になる和菓子屋」だ。おいしそうな季節の和菓子をディスプレーしていて、通るたびに目をひかれた。 イチゴの季節にはイチゴをふんだんに使った和菓子が売られ、餡子がたっぷり入っていそうなふっくらとした大福が山と積まれている時もある。

和菓子の老舗というと、見本が宝石のように飾られていて、しんとして入りづらい店が多いのだが、あけぼのの店はいつもポップで元気な印象が強い。銀座の店頭は、いつでもお客でいっぱいだ。 今回の跡取り娘は、2004年11月に銀座あけぼのでおなじみの曙の社長に就任した、細野佳代さん。祖父が銀座で興し、料亭などに和菓子を卸していた老舗の3代目になる。「初めは、社長になるつもりは全くなかったんですよ」と柔らかな笑顔で言う細野さん。

取材当日は黒いパンツスーツで現れたが、着物でも着ていたら、おっとりした老舗のお嬢さんというイメージそのものだ。「大学卒業後、しっかり仕事をするつもりはあまりなかったのです。銀座あけぼのに入社したのも、結婚までの腰かけのつもりでした」。しかし実際は、大学を卒業してからずっと銀座あけぼので働いている、和菓子業界20年のベテランでもある。 細野さんは、銀座あけぼの2代目社長の長女として生まれ、幼稚園から私立の玉川学園に入る。

しかし、あまりにおっとりした娘の性格を心配した母親が、「このままでは先行きが心配」と、公立の小学校に転校させたそうだ。高校と大学はまた玉川学園に戻り、教育学部を専攻した。 しかし教育実習で小学校1年生を受け持った細野さんは、ある子供が問題行動を起こす様子を見て、行き詰まる。「こういった子たちに私がしてあげられることがあるのだろうか? これを仕事にするのはキツイ、と思ってしまったんです。

あとから考えたら、仕事の厳しさはどこでも一緒だったんですけれどね」。どうしても教師になりたかったというわけでもなく、厳しい就職活動をすることもなく、進路はすんなり銀座あけぼのに決まった。20人の新入社員とともに入社したが、両親は決して細野さんを甘やかさなかった。 入社した新人の配属先は本社か店舗だったが、細野さんの行き先は工場だった。16人の社員のうち、障害を持った人が半分という小さな工場だ。入社1日目から、細野さんはショックを受ける。

ほかの社員はみなベテランなのだ。卵を割る作業ひとつとっても、細野さんはみなに全くかなわない。「仕事をなめていた。これは頑張らなくては、と思いました」 早くほかの人に追いつきたいと奮起するあたり、細野さんは本当に素直だったのだと思う。可愛がられて育った「お嬢様」が会社に入ったら、1日でいやになる人もいるかもしれない。しかし細野さんにとって、工場は楽しい職場だった。 2人でペアを組み、1日に作るお菓子の量はざっと30万円分。

これらがちゃんと流通に乗って売れていくさまを見て、「私は、世の中の人においしいと思ってもらえるものを作り出しているんだ」と細野さんは初めて思った。 仕事の楽しさに目覚めると今度は、「このお菓子をもっとおいしくするには?」「もっと売るためには?」と試行錯誤するようになった。ついには、新作を持って関東圏の70店舗を訪ね歩き、営業するまでになった。これまで、こんな社員はいなかった。当然店舗の反応も様々だった。

「社長の娘だから話を聞いてやるか、という態度の人もいましたし、こんなものは売れないとつき返され、泣きながら帰ったこともありましたね」。ちなみに、この時の新作菓子は、しっとりタイプのマドレーヌ。細野さんの母親が得意だったお菓子である。今では、ハート型のマドレーヌ「銀恋」として、商品化されている。 「和菓子の新作がマドレーヌ?」と思う人もいるかもしれないが、もともと銀座あけぼのの和菓子は、斬新なものが多いというのが私の印象だ。

 

 

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2015年09月02日

なぜ、人は「セブン-イレブン」に行きたくなるのか?

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http://diamond.jp/articles/-/77559

1店舗あたりの売り上げが 他社より2割多い理由
経営においては「徹底」がとても大切です。皆さんもよくご存じのコンビニ業界を例に出し説明しましょう。小さな行動を「徹底」し、「継続」したことで、競合他社との業績を大きく引き離しているのが、セブン-イレブンです。セブン-イレブンは、現在、日本国内に約1万8000店舗ありますが、1店舗あたりの毎日の売り上げが、他のライバル店に比べて2割も多いのです。毎日2割違うのです。セブン-イレブンが約60万円台なのに対し、他のコンビニチェーンは50万円台前半のところがほとんどです。

でも、考えてみればけっこう不思議です。どのコンビニに行っても、本や雑誌が並び、日用雑貨が用意され、お菓子や食品、飲料が並ぶコーナーがあります。「どこで買っても似たようなもの」になってもおかしくないですよね。コンビニエンスストアでは、成功のためのキーワードが4つあると言われています。「品揃え」「鮮度」「クリーンリネス(店の美しさ)」「フレンドリーサービス」で、この4つがキーワードであることはどのコンビニも十分に承知しています。そして、それを実行している。

でも、売上高には歴然と差があるのです。
セブン-イレブンのおにぎりって他のコンビニよりもおいしいと思いませんか?以前、同社の役員さんから聞いた話ですが、おにぎりのお米は主に魚沼産のコシヒカリを使っていますが、バイヤーが田んぼの日当たりまで確認し、業者がお米を炊くときも米の芯の温度までチェックしているそうです。サンドイッチもそうです。私は、セブン-イレブンの「シャキシャキレタスサンド」というハムとレタスのサンドイッチが好きなのですが、その名の通り、レタスのシャキシャキ感が、他のコンビニのサンドイッチとは全然違うと思います。すごくおいしい。

おにぎりにしてもサンドイッチにしても、他のコンビニにも同じようなモノは売っている。でも、ちょっとしたことが全然違うから、お客さまは「セブン-イレブンのおにぎりやサンドイッチだから食べたい」と思い、他店より少し遠くても、セブン-イレブンまで足を延ばしてでも買いたいと思う人が出てくるのです。これは、商品に限ったことではありません。お店の前に置いてある灰皿も、店長がマメにチェックしているせいか、セブン-イレブンは他のコンビニよりもきれいになっていることが多いように思います。

毎週欠かさず、継続することの大切さ
実は、セブン&アイ・ホールディングスでは、イトーヨーカドーの店長会議を週1回、セブン-イレブンのスーパーバイザー会議を本社で週1回行っています。私の会社は、同社本社の目と鼻の先にあるのですが、毎朝、7時過ぎぐらいに会社の最寄駅に着くと、週に2回は同社の社員の団体を見かけます。彼らは、毎週欠かさずに会議を行っています。おそらく、20年以上1000回以上は行っていると思います。一見ムダなように思えますが、実際に顔を合わせることで、トップや仲間同士の考え方を直接共有し、それを小さな行動などや商品、サービスなどに具体化させやすいのです。やはり、「お客さま第一」を実践している会社は、小さな行動を「徹底」し、かつ「継続」しているのです。

セブン&アイ・ホールディングスは、みんなで顔を合わせて会議を行い、お客さまのために、より良い商品やサービスを提供するには、何をすべきか話し合う必要性を感じているのだと思います。毎週1度、会議を行うという「行動」を1年、5年、10年と続けることで、「お客さま第一」の意識が芽生えることを、同社は、20年の経験から知っているのです。でなければ、全国から店長やスーパーバイザーが毎週欠かさずに本社に集まることなんてできません。ましてや、続きません。それを続けることの大切さを知っているからです。

やり続けるというのは難しいものです。週に1回、会議を開くことならどの会社でもできますが、それを5年、10年と続けることができないのです。他の小さな行動も同じです。続かないのです。

「行動」「意識」「徹底」「継続」が 会社を変える
これが、おにぎりやサンドイッチのおいしさ、店員の接客態度、品揃えの豊富さ、お店の清潔度などの違いになって現れるのです。もちろん他社のコンビニだって、これらの要素がなってないとは思いませんし、セブン‐イレブンのお店の中にも十分でないところも実際あります。しかし、心を込めてお客さまに接しよう、できる限りお客さまの要望に応えられる品揃えを心がけよう、どのお店よりもきれいにする気持ちで掃除するという「行動」と、それに伴う「意識」は、やはり、セブン‐イレブンで働く社員は「徹底」され、かつ、「継続」しているのだと思います。

コピー用紙の紙の厚みはわずか、0.1mm程度。でも、それを100枚分積み重なたら、けっこうな厚みになりますよね。セブン&アイ・ホールディングスが行っている週に1回の会議や各お店で行っている小さな行動も同じです。たかが、週に1回。でもそれを積み重ねたら100回になり、1000回になります。その1000回は、厚みならぬ「重み」になるのです。だから、セブン‐イレブンは日本のコンビニのトップを走り続けることができ、1店舗あたりの毎日の売り上げが他社のコンビニよりも2割も多いという結果にはっきりと表れるのです。

小さな行動を徹底することがとても大切なことで、それが大きな差になるのです。

 

 

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2015年09月01日

米ハーバード大が注目した日本の新幹線清掃会社「テッセイ」

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「7分間の奇跡」。
最近、米国CNN放送が日本の高速鉄道新幹線のある清掃会社を絶賛した言葉だ。「われわれはどうせ清掃する人間だ」という自嘲と敗北意識でいっぱいだった会社。しかし定年退任した後、白衣従軍したあるリーダーによって、今は米国ハーバード大経営大学院や中国清華大など世界各国から見学に訪れるほど名の知られたトータルサービス会社に生まれ変わった。新幹線が東京駅に到着して再び出発するまでの7分間に行われる清掃作業は外で演劇のように観覧できるようにし、「7分間の新幹線劇場」という別名までついた。奇跡の現場を訪ねて行ってみた。

先月20日午前11時。東京駅20番ホームに新幹線「なすの270号」が入ってきた。プラットホームの床に表示された黄色いラインの外側で、赤いユニホームを着た約20人が列を整えて新幹線を迎える。20代から50代まで幅広い年齢帯のこの人たちは、列車が近づくと頭を下げてあいさつした。 それぞれ肩には大きなカバンを掛けている。帽子は季節
に合わせて桜の花がデザインされたピンで飾っている。

列車が止まると、カバンから大きなビニール袋を取り出し、乗客が降りる出口に近づいた。「お疲れ様でした」。ビニールを開いて乗客にあいさつすると、乗客は手に持っていたゴミをビニールの中に入れた。

ついに下車完了。この人たちは列車に乗ると、「乗車準備中」という札を出入り口に掛けた。パフォーマンスはここから始まる。「7分間の新幹線劇場」と呼ばれるパフォーマンスは、他でもない新幹線の清掃作業だ。列車の中に入った人たちはJR東日本の清掃担当子会社「テッセイ(TESSEEI)」の職員だ。 しかしなぜ7分なのか。通常、東京駅に入った新
幹線がプラットホームに停車する時間は平均12分。

午前11時に到着した「なすの270号」も11時12分に福島県郡山に向けて出発する。12分間から乗客が下車する2分間と乗車する3分間を引いた7分間に10両または16両編成の新幹線をきれいに清掃するのがミッションだ。

取材チームも7号車に乗り、7分間の清掃ショーを“観覧”した。「まず長さ25メートル客室のうち通路を歩いて左右100座席をチェックする。座席前の網の中と椅子に残ったゴミを床に落とす→自動座席回転機で座席全体を出発方向に向ける→座席背もたれのテーブルを開いて汚物を拭き取る→この時に閉められた窓のブラインドは開ける→通路に集めたゴミを掃き取る。汚物があればぞうきんで拭く→汚れた座席カバーが見つかれば取り替える→上級者のOKサインが出れば作業が終わる」。

速やかな作業を携帯電話のストップウォッチで測定したところ6分30秒ほど。清掃を終えた7号車の担当者は「上級者のOKサインを待つ時間を除けば、通常5分30秒ほどで作業が終わる」とし「新幹線の配車が増え、客が多い休暇シーズンには4分以内にすべての作業を終えなければいけない」と話した。 11時20分発の岩手県盛岡行き新幹線「はやぶさ1
5号」に乗って時間を測定したところ、今度は6分20秒、別の新幹線も6分40秒と似ていた。

10両編成の通常の新幹線は1チーム22人、16両編成の新幹線には2チーム44人が担当する。東京駅では一日2交代で全11チームが午前6時から午後11時まで清掃作業の責任を負う。清掃すべき新幹線は一日平均110本、新幹線が追加で投入されるシーズンには160本を超える。

1チームが一日平均、新幹線20本を処理しなければならず、大変な業務だ。座席数は一日12万席、単純計算しても年間4380万席だが、顧客の抗議は年間5、6件にすぎない。矢部輝夫部長は「わずかに乗客の抗議があるが、そのほとんどが遅く到着したためJR東日本から『時間がないのでテーブルの清掃はするな』という指示が出た場合」とし「実際の抗議の比率はゼロに近いと見ればよい」と話した。

 

 

posted by タマラオ at 06:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記