2015年08月01日

孤高の食材、こんにゃくのイノベーション  No2

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そうした中で現れたのが、常陸久慈郡諸沢(いまの茨城県常陸大宮市)に住んでいた藤右衛門(とうえもん、1745〜1825)という農民である。ある日のこと、藤右衛門は、鍬で切られて剥き出しとなったこんにゃく芋の表面が白く乾燥しているに気づく。その気づきをもとに、こんにゃく芋を輪切りにして、串に刺して乾燥させて、砕いて粉にすることを思いついたのである。これがこんにゃくの歴史に革新をもたらす。山村から街まで売りに、重いこんにゃく芋を運ぶのは過酷な作業だったにちがいない。

こんにゃくの歴史などに詳しいライターの竹内孝夫は、藤右衛門の子孫が住む家を尋ね、7代下にあたる家族から「藤右衛門はこんな山奥からこんにゃく玉を売り歩くのは容易じゃないというんで、粉にすることを思いついたんですよ」という話を聞き出している(講談社『本』2003年3月号より)。 乾燥したこんにゃく粉であれば、こんにゃく芋の生玉にくらべて約10倍濃縮した状態で運べる。極めて効率よく、こんにゃくの原料を売ることができたのである。

藤右衛門や村の農民の生活はこれで潤った。この功績により、藤右衛門は「中島」の姓を授けられた。茨城県久慈郡大子町には、中島藤右衛門を祀った「蒟蒻神社」も建てられた。中島藤右衛門が及ぼした影響は、自分や家族、村の農民にとどまらない。乾燥した粉の状態にしておけば、こんにゃく芋の弱点である寒さのなかでも貯蔵することができる。原料が粉になったことで、こんにゃくは短い期間に収穫地の近くのみでしか食せない食材から、1年を通して全国の広い範囲で食せる食材に変貌を遂げたのである。

こんにゃくで100通りの料理を楽しんだ江戸庶民
こんにゃくにこのような革新が起きたことで、こんにゃくは庶民の食べものとしてさらに普及していった。こんにゃくのもてはやされぶりは江戸時代の書物にも伺える。1846(弘化3)年、嗜蒻陳人(しにゃくちんじん)という雅号の人物が、『蒟蒻百珍(こんにゃくひゃくちん)』という料理書を出した。 江戸時代、1つの食材で100種類ほどの料理を紹介する書物「百珍物」が流行した。以前「豆腐」を取り上げた回では『豆腐百珍』を紹介したが、その刊行から64年後に世に出たのが『蒟蒻百珍』である。

これほどの年月を隔てて「百珍物」が出たのは、百珍物の根強い人気とともに、こんにゃく自体が人気者になっていたためだろう。『蒟蒻百珍』を見ると、いまも食べられている料理として「田楽」がある。「大きさこのみにより串にさし 味噌
に焼目つくを度とす」などと記されている。 変わったところでは、お菓子のような「砂糖豆」という名前の料理もある。「こんにゃくをゆでて包丁のむねに叩きよきほどに丸めつなぎは葛の粉をもちひさつと湯に透し黒胡麻味噌にてあへる」。

また、『蒟蒻百珍』で少なからず紹介されている料理が、こんにゃくを揚げる調理法である。例えば、「あられ」というこんにゃく料理では、「小角に切り、いかき(ざる)に入れ強く振り廻すれば、角丸くなるをさっと揚げ」とある。炒って揚げることで丸みを帯びたこんにゃくを、薄醤油、生姜の絞り汁、わさびなどとともに食べるものだという。いま再現してみれば、美味しく味わえるのではないかと思えるこんにゃく料理が多くある。

「百珍」と銘打つからには、当時の庶民も知らないこんにゃく料理も多かっただろう。しかし、そうであっても「こんにゃくでこんな料理もできる」と紹介されたのは、こんにゃくがそれほど庶民の食材として定着していたことを物語っている。

定番になるほどイメージも固定化される
こうして、粉にして作るという製法面での革新や、「百珍物」という料理本の刊行により、こんにゃくは日本人にとって欠かせない食材の1つとなった。灰色のぷるるんとした食感の食材は、こうして定着していったのである。いまや、こんにゃくといえば誰もがその姿を思うかべられる。四角い姿の板こんにゃくや、細くして鍋などに使う糸こんにゃくや白滝などだ。 しかし、定番としての印象が強くなればなるほど、定番の姿から抜けだして新たな製品を考えることは難しくなる。「こんにゃくといえば、この形、この料理」という固定化されたイメージは、今の今まで長らく続いてきた。

 

 

posted by タマラオ at 07:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記