2015年08月09日

テクノロジー失業 No1

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http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/44431

ロボットが人間の職を奪う時代がついに到来 米国で壮年男子の失業率は11.5%、テクノ失業が原因
テクノロジー失業(以下テクノ失業)が広がっている。この言葉は2年ほど前から広く使われはじめ、コンピューターやインターネットの発達によって人間が仕事を奪われることを意味する。言葉は新しくても、雇用市場ではすでに何年も前から情報技術の進歩によって事実上の解雇が発生してきた。これまで3人でこなした仕事をIT技術の導入によって、2人でできるようになり、1人が解雇されればテクノ失業になる。この潮流が今後はさらに加速してくる。

特に米国でその流れが顕著だ。8月4日に米国で出版される『Humans Are
Underrated(ロボットに負けた人間:拙訳)』の著書ジェフリー・コルビン氏は、人間が作り出したコンピューターやロボットによって、今後は加速度的に仕事を奪われていくと予測する。 同書は出版前から米国で話題を集め、21世紀の人間と機械との住み分けを示す内容になっている。コンピューターが社会に根を下ろし始めて久しいが、今後はロボットが人間社会に深く関与してくるというのだ。

発売開始1分で完売した「ペッパー」
それはまぎれもなくロボットに職を奪われることでもある。第1次テクノ失業の要因がコンピューターならば、第2次テクノ失業はロボットと言えるかもしれない。今月に入って日本でも、ロボットの話題が続いた。ソフトバンクが売り出した感情認識ロボット「ペッパー」は、初回生産1000台だったが、発売開始から1分もたたないうちに完売となった。長崎県佐世保市にあるハウステンボスにオープンした「変なホテル」では、ロボットが接客する奇抜さが話題になっている。

東京都千代田区にある日本外国特派員協会に所属する外国人記者たちは、新しいロボットを「日本らしさ」と捉えて本国に記事を送った。友人のドイツ経済紙の記者は、「すでに3本も書いた。モダンな日本を象徴するニュース」と好意的に伝えている。 英インディペンデント紙は、「ロボットが社会で本当に役立つ存在になれるのか、それとも単なる物珍しさの域で終わってしまうのかの大きな分岐点」と冷静な見方を示した。

進歩し続けるロボットの可能性に思いを馳せると、人間はもっと真剣に危機感を抱くべきなのかもしれない。20年後、人間は確実に「ロボットからの上から目線」を感じることになるだろう。 前出のコルビン氏は米国ではすでにテクノ失業が起因して解雇が増えていると書いている。今年5月の米失業率は5.5%(米労働省)だが、コルビン氏によると25歳から54歳の男性の実際の失業率は11.5%になるという。その要因がテクノ失業で、この数字は今後も増え続けていくようだ。

冷静に考えれば、機械ができる仕事で、しかも人間よりも正確に、さらに迅速に職務をこなせれば機械に任せる方が得策ではある。例えばテラーと言われる銀行の窓口業務は今やネットバンキングに移行しつつある。すでに数字に現れている。マッキンゼー・グローバル・インスティテュートの調査によれば、2001年から2009年までで、全米のテラー数は約70万人も減少した。

 

 

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2015年08月08日

「池袋の天狗」が「定食店のおやじ」に戻った日 No2

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http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/interview/15/269473/073000009/

店での接客や調理はいつしか従業員任せにして、格好を付けて当時はやっていた大皿料理の居酒屋を出したのです。うまくいくわけもなく、居酒屋は大失敗。わずか1年で閉めました。 追い打ちをかけるように、3店目の東京・吉祥寺店が従業員の不注意から、火事で全焼してしまった。直接の原因は従業員にあるかもしれないが、経営者の私が店を従業員任せにしていたから、起こるべくして起きたのです。

従来の定食店のイメージを打ち破る
この2つの出来事は浮ついていた私を戒めました。自分は定食店の店主にすぎない。社長だと偉ぶるのではなく、定食店のことだけを考えてしっかり働こう、店の全焼も前向きにとらえるんだと、自らを叱咤しました。3号店を再建するときに、従来の定食店のイメージを打ち破るような店舗をつくろうと思い立ちました。明るくきれいな店にすれば、女性客も来てくれるのではないかと考えたのです。私も再び店に入り、調理や接客をしました。店は半分以上が女性客で埋まり大成功。

私は気持ちを引き締め、それからも午前中は店で働き、午後に社長の仕事をすると決めて、その後5年間これを守りました。「自分は定食屋のおやじ」だと、今も自分に言い聞かせています。池袋の定食店の成功は、若かった三森さんを天狗にした。しかし、居酒屋の失敗と店舗の火災で反省を余儀なくされる。これが、その後の大戸屋発展の土台になるのだが、ただ、人生においてこうした大失敗に直面しても、誰もが素直に自らの非を認め、その失敗をエネルギーに転換できるわけではない。

15歳で養子に。父を心から尊敬していた
実は三森さんは養子だった。15歳のとき、子供のいなかった伯父の養子になる。店の見てくれは悪かったとはいえ、裸一貫から繁盛店をつくり上げた父のことを尊敬し、父も三森さんをとてもかわいがったという。だから三森さんは、父が残した定食店を発展させることが恩返しになると考えていた。どんなに店を繁盛させても、「汚い定食店のおやじ」としか見られることのなかった父。その父に向けられる世間の目を変えるには、老若男女が「こんな定食店に行きたかった」と思ってくれる店をつくるしかない。

父に対する尊敬の念があったから、一時、天狗になっていた若者は、「定食店のおやじ」に立ち戻ることができた。あくまでも「定食店のおやじ」として、新しい定食市場を切り開いていこうと、自らに誓ったのだ。経営者としての三森さんの信念が一切ぶれることはなかったのは、こうした理由からだ。その謙虚な姿勢で多くの人に私淑して学ぶことを怠らず、そして多くの人を引きつけた。和食が世界に広がる今、ますます三森さんの活躍が見られると思っていたのに、残念でならない。

 

 

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2015年08月07日

「池袋の天狗」が「定食店のおやじ」に戻った日 No1

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http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/interview/15/269473/073000009/

大戸屋ホールディングスの三森久實会長を偲ぶ
1957年山梨県生まれ。15歳のとき、東京・池袋で「大戸屋食堂」を経営する伯父の養子になる。79年に店を継承し、83年大戸屋設立。2001年株式上場。05年タイのバンコクに海外1号店を出店。その後、台湾やインドネシア、米国にも出店。15年7月27日逝去

定食店チェーンのパイオニア、大戸屋ホールディングスの三森久實会長が7月27日、57歳の若さで逝去した。女性が気軽に入れる新しい定食店のスタイルを確立し、国内だけでなく、タイをはじめ海外にも展開。店舗数は計400店を超えたが、持ち前のベンチャースピリットは衰えることがなく、最近は米国市場開拓の陣頭指揮を執っていた。外食業界に大きな足跡を残した起業家を、生前のインタビューと共に振り返る。初めて三森さんを訪ねた日のことは忘れられない。

1999年1月、冷たく激しい雨が打ち付ける日だった。当時の大戸屋(後の大戸屋ホールディングス)の本社は、東京郊外の私鉄駅(西武新宿線田無駅)から15分ほど歩いたアパートの一室にあった。 大げさに言っているのではなく、正真正銘のアパートだったと記憶している。しかも、お世辞にもきれいとはいえず、昭和の苦学生が住んでいそうな、老朽化したアパートだった。 既に30店ほど定食店を展開し、急成長企業として耳目を集めていたので、華やかなイメージとのギャップにかなり驚いた。

本社前で合流予定だったカメラマンを待つ場所に困り、仕方なく来た道を戻り、コンビニで雨と寒さをしのいだ。「なかなか、レトロな感じの事務所ですよね」 にこっと笑って答えてくれた 取材の冒頭で、
嫌味に聞こえるかもしれないと思いつつ、婉曲的にそう尋ねてみた。すると三森さんは、にこっと笑った。「ははは。でも、すごく居心地がいいんですよ。この部屋で一人静かに、各店から届くお客様のアンケートを読んでいると、反省をさせられるし、いろいろな考えも浮かんでくるんです」

そう言って、狭い部屋の一角にどっさりと、しかし丁寧に積み上げられたアンケートの山を指差した。30店も展開していたら、ちょっといい気になってもおかしくないのに、この三森さんという経営者のストイックさは普通ではないなと思った。その後、本社は企業規模に相応しい建物に移り、株式上場も果たした。本社こそ立派にはなったが、何度取材しても、三森さんに偉ぶるところはなかった。定食店の経営が楽しくて仕方ないという様子で、古びたアパートにいた頃と同じように、店に寄せる思いをいつも話してくれた。

なぜ、三森さんは自らを律することができたのか。なぜ、経営者として成功したのか。2007年のインタビューで、その転機を語っているので、全文を紹介する。1958年に東京・池袋で父が始めた「大戸屋食堂」は、安さだけが取りえの大衆食堂でした。お世辞にもきれいとは言えない造りで、料理や接客のレベルも、当時の池袋周辺では一番劣っていたはずです。 父の死に伴い、79年に店を継いだ私は20歳そこそこの若僧で、無我夢中で店に立ちました。

当時の定食店ではどこも使っていなかったような立派な食器に変えたり、のりの佃煮の瓶詰を“ボトルキープ”するといったアイデアをどんどん実行しました。客足は着実に伸び、気が付けば行列ができるほどの人気店に。お金も貯まり、2号店、3号店を出せました。東京・池袋の1号店。三森会長の養父が1958年に開業した「大戸屋食堂」が前身だ  その頃、私はまだ30歳前。経営な
んて簡単じゃないかと、自分の力を過信しました。

 

 

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2015年08月06日

マグロが回転寿司から消える日がやってくる!? Mo3

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もちろん、今、いい食材の確保が難しくなりつつある現状があり、良質な食材の価格は上がり続けている。結局のところ、我々はマグロを食べ過ぎていたのだ。高級品ではない回転寿司のマグロだって、そう遠くない未来に食べられなくなる。そうしてマグロは富裕層の口にしか入らないものになる。このままいくと食文化は一部のエリート層のものになっていくのかもしれない、とも思う。

国の動きを待っていては遅い 消費者がマグロを守るためにできること
日本の漁業については一部の養殖などをのぞき、明るいニュースがあまりない。少し前の話だが、北欧から来日したシェフの料理を賞味する機会があった。そこで食べたノルウェー産のホタテ貝に驚いた。身が緻密で、味わいが特別に深い。「ノルウェーは水温が低いので、成長がゆっくり。だからその分、身が緻密で美味しい」のだとシェフは説明した。つまり、ノルウェーでは育成期間を充分にとって、高付加価値の商品をつくっているのだ。

漠然と日本の魚介類の質は高いと思っていたが、そうとばかりも言えないようだ。例えば鯖である。スーパーではノルウェー産の鯖を買うことができるが、消費者がそれを選ぶのはもちろん「美味しいから」だ。日本の鯖の質が低いわけではない。銚子で『極上サバ』という大きく育った鯖を食べたことがあるが、脂の乗りもよく格別の美味だった。食べるためにわざわざ銚子を訪れる価値のある味である。しかし、そうした成長した鯖はそう多く獲れない。

休漁などの一応のルールはあるものの、巻網で鯖をとりつくす乱獲が続いていて、鯖が大きく育つまで待つことができないのだ。こう書くと漁業者が悪いような気がするが、そうとも言い切れない。銚子が獲らなければ、他所が獲るだけだからだ。コモンズの悲劇の典型的な例だ。以前『ニッポン 食の遺餐探訪』という連載のなかでも書いたが、それを防ぐ
には個別割り当て方式に代表される漁獲規制を導入するべきだ、という意見がある。個人的には僕も賛成だ。

しかし、濱田武士氏の『漁業と震災』という労作を読むと「なるほど」と納得させられる。濱田氏の意見は「個別割り当て方式を導入しただけで、問題が解決するわけではない」というものだ。 『漁民みながそのような行
動をとれば(中略)大型魚の乱獲が発生し、価格暴落に繋がることにならないであろうか。そもそも水産資源の減少の原因は漁獲の行き過ぎだけではない。海そのものの環境劣化の進行などにも求められる』

おそらくどちらも正しいのだろう。規制をつくらない国が駄目だ、という意見は正しいが、有効ではない。『失われた20年』が証明しているように、この国で政治が有効に機能したことなどないからだ。さらには企業の力が大きくなるうえで国家のプレゼンスは低下の一途をたどっている。こうした状況で国に期待するのは愚かだ。とりあえず今、大事なことは「我々でできること」と「国がやるべきこと」を分けて考えること。

国が動くのには時間がかかるので、我々は我々でできることを考えるべきで、それは例えば持続可能性のある食材を選択して食べるということだ。月並みな結論かもしれないが、妙な正義感で漁業者や魚の需要が伸びている諸外国を批判するよりはよっぽど有意義だ。資本主義の世界では、消費者は力を持っている。その力をどのように行使するか、ということを考える余地はまだある。

 

 

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2015年08月05日

マグロが回転寿司から消える日がやってくる!? Mo2

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戦後、世界中のマグロが築地に集合!マスコミが“江戸の文化”を全国区に
さて、時代は下り、漁の技術も進歩していく。江戸時代に生まれたマグロ漁だが、昭和初期には大きく発展する。アメリカ向けのツナ缶の輸出が好調だったからだ。芸術家で美食家としても知られる北大路魯山人は「鮪を食う話」という随筆のなかで「米国では鬢長まぐろのサンドイッチを発明してこれが流行した」と書いている。戦後になり日本人が豊かになると国内での消費が増えはじめる。冷凍技術の進化を背景に世界中のマグロが築地に集まるようになった。

マグロをはじめ『魚離れ』を水産庁の人は喧伝するが、ここ数年をのぞいて魚の国内消費自体は割に堅調に推移している。ここ数年の減少は経済的な理由によるものもあるだろう。大きく変わったのは消費の割合だ。かつて、家庭で消費されていた魚は、外食など外で食べるものになった。例えば一昔前ならこんなに回転寿司は多くなかったから、実感として理解できる。今回、規制が検討されたクロマグロは高級寿司の世界の花形だ。

以前、ある北海道の寿司屋が東京に進出したのだが、その理由は「築地からマグロを仕入れるため」だそうだ。いいマグロを仕入れるためには仲買との付き合いが必要で、そのための東京進出だという。マグロは本来的には東京(江戸)の文化だ。関西人の魯山人は「まぐろは下品で食通を満足させるものではない」と言っているが、他の地方ではいいマグロは手に入らない。関西では秋に規制の対象になったヨコワ(幼魚)を食べる習慣があるものの、マグロは珍重されてこなかった。

今は関西でもマグロは人気だ。戦後のメディアの発達などにともない東京の文化が全国に広まり、さらには回転寿司などの普及があいまって、マグロは日本中で食べられるようになったのではないだろうか。

海外のレストランは「マグロ外し」へ 日本の料理人は“持続可能性”を考えているか

マグロ資源が枯渇しかけていることは前述したが、僕が気になっているのは寿司店だけではなく飲食店の動きが鈍いことだ。国外ではレストランのメニューからマグロを外す動きがある。世界57ヵ国の高級ホテル・レストラン475軒が加盟する組織「ルレ・エ・シャトー協会」は2011年に加盟している飲食店やホテルのメニューからクロマグロを外すように要請しているし、有名シェフのアラン・デュカスも資源量が充分にある魚にフォーカスしたレストランを計画しているそうだが、食文化を守り、また楽しむ上で持続可能性は無視できなくなってきている。

TEDカンファレンスに登壇したシェフのダンバーバー(TED『魚と恋に落ちた僕』)やアーサー・ポッツ・ドーソン(TED『持続可能なレストランへのビジョン』)をはじめ、諸外国では環境への配慮をはじめ、生産と消費の橋渡し役として料理人は期待され、また活躍しているが、翻って日本の状況は暗い。サスタナビリティまで考えて食材を選んでいるレストランがどれだけあるだろうか、というと心もとない。

以前、料理の専門誌を読んでいて、ある鼎談が目に止まった。料理人とそれ以外のジャンルから識者を招いての鼎談だったのだが、その席で料理人が「サスタナビリティってなんですか?」と発言していたのだ。言葉すら知らないという現状。困ったことに、この方はそれなりに著名なシェフなのだ。問題はマグロだけではない。資源が心配されている魚は他にも多い。鯖だって取り尽くす勢いだし、秋刀魚にだって外国船の乱獲やレジームシフト(数十年単位で潮の流れが変わる現象)による影響など不安要素はある。

 

 

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2015年08月04日

マグロが回転寿司から消える日がやってくる!? Mo1

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http://diamond.jp/articles/-/59404

今年の夏はいたるところでうなぎが話題にのぼった。6月に国際自然保護連合(IUCN)の絶滅危惧種に『ニホンウナギ』が指定されたからだ。さすがに「もう食べられなくなる」という危機感を抱いた人も多かっただろう。しかし、あいかわらず牛丼チェーンには「うな丼」が並び、スーパーでは蒲焼きが大々的に売りに出されていた。そうした場所で売られている多くは中国などで養殖飼育された『ヨーロッパウナギ』である。『ヨーロッパウナギ』も数年前にワシントン条約の対象になり、2010年にはIUCNの絶滅危惧種に指定されている。結局、日本人はウナギを絶滅寸前までせっせと食べ尽くしてきたわけだ。

そして、今度はマグロだ。日本でも以前からマグロ資源については心配されていたものの、その対策に本格的に取り組んできたわけではなかった。例えば『92.6%』という数字がある。これは太平洋で漁獲されるクロマグロのうち、ヨコワ(幼魚、関東での呼称はメジマグロ)の占める割合だ。ほとんど稚魚のうちに獲っていることがわかる。味がのるとされる四歳魚以上の割合はわずか1.2%、卵を産む前の子どもの段階で獲りつくしているわけだ。

日本は世界のクロマグロの世界総生産量の8〜9割を消費していると言われるので、資源の枯渇は「日本人のせい」ということになる。ちょっと肩身が狭い話だ。今回、中西部太平洋まぐろ類委員会(WCPFC)で「未成魚(30キロ未満)の漁獲を2015年から半減させること」に合意した。資源回復にむけての第一歩を踏み出した格好である。ただ、この合意では幼魚を獲ることを控えただけだから「資源量は回復しない」と言われており、産卵場付近で漁がおこなわれていることなど今後の課題も多い。

今回、対象となったのはクロマグロだが、乱獲により絶滅の危機に貧しているのはそれだけではない。絶滅危惧種を記載したIUCNレッドリストにも全部で8種類あるマグロのうち5種が登録されているというから深刻である。マグロ資源の減少はクロマグロやミナミマグロといった高級マグロだけにとどまらず、すべてのマグロ類が乱獲により減少していることが報告されている。

明治時代、日本人は魚を食べていなかった!? マグロ消費を伸ばした醤油の存在
漁業問題はとりあえず横に置いておいて、日本人と魚との関わり、食文化に目をむけてみよう。意外かもしれないが昔の日本人はそれほど魚を食べてこなかった。明治時代末期(1910年)の一人あたりの年間消費量はわずか3.7キロで現在の10分の1程度だった。魚を食べていたのはあくまで都市部や沿岸の一部の話。保存技術も流通も発達していない時代、滅多に食べられない貴重品だった。

日本人が魚を多く食べるようになったのは戦後になってからで、いわゆる「魚食」が普及したのは1950年代からだ。これは冷蔵庫の普及が大きく関係している。冷蔵庫が普及したことで沿岸部以外の場所でも日常的に魚が食べられるようになった。一般的にはマグロは江戸時代から食べはじめられたと言われているが、江戸都市部の限定的な話で、日本中で食べられていたわけではない。マグロの消費が増えはじめたことの理由として考えられるのは醤油の普及である。醤油は赤身の魚の生臭さを消し、また漬けることにより保存性も高まった。

この頃、好まれていたのはもっぱら赤身。 「ねこまたぎと言われて猫も食べないなんて言われていたんだ。トロは捨ててたらしいよ」というのは寿司屋でおじさんがかなりの高確率で披露する薀蓄である。もっとも明治を舞台にした志賀直哉の『小僧の神様』には「鮪の脂身が食べられる頃だね」というくだりがある。マグロのトロを食べたいのだけれど「でも最近は高くなってしまって……」と登場人物が残念そうに言う。

落語の『目黒のサンマ』や『ネギマの殿様』の例を引くまでもなく、脂を美味しいと思うのは人間の本能だから、下品だといいながら喜んで食べてはいたのかもしれないと思う。

 

 

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2015年08月03日

孤高の食材、こんにゃくのイノベーション No4

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従来のこんにゃくもほとんどが水分なのだが、「凍結組織化法」では、さらにコンニャクマンナンの比率を減らし、1%未満とする。 従来の製法だと、コンニャクマンナンの濃度が1%未満では濃度があまりに低いため、アルカリを加えても固まらない。しかし、「凍結組織化法」では、アルカリを加えた液を凍らせるのである。すると、氷になり始めた部分からはコンニャクマンナンとアルカリが追いやられ、まだ氷になっていない水の部分に凝集する。この凝集した部分でゲル化が起き、結果としてスポンジのような性質のこんにゃく加工品が生じる。

「でんぷんなども加えて、食感をしっかりさせました。ナタデココのような加工品になりました」 滝口氏が示してくれた試作品を食べてみると、確かにナタデココのような食
感を覚えた。明らかにこんにゃくの食感とは異なる。 「凍結組織化法」はどのように誕生したのか。実は、食材の開発とは異なる目的で研究をしていたところ、この製法が生まれたのだという。 「こんにゃく粉が海外から不正輸入されることがありました。

ほかの白い粉と混ざると、こんにゃく粉がどのくらい含まれているか分かりません。こんにゃく粉の含有量を検査するため、こんにゃく粉だけを取り出せないかと考えていたのです。粉を薄く水に溶かしてアルカリを加えて冷凍してみたら、こんにゃくの部分だけ固まりました」

こんにゃくとはまったく別のイメージを目指す
滝口氏は、群馬県立産業技術センター定年退職後もフリーランスの立場で、こんにゃくの原料を生かした食品の研究開発を続けている。 「コンニャクマンナンの繊維は水溶性と不溶性の両方の機能をもっています。こんにゃくは不溶性の機能によって作られますが、固まらせる前の水溶性をうまく活用することができれば、面白い食品になると考えています」 現在は、群馬県内にある食品メーカーとともに共同開発を行っている。

まだ、研究開発段階であるため、詳細はまだ明らかにできないというが、凍結組織化法とはまた異なる製法の開発にも着手していると話す。 「基本的には、こんにゃくの粉と凝固剤と水から構成される食品になりますが、いわゆるこんにゃくとはまったく別のイメージのものを目指しています」 もう1つ、滝口氏は、サプリメントのような食品にすることは考えていないことも付け加える。「昭和時代に、こんにゃく粉のまま水に溶かして飲むことがはやったことがあります。

しかし、いくら健康のためとはいえ、そのような飲み方では長続きしないと思います。身近な食べ物として食べていただくことが、長続きする道だと考えています」 今後、こんにゃくと同等の保存性をもたせるなどの課題を解決していけば、商品化が現実的になるという。

まだまだ未発掘の機能があるこんにゃくの原料
前篇で紹介したとおり、日本のこんにゃくは中国から伝来したものと考えられている。その中国では現代、日本で見るような板こんにゃくや糸こんにゃくがさほど食べられていない。こんにゃくという食べものを見たことのない中国人もいるという。
ところが滝口氏によると、こんにゃく芋の生産量は中国が日本を上回っているという。中国の人口が多いことや、日本市場に輸出されていることもあるだろうが、実は、中国国内にはこんにゃくにするのとは別の用途があるのだ。

「中国では、こんにゃく粉がソーセージやハムなどの結着剤として使われています。ヨーロッパなどへ輸出されているとも聞きます。自由な発想で食材を開発する点は学んでよいのではないかと考えています」 製法の革新といったイノベーションを経て、日本のこんにゃくは日本人に定着化していった。将来、そのこんにゃくが日本人にまったく食べられなくなるとことはまずないだろう。 一方で、定着化がこんにゃくの固定的なイメージが生まれた結果、こんにゃく芋やこんにゃく粉の利用法は限定的なものであり続けることになった。

「こんにゃくの原料には、まだまだ未発掘の機能があると考えています」 固定化したイメージの打破がなされたときこそ、現代の“こんにゃくイノベーション”が果たさ

 

 

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2015年08月02日

孤高の食材、こんにゃくのイノベーション No3

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http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/42254

おでんなどに欠かせない食材「こんにゃく」の歴史と科学を、前後篇で追っている。前篇では、「こんにゃく史上最大の革新」とも言える、江戸時代のイノベーションを紹介した。生芋から作っていたこんにゃくを、粉から作るようにすることで、原料運搬などの効率が格段に高まり、また、冬場も含めて通年の流通が可能となった。こうして、こんにゃくは広く人びとに浸透していったのである。 日本人にとって定番の食材の1つとなったこんにゃく。いまや「こんにゃく」と聞いて、そのイメージを思い浮かべられない人はいないだろう。

しかし、固定化されたイメージが、逆にこんにゃくのもつ潜在的な可能性から目をそむける結果になっていないだろうか。 後篇では、こんにゃくのイメージを打破して、新たなこんにゃく製品を開発しようとしている人物に登場してもらう。未来食品研究所(群馬県)の滝口強氏は、こんにゃくの主成分の潜在力に着目し、新たな形態のこんにゃく加工品の開発を目指している。こんにゃくのイノベーションは再び起きるだろうか。

伝統食材ゆえの固定観念を打破したい
こんにゃくは、かねてから「腹の砂下し」などの効果が言われ、健康に良い食材とされてきた。現代も、食物繊維が豊富で、かつカロリーがほぼゼロといったことから、ダイエットや健康な食生活のお供として定評がある。ところが、こんにゃくの消費量は年々低下傾向にあるのだ。昭和40年代の水準からすると、1世帯あたりの消費量は半分を切った。2007年から2012年の5年間でも5%減となっている。原料となるこんにゃく芋の生産量も減っている。

昭和40年代、全国での年間生産量は10万トンを超えていたが、近年では5万トン台まで落ち込む年もある。健康志向が高まる昨今でありながらも、こんにゃくがあまり食べられていない。この現状をどう考えればよいのか。 「こんにゃくを使う一般的な料理は、おでんや煮物などがあるくらいで、限られています。日本人は伝統的にこんにゃくを食べてきたから、こんにゃくの粉はこんにゃくになるものという固定観念が強いのでしょう」

滝口強氏。未来食品研究所主宰。群馬県に入庁後、群馬県立産業技術センターに勤務。こんにゃくを始めとする群馬県の特産品を普及させるための農作物や食品技術に関する研究を進めてきた。2011年、上席研究員を最後に群馬県を定年退職後、未来食品研究所を発足させ、技術士(農業部門、 生物工学部門)として活動中。日本技術士会会員。

滝口氏はこう話す。氏は、現在こんにゃく生産量9割を占める群馬県の県立産業技術センターで上席研究員などを務めてきた。2011年に定年退職した後も、「こんにゃく業界への恩返しの思い」から、独立してこんにゃくの加工品などの研究開発に取り組んでいる。 伝統的な食材には、作り方や食べ方の固定観念も強くなる。こんにゃくはそうした食材の1つだというわけだ。 「こんにゃくの食感などを変えるなどすれば、もっとさまざまな料理に使えると、私は考えています」

こんにゃくと異なる食感をこんにゃく成分から実現
こんにゃくをこんにゃくたらしめている主成分に「コンニャクマンナン(グルコマンナン)」がある。グルコース(ぶどう糖)とマンノースとよばれる物質で構成される。白い粉状になったコンニャクマンナンを水と混合すると膨張し、粘稠性のある液になる。これにアルカリを加えると、こんにゃく芋の“えぐみ”が消える。それとともに、グルコースとマンノースが多数つながった鎖状分子が網状構造を形成し、液がゲル状に固くなる。なお、過去はアルカリに草木灰の灰汁(あく)が使われていたが、近年では消石灰や炭酸ソーダなどが使われている。

群馬県立産業技術センター勤務時代、滝口氏は「こんにゃくの機能はそこそこ認知されているにもかかわらず、食べられていない。このままでは現在の製品に未来はない。コンニャクマンナンを素材にした新しい食品の開発が必須」と認識した。こうした危機意識のなかで開発したのが、コンニャクマンナンの固化の仕方を工夫した「凍結組織化法」という製法だ。 従来のこんにゃくの製法では、水に対してコンニャクマンナンを約3%混ぜてこんにゃくを作る。

 

 

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2015年08月01日

孤高の食材、こんにゃくのイノベーション  No2

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そうした中で現れたのが、常陸久慈郡諸沢(いまの茨城県常陸大宮市)に住んでいた藤右衛門(とうえもん、1745〜1825)という農民である。ある日のこと、藤右衛門は、鍬で切られて剥き出しとなったこんにゃく芋の表面が白く乾燥しているに気づく。その気づきをもとに、こんにゃく芋を輪切りにして、串に刺して乾燥させて、砕いて粉にすることを思いついたのである。これがこんにゃくの歴史に革新をもたらす。山村から街まで売りに、重いこんにゃく芋を運ぶのは過酷な作業だったにちがいない。

こんにゃくの歴史などに詳しいライターの竹内孝夫は、藤右衛門の子孫が住む家を尋ね、7代下にあたる家族から「藤右衛門はこんな山奥からこんにゃく玉を売り歩くのは容易じゃないというんで、粉にすることを思いついたんですよ」という話を聞き出している(講談社『本』2003年3月号より)。 乾燥したこんにゃく粉であれば、こんにゃく芋の生玉にくらべて約10倍濃縮した状態で運べる。極めて効率よく、こんにゃくの原料を売ることができたのである。

藤右衛門や村の農民の生活はこれで潤った。この功績により、藤右衛門は「中島」の姓を授けられた。茨城県久慈郡大子町には、中島藤右衛門を祀った「蒟蒻神社」も建てられた。中島藤右衛門が及ぼした影響は、自分や家族、村の農民にとどまらない。乾燥した粉の状態にしておけば、こんにゃく芋の弱点である寒さのなかでも貯蔵することができる。原料が粉になったことで、こんにゃくは短い期間に収穫地の近くのみでしか食せない食材から、1年を通して全国の広い範囲で食せる食材に変貌を遂げたのである。

こんにゃくで100通りの料理を楽しんだ江戸庶民
こんにゃくにこのような革新が起きたことで、こんにゃくは庶民の食べものとしてさらに普及していった。こんにゃくのもてはやされぶりは江戸時代の書物にも伺える。1846(弘化3)年、嗜蒻陳人(しにゃくちんじん)という雅号の人物が、『蒟蒻百珍(こんにゃくひゃくちん)』という料理書を出した。 江戸時代、1つの食材で100種類ほどの料理を紹介する書物「百珍物」が流行した。以前「豆腐」を取り上げた回では『豆腐百珍』を紹介したが、その刊行から64年後に世に出たのが『蒟蒻百珍』である。

これほどの年月を隔てて「百珍物」が出たのは、百珍物の根強い人気とともに、こんにゃく自体が人気者になっていたためだろう。『蒟蒻百珍』を見ると、いまも食べられている料理として「田楽」がある。「大きさこのみにより串にさし 味噌
に焼目つくを度とす」などと記されている。 変わったところでは、お菓子のような「砂糖豆」という名前の料理もある。「こんにゃくをゆでて包丁のむねに叩きよきほどに丸めつなぎは葛の粉をもちひさつと湯に透し黒胡麻味噌にてあへる」。

また、『蒟蒻百珍』で少なからず紹介されている料理が、こんにゃくを揚げる調理法である。例えば、「あられ」というこんにゃく料理では、「小角に切り、いかき(ざる)に入れ強く振り廻すれば、角丸くなるをさっと揚げ」とある。炒って揚げることで丸みを帯びたこんにゃくを、薄醤油、生姜の絞り汁、わさびなどとともに食べるものだという。いま再現してみれば、美味しく味わえるのではないかと思えるこんにゃく料理が多くある。

「百珍」と銘打つからには、当時の庶民も知らないこんにゃく料理も多かっただろう。しかし、そうであっても「こんにゃくでこんな料理もできる」と紹介されたのは、こんにゃくがそれほど庶民の食材として定着していたことを物語っている。

定番になるほどイメージも固定化される
こうして、粉にして作るという製法面での革新や、「百珍物」という料理本の刊行により、こんにゃくは日本人にとって欠かせない食材の1つとなった。灰色のぷるるんとした食感の食材は、こうして定着していったのである。いまや、こんにゃくといえば誰もがその姿を思うかべられる。四角い姿の板こんにゃくや、細くして鍋などに使う糸こんにゃくや白滝などだ。 しかし、定番としての印象が強くなればなるほど、定番の姿から抜けだして新たな製品を考えることは難しくなる。「こんにゃくといえば、この形、この料理」という固定化されたイメージは、今の今まで長らく続いてきた。

 

 

posted by タマラオ at 07:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記