2015年07月10日

実は凄かった!木の食品包装「経木」の天然パワー No1

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http://diamond.jp/articles/-/71380

昔は良かった、と言う人があまり好きではない。とくに食べ物(と教育)に関しては、こうした意見を述べる人が多いので困ってしまう。少なくても食に関しては「昔は良かった」とばかりも言い切れない。戦後から1970年代くらいまでの日本の食は非常に低い水準にあったし、添加物や化学調味料、模造品などの問題もあった。昔は良かった、という人はそのような都合の悪いことをみんな忘れてしまっているだけである。

大人は「今のほうがいい」と言ったほうがいいし、言える社会にする責任がある。そうじゃなければ、希望なんて誰も持てないように感じる。と、言っておきながらそんな僕でも「昔のほうが良かったのではないか?」と思うことがある。それは食品の包装だ。今、スーパーに行けば肉や鮮魚はプラスチックのトレイで売られているけれど、『プラゴミ』の日になるとそのトレイが山のように出て、げんなりする。昔、食品を包むのに使われていたのは経木である。

経木とは木を紙のように薄くした和風のキッチンペーパーのようなものである。すべて燃えるゴミで捨てることができ(もちろん回収したプラスチックゴミも多くが燃料として使われはするが)、土に還る包装材だ。 「昔は外で買い
物をすれば肉や魚もこれに包んでくれたものよ」と年配の方は言うが、見る機会は減り、いつのまにか台所からも姿を消した。

殺菌成分で味と鮮度を保つ 和食に欠かせない「経木」のパワー
まったくの手作業。日本人のDNAに訴えかけてくる白木の美しさ たまの外食でカウンターの居酒屋や日本料理店に行く。冷蔵庫からラップに包まれた刺身用の柵をとりだされると「うーん」と思う。冷やしすぎている刺身が美味しくないのはもちろんだけど、ラップはいかにも味気がない。昔の仕事では魚や肉を冷蔵保存する時は経木で挟むものだった。やっている人も減ったようだが、それに習って試してみると案外と具合がいい。ちゃんとした理由もある。

鮮度の良すぎる魚や肉は味が乗ってこないので、冷蔵庫などで寝かせる必要があるけれど、鮮度が落ちてしまっては元も子もないのだ。鮮度が落ちる原因は表面の水気による細菌の繁殖である。経木は表面の水気を吸い(キッチンペーパーと違うのは吸いすぎないので刺身がパサつくことがない)、また松の木の殺菌成分により味と鮮度を保つことができる(安い切り身などは経木で挟んで数時間おけば臭みも消える)。経木を使うのはたんなる懐古ではない。

科学的な裏付けがあるのだ。日本料理ではアナゴなど身の柔らかい魚を大鍋で煮るとき、柔らかくて軽い経木は落し蓋にも使われる。他にも様々な使い方があるわけで、それを忘れてしまうのは勿体無い。群馬県桐生にほど近い、みどり市にある阿部経木店は現在では少なくなってきている経木の製造所のひとつである。訪れると工場の表には丸太が並べられ、端材が積み上げられていた。親子で技術を守る阿部経木店。木の香りが漂う気持ちのいい場所でした。木を扱う工場はきれいでいいですね

「使っている木は長野の上田近郊のものです。うちのところに持ってきてもらうのは若いのもあるんですけど、だいたい樹齢40年から50年といったところ。もっと樹齢を重ねたものもあるんですけどヤニが出てくるので、使いやすいのはそれくらいですね。経木の良し悪しは材料で決まるところが大きいです」二代目の代表の阿部ハツオさんに説明をいただく。 「なるべく節を抜いて、四角く
切っていきます。木は生の状態で持ってきてもらうんです。乾いた状態でもってくると削れないので。今の販路としてはやはり鮮魚関係。あとは揚げ物をくるんだり、豚まんじゅう。ほとんど紙になってしまいましたが、お使いいただいています。あとは納豆に使っていただいていますね」

経木が最も脚光を浴びていた時代は明治期である。経木は明治37年には農商務大臣によって重要生産品に指定されている。経木でつくったマッチ箱や経木真田(帽子の材料)や経木織物は輸出産品であり、生糸や絹などに並ぶ重要な存在だった。紙のように薄く木を削ることができるのは日本だけだったのだ。その時代、経木をつくる技術は発展し、食品を包んだり、料理に使われる薄経木(以下、経木)も全国に広まっていった。ちなみに厚経木というのは折箱(本連載第13回参照)の材料だ。

昭和30年代をピークに「時代遅れ」に忘れてはいけない有機性と機能性
かつて群馬県は経木の生産量では全国一だった。消費の多かった東京にほど近く、上州のからっ風という乾いた気候が製造に適していたこと、また残材が生糸の生産(例えば前橋は一代生産地だった)の燃料として使われていたことがその理由だそう。また、昭和33年に発売され全国に普及した製造機を発明したのは群馬県の阿部儀秋氏である。 「その人はうちの遠い親戚なんです
が、そんな関係もあって群馬の経木は有名だったようです」

昭和35年から36年のピーク時には生産量は東京の需要の7割を供給していた。しかし、その盛りにも影がさしはじめる。スーパーマーケットの登場である。経木組合も宣伝ビラなどをつくるなどして利点をアピールして対抗したようだが時代の変化には抗えなかった。ちなみにこの宣伝ビラで比較されていたのは納豆の食味だった。納豆の容器には経木を用いたほうが美味しいのは本連載でとりあげた下仁田納豆(本連載第26回参照)を食べればすぐにわかる。

 

 

posted by タマラオ at 05:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記