2015年07月07日

日本人のみそ汁離れに打ち勝った、味噌屋の復活劇 No2

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米は山形の『おきたま興農舎』、塩は伊豆大島産の海の精(現在は石垣の塩)という具合に。やがて仕込んだ味噌を売る段階に来た。 「忘れもしないんですけど、ライター仕事でホテルに缶詰
になっていたところに電話がかかってきたんです。(味噌を売るのに)商品名をつけてくれ、という話です。そのとき、なにも考えなかったんですけど『純情紀行』という名前がぽろっと出たんです。今になって考えると純情というのは純な情熱という意味。

そして、ライター仕事で様々な生産者を訪ね歩いた軌跡を紀行という言葉で表現したかったのかな」こうして必然的な出会いをいくつか経て、はるこま屋の製品「春駒純情紀行」は生まれた。ちなみに缶詰して書いていた原稿は版元の出版社が倒産してしまい、世に出ることはなかったという。運命というのは不思議なもので、こうして五月女さんの人生は味噌造りに行き着く。

3.11の震災で売上は3分の1に 真面目な生産者ほど大きなダメージ
通常の商品であれば、まず価格があり、それにみあった材料があり、製品がある。ところがはるこま屋の味噌はなによりも五月女さんの「あってほしい理想」が形になったものだ。最高の原料を使った無添加の味噌作りは先に述べた鑑評会などで高い評価を受け、自らが「ライフワークにして自信作」という『あるちざん』という味噌などを世に出し、自然食品系の小売りなどで高い人気を集めていた。ところが、である。はるこま屋は東日本大震災とその後の原発事故により大きな影響を受けることになる。

「風評被害の怖さは実態がないということです。自然食品、無添加系の消費者は非常に敏感で、原発事故後、茨城、栃木、福島一帯には強い拒否反応があるようです。小さいお子さんがいて心配するのも仕方がないと思うのですが、放射能検査でND(検出せず)と出ても、そんなこととは関係なく受け入れてもらえない。この栃木県内でも大きなダメージを受けたのはオーガニック、有機農業の生産者や無添加、自然食の『真面目に食に取り組んできた』生産者でした」

自信を持っていた製品の売上は3分の1に落ち込む。電話口などで強い反応をぶつけられることもあり、絶望的な気分にもなったという。 「消費行為として食べ物は扱われ、人と人との密度は薄
くなった。顔の見える関係、などと都合のいい言葉はありますが、生産者から見ると消費者の顔は見えてなかった」


馬頭広重美術館。設計は隈研吾。ルーバーを多用することで環境に溶け込んだ建築
2011年の11月、五月女さんは馬頭広重美術館のなかのカフェ、レストランの運営を引き受ける。はるこま屋が開いたJOZO CAFEだ。それまで飲食店の経営経験があったわけではなく、さらに
冬になると来客数が減少し、様々なテナントが入っては撤退する難しい場所だっただけに、大きなチャレンジだった。 「直売の比率を高めなければいけないというのもありました
が、味噌を売りたいというよりも食品を通して「生きている根源みたいなところを伝えたい」という想いがありました。とにかくここではおいしいものだけを出したかった」

 

 

posted by タマラオ at 06:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記