2015年07月06日

日本人のみそ汁離れに打ち勝った、味噌屋の復活劇 No1

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http://diamond.jp/articles/-/72571

英語にcomfort foodという言葉がある。なごみ料理というか、安らぎメニューというか、ほっとする食べ物のことを指す。日本人にとっては一汁一菜の食事だろうか。ユネスコに登録された和食の定義は一汁三菜だが、一汁一菜こそ日本料理の基本だと思う。一汁一菜は『汁飯香』と呼ばれ、味噌汁、ご飯、漬け物のこと。最低限にして十分な食事で、なかでも味噌汁は特別な存在だ。ところで日本人が味噌汁を食べなくなった、と報じられて久しい。

味噌の消費量は1970年をピークに減少に転じ、現在は半分ほど。ある記事によると消費量を味噌汁に換算すると一週間に平均3杯という計算になるらしい。にわかには信じがたいことだが、どうやら味噌汁が食卓にのぼる機会は減っているようだ。そういえば先日、管理栄養士の先生からお話を伺う機会があったのだけど、こんな話を聞いた。 「最近、また塩分の摂取量の基準がさ
らに見直されましたよね。そうなると味噌汁は献立に組み込みづらいんですね」

なるほど、減塩のムードも味噌の消費量に影響しているようだ。塩分摂取量に関しては様々な見解がありここでは意見を述べることは控えるが、味噌はどうやら肩身が狭い状況にあるようだ。

絶滅寸前だった実家の味噌を自らの手で再生させた元ライター
春駒屋の味噌。無添加なので酵母や乳酸菌が生きたままだ。なので保存は冷蔵庫で
栃木県の東部、那珂川町。里山の自然を感じられる場所にある味噌店『はるこま屋』を訪れた。店主の五月女清以智さんは味噌醸造元の4代目、手がける天然醸造味噌は全国味噌鑑評会での受賞など高い評価を受けている。紹介された雑誌記事には『日本一原価の高い味噌』という文言が並ぶ。

──味噌業界は危機にあるという認識でいいのでしょうか。
「そうですね。うちは違いますが、かつて味噌屋はお大尽がでないとできにくい業種だったんです。そもそも醸造業というのは資産を寝かせるわけで、豊かな人でないとできなかったですから。それが昭和30年代後半から高度経済成長にかけて、産業としては完全に取り残されたんですね。うちも味噌屋では経営が成り立たない、と別の商売をやりつつ、細々と味噌造りを続けていました。だから自分も全然継ぐ気はなかったんです。

もう大変だから辞めたほうがいい、と親父に話したこともあったくらい」五月女さんは味噌造りを手伝いながら、フリーランスのライターとして雑誌などに記事を書きつつ、東京で暮らしていた。「自分がライターとしてテーマにしていたものに環境とか食品安全の問題がありました。1980年代後半のことです。大量生産、大量消費の経済成長とは別の価値観を持った、有機農業、無添加食品といったものが広がっていった時代で、自分は良質な食品をつくっている生産者の方をずいぶん取材させてもらいました」

取材をしていくなか、五月女さんが出会った人に本庄にある埼玉・三之助豆腐/もぎ豆腐店店主の故茂木稔氏がいた。 「茂木さんのエピソードは一杯あるんだけど、俺も茂木さんもお
酒が好きだったから(笑)そういう話もあるけど、ある時……茂木さんから『君の実家は味噌屋なんだろう。だったら、これを読んでおけば大丈夫だから』と一冊の小冊子を渡されたんです」それは『食物と体質』(秋月辰一郎著)という本だった。五月女さんはそれを帰りの電車のなかで読んだ。人間の体質をつくるものは環境と食物であり、先人の知恵が込もった味噌汁こそ健、
不健の鍵だと書かれていた。 「そのとき、直感的に『味噌屋になろう』と思った。それでライター仕事を続けながらだったけど、ここに戻ってきたわけ」しかし、実家の味噌の売上はゼロに近い。春駒味噌は絶滅寸前の状態だった。これは継ぐのではなく、一からつくる気持ちでなければ。故郷に戻った五月女さんは91年に新しい法人をつくり、味噌造りをスタートさせる。

しばらくして、茂木さんから大量の大豆が届いた。 「この大豆で『お前が一番いいと思う味噌をつくってみろ』と言われたんですよ。その時の大豆は本当に素晴らしかった。明確に憶えているんですけど、手洗いしていてびっくりした」聞けば農家が一粒、一粒手で選別している大豆だという。大豆を洗いながら、作り手の思いは伝わるものだとわかった。この大豆でつくるなら最高の材料を選びたい。最高の材料はこれまで取材し、出会ってきた生産者から選んだ。

 

 

posted by タマラオ at 05:44 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記