2015年06月23日

日立の復活が見せる日本企業再生への道 No2

金融、原子力、鉄道、都市(エレベーターなど)、自動車、医療などの基礎技術分野と、出口である製品の側の計算機、通信、半導体、材料、計測などの分野の技術者を交流させる場を設けたのである。毎週1回、互いに今取り組んでいることを報告し合ったりして、様々な意見を交換し合うというものだ。単純なようだが、基礎技術の側からすると、自らの技術をどう生かせばいいかというヒントが得られるし、実際にその後、事業化を一緒にできる。

事業側にしても、既に動いている事業をさらに強くするため、あるいは新しい製品・サービス開発をするのに、思わぬ技術が生かせる事に気づいたりするようになったという。 実際、原子力の核分裂のシミュレーションをやっていた技術者と金融事業の技術者の交流が、シミュレーション技術を銀行システム開発に使うことにつながったり、クルマのハイブリッド技術がディーゼル列車のハイブリッド化に使えたりと、多様に広がっていったと言う。

ヒントは、米シリコンバレーにあった。IT(情報技術)、ソフト、機器など多様な分野の技術者が集まるシリコンバレーは、彼らの交流が新技術、新製品、新サービスを生み出してきた。「技術のつながりの拡大こそ、新しい付加価値を生み出す力」(福永氏)なのである。

経営改革の遅れに苦しんだ2000年代
ささやかなことのように見えるが、中央研究所の改革として、技術者の世界では当時、注目を集めた。日立の現場では2000年代後半には、こうした改革も芽吹いていたのである。だが、結局、日立の業績は2000年代末にかけて急落していった。浮かぶのは、現場の努力を業績という結果に結びつけるのはやはり経営であるという当たり前の構図である。川村改革につながる2000年代を俯瞰してみると、当時の経営陣も改革の旗印は掲げている。

1999年4月に社長に就任した庄山悦彦氏は、デジタル化時代を睨んで、情報・エレクトロニクス分野に経営資源を傾斜配分し、電力・産業システム分野も機器単独売りからソリューションへの転換を進め、日立本体の中の事業グループの実質的な独立会社化を進めた。業績悪化が目立ってきていた半導体事業も分離。DRAM事業をNECと合弁のエルピーダメモリに、システムLSI(大規模集積回路)事業を三菱電機と共にルネサステクノロジ(現在のルネサスエレクトロニクスの前身の1つ)にするなど懸命の努力はした。

だが、貫徹しきれなかった。例えば、半導体事業では、当時存在感を増し始めていた台湾のファウンドリーメーカーに対抗。ルネサステクノロジと他の電機メーカーを糾合し、各社の半導体工場を切り離し、新たにファウンドリー事業を行う会社を設立しようとしたが、そこには至らなかった。しかも、就任翌年のITバブル崩壊の後遺症で赤字の事業が拡大し、対応に追われ続けた。

続く古川一夫社長時代もハードディスク(HDD)事業を将来の柱にしようと、米IBMから4000億円もの巨費を投じて買収。一方で液晶パネル事業をパナソニック、キヤノンに売却しようとするなど、選択と集中を図ろうとした。しかし、これもまたほとんど上手くいかなかった。HDD事業はその後長く赤字が続いたし、液晶の売却はキヤノンが乗ってこず、いったん頓挫した。ここでも目論見が外れたが、それを上回るほどの改革には踏み込めなかったのである。

 

 

posted by タマラオ at 11:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記