2015年06月08日

トヨタも敵わない「スバル」の底力 No2

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軽自動車の原点とも言えるスバル360しかし、一方で国内での軽自動車開発・生産からの撤退と言う決断もあった。スバルと言えば、1958年に発売した「スバル360」が今日の軽自動車の先駆けとなった。当時、「てんとう虫」の愛称で呼ばれ大
ヒットして以来、スバルは軽自動車の分野でも独自の世界をつくってきた。そのスバルが2012年に軽自動車開発・生産から撤退し、ダイハツからOEM供給を受ける体制に切り替えたのである。

スバルのトップは、吉永泰之社長。2011年に社長に就任する前は、国内営業本部長を務めた経験を持つ、スバルで初の営業出身の社長だが、「軽自動車の開発生産を止め、コンパクトカーの開発生産も止めて、アメリカにリソースを集中させて成功することができた。北米で成功して利益が出れば、国内向けの開発ができるという戦略でした。国内での軽自動車生産からの撤退は重い決断だったが、グローバルで生き残るためだった」と、吉永社長は述懐する。

技術力には定評があるものの これまでは苦闘の連続だった
スバルは、戦前の航空機メーカーの中島飛行機を前身とし、技術力には定評があった。水平対向エンジン・四輪駆動をその技術力の特徴として「玄人好み」と言われたり、「スバリスト」と呼ばれるスバル車を乗り続けるファンも多かった。それでも、これまでの経緯を振り返ると苦闘の連続だった。1990年代末までは、日産自動車との資本提携関係にあり、日産グループとして社長も日産、あるいは興銀(当時のメインバンク)から送り込まれていた。

一方で、富士重工業という社名にもあるように、中島飛行機を源流とした自動車以外の航空機事業、産業機器事業、バスボディ事業(その後撤退)など、多角的な経営形態を継続していた。自動車事業も水平対向エンジン、四輪駆動の独自技術が売りだったが、軽自動車と小型車分野でシェアは停滞気味で、あくまでも日産グループの一員と言う位置づけだった。それでも米国生産進出にあたっては、いすゞとの合弁生産進出(SIA)という異色の組み合わせを選んだこともあった(その後いすゞが撤退)。

それが、日産が1999年に仏ルノーの傘下入り、ルノー日産連合として再生スタートしたことを機に状況が一変。当時はまだ世界の「ビッグ1」であった米GMとの資本提携に切り替えたのが、日産出身の田中毅社長(当時)だった。つまり、20世紀から21世紀への移行時における「自動車世界大再編」の渦の中で、GMグループとして生き残りを賭けたのである。GMグループとして、軽自動車分野でスズキとの提携、部品共通化を模索したのも、その流れだった。

しかし、その頼みのGMがリーマンショックで経営破綻し、米政権の救済を受ける事態に陥りGMとの提携を解消、トヨタとの資本提携へ動いた。結果的にこの十数年間で、スバルの経営はめまぐるしく変遷した。また余談だが、歴代の社長はスバルというブランドの浸透を目指し、スバルと富士重工業という社名のギャップを解消しようと、「スバル」への社名変更を常に検討していたという事実もある。しかし、航空宇宙部門も持つ経営体制から変え切れずに今日に至っている。

 

 

posted by タマラオ at 07:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記