2015年05月31日

「中国式ハニートラップ」の裏側   No1

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WEDGE Infinity

有本 香 (ジャーナリスト)企画会社経営。東京外国語大学卒業後、雑誌編集長を経て独立。近年とくに中国の民族問題の取材に注力している。『中国はチベットからパンダを盗んだ』(講談社)『なぜ、中国は「毒食」を作り続けるのか』(祥伝社)の他、近著に『中国の「日本買収」計画』(WAC BUNKO)がある。

http://wedge.ismedia.jp/articles/-/990

戦後初の民間人大使として在中国日本大使に起用された伊藤忠商事元相談役の丹羽宇一郎氏が、大使館スタッフに、女性のいるカラオケ店への入店禁止令を出したと報じられた。俗にいう「ハニートラップ」による情報漏えいを警戒しての措置と伝えられている。

「金のため」とドライに割り切る女子大生
7年前、中国南部の都市にある高級クラブで、Aさんというホステスに遭った。同省の大学へ通う現役女子大生の彼女は、東北部の出身。両親はともに公務員、特別に金持ちというわけでもないが、彼女の学費くらいは送金してやれる懐事情だそうだ。そんな彼女がホステスとして働いている。 「お金欲しいですから。ここにいるとお金持ちと知り合えますし」カラリと笑いながらこういった。 金持ちと知り合うといっても、客の男たちは大半が相当年上の妻帯者。

彼女のボーイフレンドや結婚相手にふさわしい相手ではもちろんない。「彼氏とか結婚とかはまったく別の話ですよ。ここで知り合う人からはお小遣いをもらったり、何か買ってもらったり。友人の中には特定の人の愛人になった子もいますよ。私? そうですね、条件次第ではそれも悪くない」

「貧しくて農村出身」は過去の話
繰り返すが、Aさんは極貧の出ではない。金目当てという点は共通しているが、中国の水商売の女性というと、おしなべて貧しい農村出身の女子というステレオタイプの構図はとうの昔に変わっている。生活のための金に困っている訳ではないが、贅沢に育てられた世代ゆえ、自身の欲を満たすためにつねに金が必要、そういう女子も少なくないのである。店の客からお小遣いをもらう場合、性的関係を迫られない? と聞くと、「へへ」と笑い、「関係しなくてもお金はもらえる」とAさんはいった。

今のところ彼女はお小遣い稼ぎのための「気まぐれ水商売」である。しかし、大学の寮に住むのが嫌で、親友と2人で新築アパートを借りて住み始めたといっていた。そのくらいの稼ぎはあるということだ。Aさんのようなケースは近年珍しくはない。ほかの町でも女子大生ホステスに遭ったことがある。ホステスとして働くうちに町の有力者の愛人となった女子大生が、恋人と結託してその有力者を殺したという事件もあった。

生活に困らず、エリートでもある女子大生が水商売で働くという現象自体は、今から20年以上も前の日本でも、女子大生ホステスや愛人バンクに登録する名門女子大生が現れ、話題になったのと似た現象といえるかもしれない。

 

 

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2015年05月30日

高額化する上海小姐(ホステス)のゆすりたかり    No3

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背後の組織の中には公安関係者や電信会社関係者もいて、その情報の収集力は半端ないという。そして、その情報を武器に金をゆすり取る。単なる美人局であれば、まだよいが、これが日本の政府や省庁・防衛関係者、技術系企業勤務者だったりすると、金の問題だけではなく情報漏洩問題にもつながるので、なかなか恐ろしい。

欲望、嫉妬、息苦しさ、不安の先に
ここで言いたいのは、経済や社会の情勢が悪化していくと、人の心は荒んでくる。それは中国に限ることはないのだが、経済が発展し一部が豊かになっても、格差が開き、インフレが進み、より競争が激化し、貧しい者がより生活苦を味わうようになると、より欲望が刺激され、より嫉妬に傷つき、より人を妬むようになってゆく。さらに言えば、今の中国は風紀粛清の名のもと、管理・統制はきつくなり、実に息苦しい。風俗の世界に生きる女性たちは、明日の暮らしにも不安を感じるようになっている。

だが、いまさら農村暮らしに戻れるわけもなく、どんな手を使っても、一度味わった豊かな都市生活を維持しようと必死である。 艶っぽい笑顔で誘いかける彼女らが、どれほどの執着と決意で都市生活にしがみついているかは、のほほんと暮らしてきた日本の男たちには想像がつかない。蜜月を装って近づき、相手の弱みや情報を密かに収集し、最終目的のために準備をしておき、最後には被害者のふりをしながら、相手から奪えるものを奪い尽くす。過酷な競争社会で明日をも知れぬ不安を抱える中国人の、ある意味、当然の生き方、と言ってもいいだろう。

さて、ちょうどこの原稿を書いているとき、自民党の二階俊博総務会長が率いる約3100人の訪中団のニュースが中国メディアを賑わしていた。この訪中団に対しては、習近平国家主席が破格の待遇で歓迎し、参加者も日本メディアも驚いている、と報じていた。日本メディアも中国メディアも、これをもって、永きに渡って険悪だった日中関係が好転に向かうと期待しているようでもある。 だが、これを心底素直に関係改善だと喜んでよいのか。

はした金で満足してくれる相手ではない
経済、政治、社会情勢に多くの矛盾と不安を抱える中国が、とりあえず脇の甘そうな相手に、笑顔で近づき蜜月を演じつつ情報や弱みを収集し、来るべき時期に反撃に出るであろう、などと穿った見方をしたいわけではない。だが、大国化しても国家として安定しているわけではない中国が、本当に執着し欲しているものは何かを頭の片隅に入れておけば、傍らで安心しきって裸で寝ていてはいけないことも分かるだろう。

上海小姐も、中国自身も、もはやはした金で満足してくれる相手ではない。よもや真の愛や友好など幻想である。深く長く付き合うつもりなら、なおさら、蜜月に浸っているときこそ、警戒心を持つことが必要かもしれない。

 

 

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2015年05月29日

高額化する上海小姐(ホステス)のゆすりたかり    No2

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今の小姐たちは、駐在員たちに貢がれる小金などが目的ではなく、最初から別れる際に騒ぎを起こして何十万元かの慰謝料をとることを狙いとしている、という。 なので疑似恋愛関係の蜜月時代、男たちがのんきに裸で寝ているスキに、書斎やカバンの中にある本社住所や自宅住所、パスポートナンバーやクレジットカード番号、企業内の名簿から取引先リストにいたるまで徹底的に調べている。しかも、周到に隠しカメラでベッドシーンを録画している場合もあるとか。

そんな画像をネットで流されれば、本人はおろか、駐在員が勤めている企業の信用にも傷がつきかねないし、家庭も崩壊しかねない、というわけだ。「彼女たちは、あくまで自分が被害者である演技に徹する。そういう演技をしていくうちに、嘘ではなく、本当に被害者の気分になってくるので、会社側や上司まで、小姐の味方になって、男を責めたてることもある」という。 よくあるパターンは、男の上司もホステスの愛人をもっていて、その愛人が騒ぎを起こす小姐に肩入れして上司に訴える。

「彼女の体はぼろぼろ。かわいそう。あの男は人間じゃないわ」。上司とその愛人はまだ蜜月時代なので愛人の言葉をうのみにする。「男として卑怯ではないか」と駐在員に圧力をかける。もちろん、ホステス同士は情報交換をし、ともに日本人男性から金を巻き上げることを目的に共同戦線をはっているのだ。

果ては自殺、闇金、日本人相手の詐欺…
かくして孤立無援の駐在員は、気の弱い場合は、自殺に追い込まれることもあれば、闇金に手を出す場合もある。あるいは、同じ日本人相手に詐欺を働いて金をつくろうとするケースも。私がかつて取材した小姐は、ちょっとずるいところも、悪いところもあったが、限度を知っていた。彼女らに金を巻き上げられる駐在員の話はよく聞いたが、それは「勉強代」としては、けっして法外というほどではなかった。だが、日本円で1000万円近い金のゆすりとなると、これは立派な犯罪である。

こんな風に、小姐たちがあくどくなった背景は、経済の悪化と関係ある、と塚本氏は言う。バブル華やかなりしころは、主に日本駐在員を相手にした風俗市場は大盛況であり、別に普通に貢がれるだけで、十分、都会で豊かな暮らしを維持できた。ところが、景気が悪くなり、外資系工場も撤退していき、客の駐在員たちも減った。なのに、田舎から都市生活に憧れて出てくる小姐は増える一方。しかも、上海の物価は上がる一方。上海という大都市での贅沢な暮らしを維持するための金はかさむ一方。

以前は、一人の「金づる」と別れたあと、すぐに、次の「金づる」が見つかったのだが、今や「獲物」の数は少ない。なので、一旦捕えた相手からは、獲れる限りの金を獲る策を考えるというわけだ。もう一つの背景はネットの発達だ。スマートフォンが普及し、動画、写真が簡単にとれ、情報収集も簡単になり、また簡単に拡散できる。悪いことがしやすくなった。 塚本氏によれば、小姐トラブル以外に、微信ナンパトラブルというのも増えているという。

微信というLINEに似たシステムのSNSでは、近くにいる微信同士の存在をつなぐ。北に100メートルのところに、日本人らしき男性がいる、と分かる。そこで、女性名でデートしませんか、とメッセージが送られてくる。街中の普通の女の子がナンパしてきた、と日本人男性は思うだろう。だが、実は背後に組織がある美人局詐欺だ。男性が妻帯者であれば、彼女は恋人のふりをしながら周到に情報を集める。

 

 

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2015年05月28日

高額化する上海小姐(ホステス)のゆすりたかり    No1

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http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20150526/281587/

ひさしぶりに上海に来ている。この6年、上海に来ることはなかったので、その変化に驚いている。まずは中国一高い上海タワーが浦東にそびえ立つようになった。私が最後に上海を訪れたとき、あのタワーはまだ影も形もなかった。 高さ632メートルの上海市政府のメンツをかけた超高層ビル。ドバイのブルジュ・ハリファ、東京スカイツリーにつぐ世界3番目の超高層建造物。龍が空に昇る姿を模したという、複雑な構造が特徴だ。9つの柱状の構造物が積み重なり、それを二重のガラスのファサードが覆う。

10年ほど前に聞いた話では、上海市で一番高いビル(上海環球金融中心)が日本の森ビルによるものであったことが、上海市政府としては悔しくて、なんとしても、その隣に、森ビルよりも高く、目立つビルを上海市として自力で建てたいという野望が早くからあったという。その時、すでに龍が空にかけ昇るイメージや、あるいは塔の先端でとぐろを巻く龍が玉(地球)を五本の爪でがっちり握るイメージのデザイン案があった。

上海タワーの設計は、2008年、コンペに勝ち抜いた米大手ゲンスラー社が提案したものだが、おそらくは、ゲンスラー社は、上海市の官僚たちがもともともっていた中華思想の体現とも言えるビルのイメージを知っていてこのデザインをコンペに出したのではないだろうか。 次に、しゃれたショッピングモールやレストラン街がいたるところにでき、飲食や日用品にやたら高い値段がついている。だが客は少ない。5年前は人気スポットであった新天地など観光名所が日曜日でもなんか閑散としていた。現地に住む知人に聞くと「同じようなものが増えすぎて、飽きた感じ。そもそも、地元上海人はあんな馬鹿高いところにはいかない。だが外国人観光客は減っているので、全体に活気は落ちている」。

日本人は減ったが、小姐とトラブルは増加
古北と呼ばれる古くから日本人が集中して住む一角も寂しくなっていた。ピークのころは10万人といわれた日本人駐在はいまや半分以下。その少ない駐在員も家族を日本においているので、日本人学校でサッカーチームが作れないとか、そういう悩みもあるそうだ。 だが、日本人駐在員相手の小姐(ホステス)はむしろ増えている。そして、日本人と小姐とのトラブルも増えている、という。

上海トラブル相談センター運営の塚本英樹氏に話を聞く機会があったのだが、彼によると、最近の上海は、日本人が減っているにも関わらず、日本人と小姐のトラブルが増加傾向にある、という。 例えば、こんな話である。日本人駐在員がナイトクラブで出会った小姐に惚れてしまい、いろいろ貢ぐ。疑似恋人関係になったころ、「妊娠しちゃった」と告白される。駐在員としては、ほれてはいるが、あくまで浮気なので、出産してもらっては困る。産んでくれるな、と頼み込む。

小姐は「私をもてあそんだのね。心と体が傷ついた」とお金を要求する。昔からよくあるトラブルである。これが上海万博前のころであれば、何万元かの慰謝料で済んだ。一人っ子政策のおかげ、というべきか、中国の中絶手術料は2000元程度。数万元もらえば、彼女たちも満足できた。地方の農村の貧しさからの脱却を願ってこの世界に入った彼女たちにとって5万元も得られれば農村に家が建つ。

偽りの慰謝料は高騰、企業も巻き込む
だが、今の上海では5万元などはした金だ。「最近の請求額は40万元、50万元です。しかも、彼女らは企業を巻き込むんです」 数万元なら駐在員や日本人経営者ならポケットマネーで解決できる。だが、その十倍となると話は別。そんなお金は払えない、と突っぱねると、「あなたのせいで、私の人生が台無しになった。あなたがこんな悪くなったのは、あなたの会社のせいね。会社に責任をとってもらう」といって、会社に乗り込み、騒ぐのだという。

会社が、業務妨害だと上海市の警察に訴えても、警察は相手にしてくれない。彼女が、スマートフォンなどで、駐在員との恋人関係の証拠となる写真でも見せれば、警察も「民事だから当事者同士で話し合って」となる。小姐は、日本に残っている家族に脅迫の電話をかけることもある。日本で働いている知人や留学中の友人に、事情を話して電話を頼む。電話をかける知人・友人は小姐が被害者だと思うので、同情して「おたくのご主人ひどい人ですよ、彼女にお金を払ってあげてください」と訴える。

 

 

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2015年05月27日

干物の変身     No6

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鯖の味噌煮、アクアパッツァも干物で おしゃれな干物屋直伝レシピ
磯崎家で大人気の、鯖の干物を使った「鯖甘辛丼」。さばく手間なしで美味しい丼の完成!さてここからは、磯崎家のみなさんに干物の楽しみ方を教えていただこう。まず、干物を美味しく焼くコツはどんなことだろうか?「焼き場離れず、じっくり焼く!頑張って作った美味しい干物を美味しく食べる部分は、お客さまの責任です」と威志さんが笑う。「美味しい干物の焼き加減は、だいたい8分前後ですが、随時、焼き色を見て食べてみながら、ちょうどいい塩梅に焼き上げてください。

自分、お父さんや子どもたち、家族みんなの好きな焼き加減を見つけて楽しんでいただきたいですね」もちろん、これが「ベーシックな干物」の食べ方。しかし、磯崎家の「干物クッキング」はそればかりではない。登久子さんは、干物は忙しい主婦の調理に大いに貢献する、と語る。「忙しいときに料理をするなら、干物を使うと、とっても便利なんですよ」と登久子さん。「開いてあるから下処理がいらないでしょう。下味も付いているし、生魚より簡単に使えますよね。わたしなんて忙しいときはまず干物で調理(笑)」

なにせ、家業を手伝いながら4人の子どもたちのご飯を作り続けた登久子さん。その発言にはおおいに説得力がある。磯崎家で人気のレシピは、鯖の干物を使った「鯖甘辛丼」。「あれはうまい」と威志さんも、俊成さんも絶賛する丼は、鯖の干物をカットして、片栗粉をつけて揚げ、しょうゆ、砂糖、酒、水を混ぜて作ったタレにからめて、白髪ねぎやしそとともにご飯に盛り付けたもの。「15分もあればできますけど、とても美味しいですよ」と登久子さん。

「そうそう、干物は煮物にも使えるのよ」
なんと磯崎家では「鯖の味噌煮」に使われるのは鯖の干物!意外な気もするが、水分を抜いてあるからうまみも凝縮していて、ふっくら仕上がるのだという。「味噌の加減を調整すればしょっぱくはなりませんよ」(登久子さん)。試してみたが、驚くほど美味しい。干してあるので煮る時間も少なくて済む。干物は洋風レシピにも大活躍。焼いたいわしの干物を玉ねぎやセロリ、パプリカなどの野菜と一緒にマリネした「いわしの干物マリネ」も登久子さんの自慢の一品。「こうすれば野菜もたっぷりとれていいでしょう」。ヘルシーな時短おさかなクッキング。まさに今の時代にフィットした魚食テクだ。


平成19年に農林水産大臣賞を受賞した「金目鯛の干物」を使ったアクアパッツァに「あじの干物のパスタジェノべーゼソース」 料理好きな俊成さんも「干物は使えますね」と、よく作ると
いうオリジナルレシピの料理写真を見せてくれた。「金目鯛の干物のアクアパッツァ」に、「あじの干物のパスタジェノべーゼソース」。なんと「干物イタリアン」!こんなメニューが出てきたら、女子のハートはわしづかみだ。なんだかどんどん干物ワールドが楽しくなってきた。

サスニンベンの一見「カフェ」風に見えるコーナーは飲食スペースではない。いまは地元客だけではく、ネットで商品を購入したお客さんもお店にやってくる。訪れた人々に、威志さんたちと魚や干物について話したりしながら、ゆっくり過ごしてもらうためのスペースだ。「昔はどこの町にも魚屋さんがあって、お店との会話がありました。いまは消費者のみなさんが魚について知識を付ける機会が減っているように思います。うちの商品を通して魚のことをもっと知っていただいて、魚をもっと美味しく楽しんでいただけるようになったら、と思っています」(威志さん)

美味しい干物、すてきなヒモノ、楽しいHIMONO。目利きの父と革新の息子。温故知新の体験に満ちた「サスニンベン」を訪ねて、干物は平成の食卓で新たな進化を遂げる可能性を感じるとともに、忘れていた何かを思い出させてくれる「日本人の宝物」のように思えてきた。今宵の食卓は、ぜひ幸せの干物時間を。

 

 

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2015年05月26日

干物の変身     No5

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俊成さんが描いた、和モダンな雰囲気の建築設計図をもとに新たな店舗造りがスタートした。家族総出で床を張り、ペンキを塗り、新生サスニンベンは、これまでの干物店のイメージを覆すおしゃれな店舗で、劇的なリニューアルを果たした。
店の什器類もこだわりぬいた。干物を入れるショーケースもすごい。「合羽橋に食品用のケースを探しに行ったんですけどね。息子が、どうしてもこれがいいと言い出しまして…」(威志さん)

なんと、それは高級宝飾店で使われるジュエリー用のケース。お店で何を入れるのかと尋ねられ「干物です」と答えたところ、店員が絶句したのはいうまでもない。かくして、数百万のジュエリーが並ぶはずのケースには、数百円の干物のサンプルが並ぶ。そして従来の干物店と違って、サスニンベンの店舗内にはどこにも干物が出ていない。「スタバやタリーズだって別に商品は並んでいませんよね」(俊成さん)。だからいよいよ、魚屋感が払色されているのだ。

おしゃれすぎてとうとう銀座デパートに! 「セレブな干物空間」はなぜできた?
登久子さんお手製の味噌を使った、ご飯のおかわり必至の「銀だら味噌漬け」のパッケージも、言われなければ魚が入っていると思えない!俊成さんの「干物レボリューション」は続く。発送用の干物を入れるのは、それまで白い発泡スチロールだった。「発泡スチロールは捨てるのにもかさばるし、素っ気ない」と、サスニンベンのロゴデザインが入った段ボールのギフトボックスに。シンプルだがとても「干物が入っている」と思えないカッコよさ。

商品のパッケージも型破りだ。たとえば人気商品の「銀だらの味噌漬け」や「紅鮭の味噌漬け」のパッケージは、ほとんど商品の姿は見えない。2匹をまとめて微妙な透け感のあるフィルムに入れ、帯をかけたラッピングは、まるで中にフィナンシェが入っているかのよう。サスニンベンでは鮮魚も扱っているが、しらすやエビも、おなじみの「白いトレイ」入りではない。透明フィルムに入れて上を結んだ姿は、これまた、マカロンかクッキーかのような佇まい!史上初「スイーツのような水産加工品」に目がハートになりそうだ。

WEBサイトも立ち上げた。プロ級の腕前の俊成さんが撮影した写真は、どれも美しい。スタイリングを施した料理写真はシズル感もバツグンだ。デザインも「魚屋感」は皆無。スタイリッシュなインテリアや雑貨のサイトにしか見えない。ネットショップも、干物は切り抜き画像を使って、どこかポップな仕上がりだ。干物、ポップ。この文字を並列して書いていることだけでも感慨深い……。

「おしゃれすぎる干物サイト」のPR効果は大きかった。わたしのようにネットサーフィンでサスニンベンに辿りついた銀座のデパートから期間限定で出店依頼があったのだ。銀座のデパート出店時のディスプレイ。スタイリッシュなディスプレイは鮮魚売り場の話題に!「銀座のお客さまの印象に残るディスプレイを」。店舗スペースは鮮魚売り場にもかかわらず、俊成さんは「外国のお客さまのことも考えて」従来のパッケージに、英文の商品説明が入った帯をかけ、ショーケースの中には、黒い玉石を敷き詰め、高低差のあるブラックの什器を備え、干物を配置した。

鮮魚売り場に突然登場した、常識を覆す「セレブな干物空間」に話題騒然。干物の購入ももちろんのこと、そのディスプレイを撮影しにくるお客が後を絶たず、デパートのバイヤー担当が「勉強のためにサスニンベンさんのコーナーを見に行くように!」と周囲に通達したというほどだ。「立ち寄っていだたいて、写真撮影だけでも大歓迎!」とfacebookで呼びかけたところ、続々と写真が投稿されて、またまた話題拡散

その展示風景はFacebookなどのSNSでも拡散。ネットショップには明らかに、これまでとは違う若い層や女性からの購入も増えてきた。この斬新なアイデアはいったいどこから……?と俊成さんに尋ねると「僕にとっては、これまで扱ってきた商材が、たんに魚になっただけなんですよ」との答え。威志さんが「わたしは完璧に魚屋の発想です。でも息子は『魚屋目線』じゃないんでしょうね」と語る。親子の絶妙なタッグが、サスニンベンを支えている。

 

 

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2015年05月25日

干物の変身     No4

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銀座マダムが殺到!宝石ケースに陳列された「セレブ干物」の衝撃
http://diamond.jp/articles/-/67629

「ザ・昭和」の佇まいを平成の世の今も崩さない、干物。日本人の魚離れを解決する糸口の一つは、干物をおしゃれにすることではないかと思い、おもむろに「干物おしゃれ」で検索してみた。すると、まさしく「おしゃれなひもの屋さん」のWEBサイトを発見した。店の名は「サスニンベン〜himono SASUNINBEN〜」だ。現在、茨城県ひたちなか市勝田に店を構え
るサスニンベンは、前回ご紹介したとおり、スタイリッシュなカフェ風の内装と洋楽が流れる雰囲気で、まさに“おしゃれな干物屋”。だが、このように生まれ変わったのはわずか数年前のことだった。その契機になったのが、30年前に始めた通信販売で順風満帆だった店を全壊させた2011年3月11日の東日本大震災だ。

東京で働いていた息子が気づいた「うちの干物って、旨いんだな」
「途方にくれました」とサスニンベンの代表を務める磯崎威志(たかし)さんは当時を振り返る。これまで営んできたひたちなか市那珂湊での再開を考えたが、それよりも「一刻も早くオープンしたかった」と威志さん。「通信販売を行っている以上、『店がなくなってしまったのでは』と思われる期間が長く続くのは絶対に避けたかった。早く営業を再開するために、那珂湊を離れ勝田で物件を探し、この場所でスタートすることにしたんです」

一刻も早くといっても、当時はもちろんのこと大工の数も当然足りない状態だ。「家族で一致団結」。磯崎ファミリーの結束は固かった。4人の子どもたちも加わって店の再開に取り組んだ。都内で家具メーカーに勤務していた息子の俊成さんも、会社を休んだり、週末ごとに勝田に戻って、新店舗の準備を手伝った。「兄弟のうちでいちばん、融通が利く状態だったのが僕だったのですが、手伝っているうちに戻ってもいいかな……と思って」

いつかは地元で「何かしたい」と考えてはいたが、家業に携わるつもりは全くなかった。干物についてもさしたる思い入れがあったわけではなく、子どものころから、日々、食卓に並ぶ当たり前の存在。「僕にとって干物は『白いごはん』のようなものでしたね(笑)」と俊成さん。けれど、実家を出て東京で暮らし始めてからはじめて、それが「当たり前」ではなかったことに気がついた。「居酒屋で、ホッケやシシャモの干物を食べて、あまりにも美味しくなかったことに衝撃を受けました。うちの干物って、旨いんだなと実感したんです」

味に自信はある。だからこそ、そんな実家の宝である干物を新たな魅力で発信するべく、サスニンベンのイメージ戦略を担うことになった俊成さん。「ほかと同じことをしていては目立たない。これまで干物とは縁が遠かった、僕ら世代である30代くらいの方々にPRできたらと思いました」コンセプトとしては女性が、友達の家に遊びに行くときに「ケーキ」のように手土産に持って行ける干物。そして結婚式のギフトや、内祝いになるような干物を目指した。

大学では建築を学び、卒業後はアパレル、インテリア業界で働き、ビジュアル的に優れたものを見てきた俊成さんは、学生時代、イタリアンの厨房で腕を振るっていたというほど料理も得意。そして「子どものころから美術は得意」という元来のセンスのよさが発揮されることになる。新たな場所での店舗再開にあたって、どんな雰囲気の店舗にするのかが課題となった。従来の店舗は歴史を感じさせる、昔ながらの佇まいだった。

干物のショーケースは高級ジュエリー用! 店内に干物を並べない理由とは?
サスニンベン代表・磯崎威志さん、俊成さん、登久子さん。みなさんのホスピタリティあふれるおもてなしも、サスニンベンの大きな魅力 「新店舗はちょっと変わったビジュアルのほうがい
いんじゃないか」と語ったのは俊成さんのお兄さん。
「兄弟で飲んでいるときに、そんな話になって(笑)。これまでの干物店のイメージとは全然違った、女性でもふらっと入れるような空間があってもいいんじゃないかと思ったんです」(俊成さん)

 

 

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2015年05月24日

干物の変身     No3

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子どもはホンモノの味がわかりますからね。うれしいです」と威志さん。サスニンベンのまるまるした干物を焼いてみた。ふっくら、ほどよくジューシーな脂のり。旨みが凝縮した身にやさしく塩味がなじみ、食べるたびに思わず「微笑んでしまう」美味しさだ。食べ進めるうち、なんだか「やさしい気持ち」になってくる。「ああ、幸せ」。ストレスまみれの忙しい日本人こそ、じっくり干物を焼いて、味わい、元気になれる「食卓で干物ヒーリング」が必要ではなかろうか。

「贈るなんて失礼千万」だった干物を30年前、ギフト化に成功!
5000円(店頭価格箱代250円別途)のギフトセット。干物に加えて、めかぶやしらすなど充実した詰め合わせ サスニンベンでは、30年以上前から店舗販売だけでなく、通信販売をスタート。そして当時ではまだ珍しかった「干物のギフト化」をいち早く進めていた。提案したのは、奥さまの登久子さん。子どものころから魚に囲まれてきた威志さんとはうって変わって、東京育ちの登久子さんは「魚と無縁」。それどころか「魚は嫌いだったの(笑)。しかも、ごはんよりパン派。干物とも無縁でした」。

魚を扱う家にお嫁に来て、食事はもちろん魚ばかり。「サメやらマンボウまで出てくるんですよ。魚なんてさばいたこともありません。なのに、舅にシンクいっぱい、どっさり魚を放り込まれて『さばいてみなさい』と言われたときは、涙が出そうでした」と思い出すだけでも泣きそうな顔をする登久子さんだが、次第に魚との距離を縮め、美味しさに開眼。「主婦としては、ただ焼けばいいだけの干物は家庭にあると、とても便利です。そんなときに美味しい干物があれば喜ばれるんじゃないかしらと思って」

しかし、それを聞いた威志さんは「とんでもない!」と驚いた。当時、干物といえば、地元では、買うものではなくて「もらうもの」。そんなものを贈るなんて「失礼千万」という概念だったのだ。「そのころ、うちでは新巻鮭のギフト販売もはじめていましたから、干物だって大丈夫!」という登久子さんの言葉におされてはじめた、ギフト用干物は人気を呼んだ。「美味しいとリピーターが増え、なじみになってくれるお客さんが増えました」と威志さん。

「もう何十年来のお客さまもいらっしゃいます。こんなに毎年干物を贈るんじゃあ、相手も飽きちゃうんじゃないかと思いますけど、『相手から指名されるので』と必ずオーダーしてくださるのは本当にありがたいですね。『5000円でおまかせで選んでください』というお客さんも多いです」店舗での販売だけでなく、日本各地へ「ギフト干物」を確立させていったサスニンベン。しかし、順風満帆のお店は突然、大打撃を受けることになる。

2011年3月11日。東日本大震災は那珂湊にも甚大な被害を与えた。店舗、自宅が全壊してしまったのだ。その後、どう苦難を乗り越えて現在のおしゃれ干物屋へと発展させていったのか。劇的すぎるビフォー&アフターは次回にて。乞うご期待!

 

 

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2015年05月23日

干物の変身     No2

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実は創業100年超の老舗 世界中の魚が珠玉の干物に
カフェ風のスペースは、訪れたお客さんにゆっくり過ごしてもらうための空間 サスニンベンはビジュアルだけの「ステキ干物店」ではない。確固たる歴史とバックボーンがある。創業1905年。商港として古くより栄えた那珂湊に店を構え、100年以上の歴史を持ち、那珂湊界隈でその名を知らない人はいないほどの老舗。その3代目が威志さんだ。「子どものころから魚まみれでした」と語る威志さん。昭和30年代、那珂湊の浜に揚がった大量の魚はあふれんばかりに牛車に積み込まれ加工場に届いた。

「遊び場は魚の山(笑)。イカを井戸水で洗って食べ、雑魚を拾って遊び、魚の身体のすみずみまで食べ尽くしていましたね」。子どものころから見て、触って、食べてを繰り返し、美味しい魚とそうでない魚は身体に自然と叩き込まれてきた。
サスニンベンでは代々、塩干物、鮮魚の扱いだけではなく、漁業経営にも関わってきた。威志さんも遠洋まぐろはえ縄漁業の経験を積んでいる。よって、いまいちばんおいしい漁場、旬を熟知しているのだ。

「サスニンベンでは、干物になる前の『原魚』に徹底的にこだわっています」(威志さん)。その魚種の最高の干物を作るためには魚そのものが最高でなければはじまらないという、強い信念がある。よって、獲れる漁場や時期を吟味し、最も優れた魚を選ぶ。地元である常磐沖の魚も当然使用するが、それだけにこだわらない。判断基準はあくまで「最高の干物を作るために最高の魚を選ぶ」。だから、サスニンベンの干物の原魚は日本各地ばかりか海外にまで及ぶ。

視点がワールドワイドなのは遠洋漁業の経験ゆえ。「本当に美味しい干物を食べてもらいたいんです」と威志さんは語る。イワシなら漁場は、地元常磐沖。5〜6月ごろ頭から全部食べられる手ごろなサイズに成長したものを丸干しに。サンマなら漁場は北海道色丹島南東沖、9月半ば〜10月半ば頃までに獲れたもの。アジはイギリス・フランス・オランダに囲まれたドーバー海峡、フランス側の瀬に付いた真アジ、金目鯛はミッドウェー・天皇海山海域。日付変更線の手前の海域。東経170度以東、北緯30度以北。いずれも厳しくセグメントして選定している。

サスニンベンのギフトボックスを使った、おしゃれなディスプレイ。店内は思わず写真に撮りたくなるスペースがてんこもり
サスニンベンの干物を見るとアジもさんまもホッケもシュッと「細長い」スタイルではなくふっくら「丸い」。「美味しい干物を選ぶなら丸いもの!」と威志さん。それは、まるまると太って脂ののった魚を使っている証拠だからだ。こだわりぬいた原魚は「秘伝の塩水」に漬け込む。なんと20年も熟成させたという塩水に真昆布を使った「藻塩」、長崎県の海水を使いにがりをほどよく含んだ「いそしお」、那珂湊沖の海洋深層水を凝縮した「海洋ミネラル」をブレンド。

海水に近い状態を再現した塩水にゆっくり漬け込むことで旨みを引き出す。そののち、独自の乾燥設備を使い、短時間で水分を蒸発させて、鮮度を保ったまま極上の干物として仕上げる。「日本各地、世界中から探した」珠玉の魚たちが、こだわりの技術で珠玉の干物となる。そんな干物は、魚が苦手なひとでも美味しいと言って食べてくれるそう。「『魚嫌いだった子どもたちが、サスニンベンの干物は、美味しい!と食べてくれるんですよ』と言ってくださるお客様もいます。

 

 

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2015年05月22日

干物の変身     No1

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http://diamond.jp/articles/-/66778

日本人の魚離れが問題視されるようになって久しい。食卓に魚が並ぶ機会が減り、魚食文化の衰退が懸念されるなか、子どもたちに魚の美味しさを伝える教育も大切だが、結局はそのお母さんたちが、魚に接していなければ、話は先に進まない。「さばくのが面倒」と、なにかと「肉負け」しがちな魚を手軽に取り入れるという意味で、水産加工品はおすすめだ。しかし「女子が手に取りたくなるような」商品や売り場を見かけることは滅多にない。

最近は日本各地の道の駅ですら、農産物を使ったおしゃれなパッケージの加工品が数多く並ぶにもかかわらず、なぜか「水産加工品」だけが「ザ・昭和」。すっかり時代が止まっているように見えるのはわたしだけだろうか?というわけで、かねてからわたしはずっと思ってきた。「もっとスタイリッシュでキュートなデザインの商品があれば魚食女子だって増えるに違いない!」。たとえば干物。しみじみ食べる干物はとても美味しい。しかし、これこそ最も進化ゼロ。

しぶい、ひなびている、彩り感皆無、ひねりなし、土産物屋のショーケースでなんだか姿自体もわかるようなわかんないような感じ。邪道だと思われるかもしれないが「きゃー、すてき」と女子が手に取るきっかけがあって、食べてみることで「干物LOVER」になってもらえたら、それでいいのではなかろうか。だからあったらいいのに。

「おしゃれ干物」。
日本国内のどこかにあるのだろうか?思い立って検索してみた。調べているうち、なんと!予期せぬことに、とんでもなくカッコいい干物WEBサイトにたどり着いた。店の名は「サスニンベン〜himono SASUNINBEN〜」。干物が英字
になっているのを見たのは初めてかもしれない。そのサイトは、おおよそ干物店にはありえない、美しい画像が並ぶ。なにせ干物といえば子どもも女子もそそられない「キング・オブ・茶色系」の“枯れキャラ”。

それにもかかわらず、いたって「カラフル」なのである。パッケージもおしゃれで、思わず手に取りたくなるばかりか、「プレゼント」にしたくなるような商品が並んでいる。これはもう実店舗に行くしかあるまい。

おしゃれな干物屋に入ると洋楽が流れてきた……
美しいガラスケースに干物のサンプルが並ぶ。茨城県ひたちなか市。「サスニンベン」は常磐線勝田駅から歩いて約5分の場所に位置する。「ひもの」ののれんが下がったお店に一歩足を踏み入れると、いきなり衝撃を受ける。木の温もりをいかしつつもモダンにまとめられた店内には干物のサンプルが収められた美しいガラスケース。スタイリッシュな家具でまとめられたカフェ風のスペース。天井から釣り下げられたモダンな間接照明。壁にはアイアンでできた「サスニンベン」のロゴ。店内に流れるBGMは「洋楽」である。

どこからどうみても、スタイリッシュな雑貨を扱う「セレクトショップ」か「カフェ」か「バー」か「高級スイーツ路面店」か「ギャラリー」かと見まがうほどの店内。干物の「ひ」の字も感じさせない空間だ。「ちょっと変わった干物屋です」と笑うのは代表の磯崎威志(たかし)さん。サスニンベンは威志さん、奥さまの登久子さん、そして次男の俊成さんのご家族で営んでいる。干物といえば、海の幸が楽しめる港町のお土産の定番だ。そもそもサスニンベンのある勝田駅周辺は海から離れた位置にある。「磯の香」感ゼロのロケーションである。

「みなさん、海沿いの町で“気分”で干物を買いますよねえ(笑)」。はい。そのとおりです。しかし、威志さんはキッパリこう続けた。「うちの店は、借景には一切、頼ってませんから」。

 

 

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2015年05月21日

練られ続けて900年! 今なお進化し続ける 「かまぼこ」 No2

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かまぼこの技術革新はこれだけではない。1950年ごろ発売された魚肉ソーセージは、かまぼこと同じ製法で、味付けや包装を変えたものである。戦後、漁船の大型化によりマグロの水揚げ量が増加したものの、ビキニ水爆実験などの風評被害の影響で売れなくなってしまった。頭を抱えた水産業者が、余剰マグロを利用して魚肉ソーセージを製造し、発売したところ、消費者の洋風好みに合い、爆発的人気となった。 

また、1972年に発売されたカニのような風味や食感をもつカニかまぼこもブームとなり、海外でも人気が高い。カニかまぼこは、インスタントラーメン、レトルトカレーとともに「戦後食品の3大発明」とよばれている。

焼きたての「日奈久ちくわ」に舌鼓
かまぼこはもともとは地元の魚を利用してつくられたもの。全国の漁業の盛んな場所で、かまぼこの名産品が作られている。有名なところでは、仙台の笹かまぼこや小田原の板かまぼこ、豊橋のちくわ、鹿児島のさつま揚げなどがある。
熊本県八代市内の南西にある日奈久(ひなぐ)温泉は、八代海に面して天草諸島を望む温泉地だ。開湯600年の歴史を誇り、共同浴場や温泉旅館が、街に点在している。この温泉地には名物「日奈久ちくわ」がある。

温泉が栄えた明治時代から人気を博し、地元ではお土産として多くの人に愛されてきた一品だ。 熊本市内に住む女性は「子供のころ、父が日奈久温泉に行くとかならず焼きたての日奈久ちくわを買ってきました。焼き立てだから急いで食べようと家族みんなで食卓を囲んだものです」と懐かしむ。 日奈久温泉では6軒のちくわ店が店頭でちくわを焼き、味を競っている。そのうちの1軒「片山蒲鉾店」を訪れた。1921(大正10)年に創業と100年近い歴史を誇る老舗だ。

「かつて、日奈久は流通の拠点で港や駅に近海の魚が集まってきたことや、近くの山にたくさんの竹があったことから、ちくわを作るようになったと言われています」と3代目店主の片山新一郎さんが説明してくれた。片山蒲鉾店のちくわの特徴は地元の八代海のハモやグチなどの魚を材料として使い、先代から伝わる手法で作っていることだ。ちくわの製造は魚をさばくことから始まり、魚肉を練る。練った魚肉を自動の機械で成形し、焼き上げてゆく。金属製の棒につけた魚肉がベルトコンベアーでゆっくりと進みながら徐々に焼き色が付き、ちくわの焼ける匂いが漂う。

食べてみると、香ばしい香りやふわふわとした食感で、焼き立てならではの風味だ。「近年は日奈久のちくわ店でも冷凍すり身を原料にするのが主流で、八代海の魚をさばくところからやっているのは、うちだけになってしまいました。ハモなどの生の魚を使うと、焼いたときの風味が違います」と片山さんが続ける。「東京や大阪の物産展でちくわを販売すると、なつかしいと熊本県出身の人がたくさん買ってくれます。この作り方を続けることで、地元の人においしいと言われる味を守っていきたいです」

「900年目」の節目に大々的PR
先に述べたように、かまぼこが初めて古文書に出てくるのは1115年で、今年でちょうど900年になる。そこで、「全国かまぼこ連合会」はかまぼこの需要拡大に向け、PRに力を入れている。さらに年号の1115を日付に置き換えて11月15日をかまぼこの日とし、当日にはイベントを行う予定だ。 魚肉のすり身を棒につけて焼いただけのものから、900年の間に様々な形や味のかまぼこへと変遷した。今では、かまぼこを指す“surimi”という言葉は、海外でも通じるようになり、ヘルシーフードとして海外の消費量が増えている。

一方、日本のかまぼこの消費量は減少気味で、高齢者ほど購入しており、若者が敬遠している傾向がある。 和食ブームに乗り、伝統食品としてのかまぼこを復活させる動きもあるが、「伝統の味を守りつつ、広い世代に受け入れてもらうためにはいままでのかまぼこの概念を捨てる“脱かまぼこ”も必要なのかもしれません」と片山さんは言う。革新的な製品も思案しているとのことだ。 日本人の知恵がたくさん詰まったかまぼこは、古くて新しい食品だ。かまぼこのしなやかで歯切れの良い食感、魚の旨味や香りのあふれる味わいを見直してみたい

 

 

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2015年05月20日

練られ続けて900年! 今なお進化し続ける 「かまぼこ」 No1

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http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/43176

おせち料理の紅白かまぼこやおでんのちくわなど、私たちにとって身近な食べもの「かまぼこ」。かまぼこが歴史上に登場して今年で900年という。長い歴史に培われたかまぼこは日本人のソウルフードだ。魚をおいしく食べるための古くて新しい知恵が詰まっている。 かまぼこのルーツはちくわ  かまぼこの歴史は古く、最も古い記録は平安時代の1115(永久3)年、『祝宴の膳の図』とされている。これは1146(久安2)年ごろ成立の『類聚雑要抄』の写しの中に見られる、1115年当時に関白だった藤原忠実が転居した際の祝膳の献立図で、そこには「蒲鉾」の字とちくわに似た料理が描かれている。

また、解説で最も古いものには、室町時代中期の1528(享禄元)年に記された『宗吾大草紙』がある。それによれば、当時のかまぼこは、竹の棒にすりつぶした魚肉を塗りつけて焼いたもので、現在のちくわに近い。その様子が、植物のガマの穂に似ていることから、「かまぼこ(蒲鉾)」と呼ばれるようになった。その当時の主な原料は淡水魚で、中でもナマズが最上だったようだ。 海に囲まれた日本では、豊富に魚が獲れるが、冷蔵庫などない昔では保存がきかない。

そこで保存方法の1つとしてかまぼこがさかんにつくられるようになった。江戸時代後期には、魚肉をすりつぶしたすり身を板の上に乗せて蒸した「板かまぼこ」が作られ始めた。一方、すり身を棒に巻きつけて焼いたものは「ちくわ(竹輪)」と呼ばれるようになった。棒を引き抜いた筒状の姿が竹に似ているためである。

その後、ゆでたり、揚げたりと加熱方法も増え、さらに「なると巻」のように簀巻きにしたり、細工をしたりと成形にも工夫がこらされ、さまざまな種類ができた。 かまぼこといえば、板かまぼこを思い浮かべるかもしれないが、魚肉に塩を加えてすりつぶし、練って成形した後、加熱してかためたものを指す(表)。また、大きくは水産練り製品ともいう。したがって、ちくわはもちろん、「さつまあげ」も「はんぺん」もみなかまぼこの1種なのだ。アジアや北欧にもかまぼこのような食品が見られるが、これほどバリエーションがあるのは日本だけである。

しこしこした弾力「足」が生まれるメカニズム
かまぼこのおいしさは、しこしこした弾力にある。この弾力を業界用語で「足」という。かまぼこの品質を決める重要な要素だ。  加工法によるかまぼこ(水産練り製品)の分類 (参考:紀文「 練りもの教室 講
座@」より)  
かまぼこには多くの種類があるが、どれも基本的には、(1)魚から肉を採り、(2)食塩を加えて練り、(3)成型し、(4)加熱する、という4工程からなる。

足を作るには、食塩と加熱が不可欠だ。食塩によって、魚肉の筋原線維をつくるタンパク質が溶け出てくる。練ったあとに少し置いておくと、溶け出たタンパク質が絡み合う。さらに、加熱すると分子間に結合ができ、網目状の構造になって固まるために足が生まれる。魚種によって、足の強さが異なる。「ぐち」や「えそ」などの白身の魚は足が弱く、「いわし」や「かつお」などの赤みの魚は足が弱い。その理由は、魚種によって足を作る筋原線維タンパク質の量が違うからと考えられている。

戦後に革新的技術が次々に登場
かまぼこは日本人が発明した独自の食品で、製法の基礎は江戸時代末期に確立したが、その後も技術革新が行われている。太平洋戦争前までは、現在のような大量生産は行われておらず、地元の魚を使って職人が小規模に作っているのみだった。 戦後、漁業技術や冷蔵技術の発達により、大量の魚が手に入るようになると、徐々に規模が大きくなり、スケトウダラの冷凍すり身の登場により工場規模の大量生産が行われるようになった。

それまで、スケトウダラはあまりかまぼこには使われていなかった。またすり身を冷凍すると足の形性能が失われてしまうので、原料が足りなくなっても遠方の魚を使うことはできなかった。 しかし、1960年にすり身に冷凍変性剤を加える技術が開発され、冷凍すり身をかまぼこの原料にすることが可能になった。それ以来、海外で大量にとれるスケトウダラの冷凍すり身がかまぼこの主原料になっている。

 

 

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2015年05月19日

ご飯離れでも、なぜかふりかけ市場は拡大の謎 No5

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いまも続く「おとなのふりかけ」の発売である。この商品の開発には、開発担当者の“気づき”があった。消費者データを見ていると、11歳までの子供にはふりかけは100%食べられているが、12歳から急に需要が減っている。ふりかけは子供の食べものという概念が消費者に広がっていたのだ。「おとなのふりかけ本かつお」。大袋の中に5袋が入っている。小分けにするのは主に海苔の新鮮さを保つため。他に5種類が4袋ずつ入った「おとなのふりかけミニ」なども

「そこで、大人にも満足してもらえる高品質のふりかけを開発しようということになりました。当時すでに少子高齢化も懸念されていて、ふりかけ市場が先細るという懸念もありました」「おとなのふりかけ」もそうだが、同社は海苔の品質に力を入れている。多くのふりかけメーカーは問屋が卸した海苔を使っているが、同社は1967(昭和42)年に乾海苔の入札権を取得し、全国の生産地から海苔を直接、買い付けている。焼色が深緑で風味があることなどが海苔の選定のポイントという。

旨味成分が顆粒にてんこもり
松山氏は「商品開発には、いろいろなアプローチの仕方があります」と話す。例えば、上記の「おとなのふりかけ」では、「大人向けのふりかけ」というコンセプトありきで、原料にこだわり、デザインも渋めのものにした。「一方こちらは、これまで実現できなかった本格的な味わいを実現するというコンセプトで考えた末に作られました」。そう言って松山氏が示したのが、2013年の新商品「超ふりかけ」だ。 商品名に「超」が付くからには、これまでの商品を“超えるなにか”があると思わずにはいられない。

そう思いながら「超ふりかけ うなぎ」のパッケージを開けると、すぐ高い香りが鼻へと届いた。ふつうのふりかけのパッケージを開けたときとは明らかに香り方が異なる。そして、このふりかけを口にすると、歯ざわりがコーンフレークを噛んだときのようにさくさくしている。「これまでのふりかけは、どうしても本物の食材の“もどき”にしかなれませんでした。でも、『超ふりかけ』ではもっと食材の本物感を出したい。いろいろ製法を検討して、たどり着いたのが、スチームオーブン製法でした」

松山氏が話す「スチームオーブン製法」は、いままでにないふりかけの製法だ。通常、ふりかけでは、顆粒などの素材を製造し、胡麻や海苔などと混合し、そして充填包装する。「超ふりかけ」でもこの基本的な製造工程は同じようだが、フレークを製造する方法に新製法、つまりスチームオーブン製法が使われている。「この製法では、水蒸気を加圧環境に置くことで100℃より高温の状態にします。その蒸気で瞬間的に原料を乾燥するのです」

水の最高温度はふつう100℃と考えられがちだが、水蒸気に強い圧力をかけるなどして加熱させると100℃をはるかに超える。その水蒸気は「過熱水蒸気」とよばれ、大きな熱エネルギーを持った気体になっている。スチームオーブン製法では、この過熱水蒸気で素材を乾燥させてフレークをつくる。この原理は調理家電などにも用いられているものだ。 過熱水蒸気で乾燥させると、どのような良いことがあるのだろうか。松山氏は「旨味の主な要素となる油脂分を多く使うことができるようになるのです」と話す。

 

 

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2015年05月18日

ご飯離れでも、なぜかふりかけ市場は拡大の謎 No4

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http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/43546

スチームオーブン製法で作られた永谷園の「超ふりかけ」
前篇では、ふりかけのルーツを探った。魚の塩干しを削った楚割(すわやり)や鰹の削り節、また、ごま塩などに源流を見出すことができる。商品としてのふりかけが誕生したのは大正時代だ。 後篇では、そのふりかけの“いま”を見ていきたい。日本人のコメの消費量が減っていくなかで、実は、ふりかけの市場規模はいまなお拡大中という。“主”のご飯が食べられなくなっているなか、 “従”であ
るふりかけは、なぜ勢いを保ち続けることができるのか。

今回、話を聞いたのは、ふりかけメーカーの1つである永谷園だ。同社は2014年には商品名に「超」の付くふりかけを発売している。いったい、なにがどのように「超」なのだろうか。ふりかけ市場活況の理由も探ってみたい。

「大人向け」という新機軸を打ち出す
日本人1人あたりのコメの消費量がピークだったのは1962(昭和37)年。以降、ほぼ一貫してコメの消費量は減少し、最近ではピークの半分未満にまで落ち込んでいる。2011年には、家庭でのコメ購入額がパンに抜かれてしまった。だが、ふりかけ市場は堅調だ。春と秋のスーパーマーケットなどでの棚替時期には、ふりかけメーカーがこぞって新商品を投入する。商品の幅も、子供向けから大人を意識したものまで幅広い。日本人全体のご飯離れが進むなかで、ふりかけ市場は元気なのだ。

「ふりかけ業界だけがご飯離れを止められるとは思いません。でも、食べていない人に食べてもらえるようなふりかけを出していけば、市場はこれからも拡大していくと思います」 こう話すのは、永谷園広報室の松山哲也氏だ。永谷園のふりかけの歴史は戦前にさかのぼれそうだ。食品メーカーになる前身として茶の販売業を手がけていた1939(昭和14)年頃にふりかけを販売し、近隣の人びとに好評を博したという。だが、当時の詳しい記録は残っていない。

永谷園広報室の松山哲也氏。2000年に永谷園に入社。取材対応のほか、会社の歴史に関する調査なども行う。食品メーカーとしての永谷園の設立は1953年だが、その起源は江戸時代の製茶業者で煎茶の普及に功績を残したとされる永谷宗円(1681〜1778)にまでさかのぼる。 1953年(昭和28)年に食品メーカーとして創業してから初となるふりかけは1958(昭和33)年発売の「磯のふきよせ」という商品だった。当時、ふりかけによく使われていた魚粉を使わず、見た目もきれいなふりかけに仕上げた。

社史に載っているふりかけでも50年以上の歴史にはなる。だが、前篇で見たように、日本でふりかけ商品が誕生したのは大正時代。つまり、同社は後発メーカーとも言える。業界シェア2位といういまの地位まで、どのように上ってきたのだろうか。 昭和30年代や40年代、各メーカーから子供向けのふりかけ商品が多く登場し、売れた。例えば、丸美屋食品の「のりたま」は、テレビアニメ「エイトマン」のシールをおまけに付けて大ヒットした。

永谷園も1965(昭和40)年に、プロ野球選手を商品キャラクターに使用し、ビタミンの豊富さを謳った子供向け「ビタフリ」といったふりかけ商品を発売している。1980(昭和55)年には「味ぶし」「鮭っ子」を発売。子供たちに絶大な人気を博したザ・ドリフターズをCMに起用し、ヒットした。1986(昭和61)年には、ファミコン人気を背景にキャラクター商品「スーパーマリオブラザーズふりかけ」も発売している。新機軸を打ち出したのが1989(平成元)年だ。

 

 

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2015年05月17日

ご飯離れでも、なぜかふりかけ市場は拡大の謎 No3

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乳房にふりかけを付けてわが子に吸わす
戦前、ふりかけ商品は、いまの感覚からすれば高級食材だった。商品の購入をせず、家庭で主婦など半端に残った魚肉などをもとに手づくりしていたのが主流だったともいう。1941年11月13日付の読売新聞には、「ゴマ藍に代る栄養五色粉 ご家庭で
作りませう」という見出しで、桜海老や煮干しなどを炒って、青海苔やみかんの皮などを加えるふりかけのレシピを紹介している。 ふりかけ商品には、こんな使われ方のものもあったようだ。1940年の新聞に「味乃國産」という「栄養調味料」の広告が出ている。

「御飯にかけてお惣ざいにもなる」「海陸ノ天産物七種ヨリ加工製品ナリ」といった宣伝文句から、ふりかけ商品と言えよう。広告の中で目を引くのは「幼児ならお母様の乳房につけてお與(あた)え下さい」というところだ。発育増進、骨の強化、血色良好などの効果があるのだという。 効果のほどはわからないが、栄養成分を粉末状にしてそれを食べて健康になるといった役目を当時のふりかけ商品は担っていたのだろう。

1940年、「味乃國産」の新聞広告
戦後になると、食の多様化が進んだ。ふりかけ商品の多様化も進んだ。『ふりかけ』(熊谷真菜・日本ふりかけ懇話会共著、学陽書房)によると、「是はうまい」の丸美屋食品工業では、1959(昭和34)年、当時も現役で社長をつとめていた阿部末吉が「是はうまい」に玉子を入れた「玉子ふりかけ」を発売した。だが、塩辛い味で子供たちには合わない。阿部たちは翌年すぐ、今度は海苔と玉子を混ぜた「のりたま」を開発し発売した。

その後、1963(昭和38)年には「エイトマンシール」をおまけとした「のりたま」を発売。これが爆発的に売れた。大人の高級食材から子供も楽しめる大衆食材へ、ふりかけは大きく変わっていったのだ。なお、丸美屋食品工業は同年「のりたま」の弟分として「牛肉すきやきふりかけ」も発売し、これも成功を収めた。

コメ需要が減る中でふりかけの市場規模は拡大
昭和30年代、日本人はご飯をたくさん食べていた。1962(昭和37)年、1人あたりのコメの年間消費量はピークの118.3キログラムとなった。いまの2倍以上、日本人はコメを消費していたことになる。 そのコメづくりを担う農村では「ふりかけっ子」が問題になっていたという。

朝日新聞の1965(昭和40)年10月5日付のコラム「今日の問題」では、父は出稼ぎ、母は日雇い労働で多忙を極める農家で、子供たちは「ふりかけの朝食」「夕食は朝の残り飯にまたふりかけと魚肉ソーセージ」という食生活の図式を紹介し、農村の疎外された子供を「ふりかけっ子」と称している。ふりかけさえあればご飯を食べられるという便利さは、裏返しに家での個食化を助長する食材として捉えられる側面もあったようだ。

皮肉なことに、その後はコメの需要は頭打ちになり、昭和40年代以降は1人あたりのコメの年間消費量が急減していった。「ふりかけっ子」問題は薄らいでいったが、ご飯の添えものとして供されてきたふりかけにとっては危機的な状況である。
ところが、いまもなおふりかけ自体の市場は拡大しているという。『地域食材大百科第9巻』(農文協編、農山漁村文化協会)によると、混ぜご飯のもとやお茶漬けも含めたふりかけの市場規模は、2006年で約360億円だったのが5年後の2011年には380億円を超えたという。

“ご主人様”であるご飯の消費の勢いが衰えているなかで、ふりかけという商品の勢いは衰えない。そこにはどのような秘密があるのだろうか。 ふりかけを製造する食品メーカーの事例を1つ取り上げて、ふりかけの人気がいまなお高まっている要因を探ることにしたい。

 

 

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2015年05月16日

ご飯離れでも、なぜかふりかけ市場は拡大の謎 No2

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ふりかけ商品のルーツ3説
近代になると、私たちが店頭で買っているような「ふりかけ商品」の起源が現れはじめる。では、その“元祖”はとなると、これまでいくつかの説が言われてきた。 1つは、福岡県出身の甲斐清一郎という人物によるというもの。甲斐は1916(大正5)年、福島県で実家の屋号である「丸美屋」を創業し、公設市場で土産物や食料品を販売していた。そして、1925(大正14)年ごろ、「是はうまい」というふりかけをつくった。スズキ目の石持(いしもち)を粉末にして、昆布の粉末とともに醤油で煮込んで乾燥させ、糊とごまを混ぜたものだ。

地元で好評となった。そこで甲斐は東京に進出し、1927(昭和2)年には東京・尾久に丸美屋食品研究所を設立。ここで、甲斐は新潟県出身で営業に長けた阿部末吉と出会う。阿部の営業力のおかげで、三越などの有名店で「是はうまい」を扱ってもらえるようになった。戦争で同研究所は消失したが、戦後、現在の社名でもある丸美屋食品工業として再出発し、「是はうまい」を販売し続け、戦後も好評を博した。 

高級食材を扱う三越などの百貨店では、上流階級の人びとが買いものに来ると「是はうまい」とはいわず「是はおいしい」をくださいと求めたという逸話も残っている。海産物の豊富な地は、ふりかけ製造の適地だった。元祖の説の2つ目は、瀬戸内海に面した広島にある。1901(明治34)年、呉市で田中食品工業の創業者である田中保太郎が味噌や漬けものなどの製造・販売を始めた。そして同社の話によると1916(大正5)年、「旅行の友」というふりかけ製品を発売した。

海参(いりこ)を粉末にして味付けし、ごまやあおさを加えたものだという。「旅行の友」は、いまも同社が販売しつづけているロングセラーとなっている。呉といえば当時は軍港の街。田中は、海軍から「栄養価の高い軽便食品」をつくってほしいと要請を受けていたという。ふりかけならば荷物として重くなく兵隊たちの負担にならない。そしてご飯の添えものとして飽きがこない。 広島発のふりかけとしてはほかに、小松原要助という人物が1928(昭和3)年に「露営の友」というふりかけをつくり、軍隊に納めていたという。露営とは野外に陣営を構えたり、宿泊用のテントを張ること。商品名にも当時の雰囲気が漂う。

「是はうまい」説や「旅行の友」説より増して“元祖”と認められている度合いの高いのが、熊本県発の「御飯の友」説だ。 熊本県の吉丸末吉という人物が、小魚を乾燥させ粉末にして調味し、さらに青のりや煎りごま、芥子の実などを混ぜたふりかけ「御飯の友」を考案した。これを地元の二葉組という一族会社が製造・販売した。いまもなおフタバの企業名で「御飯の友」を製造・販売をしている。 吉丸の本業は薬剤師だった。人びとのカルシウム不足を補いたい、魚嫌いの人でも魚が原料とは気づかないように、といった思いがあったという。

ふりかけを詰めた瓶はフラスコのような口のすぼんだ形をしていた。「御飯の友」の誕生は「大正時代初期」ということしか分かっていない。だが、国内ふりかけメーカーからなる全国ふりかけ協会は、1994(平成6)年の総会で、吉丸末吉の「御飯の友」こそが、ふりかけの元祖であるということを決定した。

 

 

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2015年05月15日

ご飯離れでも、なぜかふりかけ市場は拡大の謎 No1

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http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/43469

ご飯とふりかけ。海苔、ごま、鰹節、玉子など様々な要素が渾然一体となり食欲をそそる。 昼飯どき、手頃な価格の定食屋などで「ご飯付き」のセットを頼むと、「ふりかけ」が添えられてくることがある。ほかのおかずでご飯を食べることはできるけれど、「せっかくだから」と、ついふりかけに手が出る。途中までおかずで食べてから残ったご飯にふりかけをかける。白いご飯も美味しい。けれど、そこに、ふりかけをささっとかけるだけで、その白いご飯の美味しさに、うまみ、香ばしさ、歯ざわり感が加わり「ふりかけご飯」の風味に一変する。

ご飯を主食としてきた日本人は、さまざまな食べものをその“お供”にしてきた。ふりかけは “お供”にまさにふさわしい存在と言えよう。ふりかけそのものを食べること
はまずなく、常にご飯などの主食とともに食べるのだから。今回は日本人のご飯のお供「ふりかけ」を主題に、その歴史と現代技術を前後篇でたどっていく。前篇では、ふりかけのルーツを探る。日本人はご飯になにをふりかけてきたのか。そして、いま見られるようなふりかけ商品の源流はどこにあるのか、歴史を見ていきたい。後篇では、ご飯の消費量が減っていく中で気を吐くふりかけメーカーに取材し、新製品開発の秘密に迫ってみたい。

源流にある「楚割(すわやり)」「花鰹」「ごま塩」
「ふりかけ」という言葉が「ふりかける」から生まれたのは自明のことだろう。とすると、ご飯の上にふりかけるたいていのものは「ふりかけ」の範疇に入れることができる。ただし、単に「かける」だと、「お湯をかける」や「卵をかける」なども入ってきてしまうので「ふりかけ」とは分けておきたい。食品衛生法の「ふりかけ」の定義を抜粋すると、「農産物、水産物、畜産物などを主原料とし、原料形状のまま、または数種を配合して調味料等で調味し、切断、破砕、造粒等の加工を行った食品」となる。原料を、切断、破砕、造粒などで「加工」することが要点といえそうだ。

白いご飯を、変化を付けて味わうためになにかをふりかける。この発想は長らくご飯を食べてきた日本人には自然なものだったのではないか。その源流をたどると、「楚割(すわやり)」と呼ばれる食材の姿が見えてくる。楚割は、鯛、鮭、鮫などの魚の肉を細かくして塩干しにしたもの。現代でいう魚の珍味のイメージに近いだろうか。平城京跡の二条大路から出土した木簡には、「参河国(みかわのくに)」から「多比(鯛)」「佐米(鮫)」といった楚割が献上されていた記録が残っている。

人びとはこの楚割という保存食を削って食べていたという。日本最古の料理書とされる鎌倉時代成立の『厨事類記』には、「鮭を塩づけしてほして削りて供す」とある。削った楚割をご飯の上にふりかけたという文献までは見られないが、ご飯の供として食していてもなんら不思議ではない。 この『厨事類記』には「はなかつほ」の記述もある。「花鰹」のことで、現代では鰹節を薄く細かく削った「削り節」に近い。『厨事類記』では酒に入れて使われていたとされる。

また日本料理の流派の1つ、四条流庖丁道の大意をまとめた室町時代の料理書『四条流庖丁書』にも「花鰹」が見られる。和物に花鰹を加えていたという。 花鰹をご飯の上にふりかけて食べるという習慣は、すくなくとも戦国時代には「ねこまんま」のような形で存在していたようだ。北条家は好んでこの料理を食べていたとも言われる。なお「花鰹」は、いわゆる鰹の削り節だけでなく、鰯(いわし)や鯖(さば)の節を削ったものにもこの呼び名が使われていた。

もう1つ、ふりかけの源流を見いだせる昔の食材がある。「ごま塩」だ。黒ごまを炒り、それに焼き塩を混ぜたものだ。室町時代、日本料理の流派の1つだった大草流は、「赤飯にごま塩を添える」ことを祝儀の食事の1つとしていた。この組み合わせはいまも続くものだ。 また、このほかにも、魚介類などを醤油や味醂、砂糖で煮しめた「佃煮」や、白身の魚をゆでてほぐして、砂糖などで調味して水分のなくなるまで炒った「田麩(でんぶ)」などもふりかけの源流とされることがある。これらは、現代の、やや湿り気を帯びたソフト系ふりかけの源流と言ってよいかもしれない。

 

 

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2015年05月14日

税金は? 排水は? 「小屋暮らし」の理想と現実 No2

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http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150428-00000004-wordleaf-soci&p=1

周囲に迷惑掛けず、最後まで責任を
こうしたライフスタイルは、法律のプロである弁護士から見るとどうでしょう。不動産や相続から空き家問題などまで手掛ける、みずほ中央法律事務所の三平聡史弁護士は「トレーラーハウスなどの扱いに似ていますが、土台がなく、上下水道もパイプで固定していなければ確かに建築基準法上の建築物にはなりません。登記しなければ固定資産税なども問題にならないでしょう」と認めた上で、「最も心配なのは、悪臭や火災による延焼などで近隣に被害を及ぼす恐れ」だとします。

「台風で屋根が飛んで周りの住宅や人を傷つけるようなことも『想定外』ではなく考え、対策をしておくべきでしょう。また、長く留守をしたり、気が変わって小屋暮らしをやめたりすると、放置された小屋にホームレスが住み着くことや犯罪の拠点になることもあり得ます。長期的な生活で周囲に迷惑を掛けないように、最後は解体して元に戻すところまで責任を持って、小屋暮らしを楽しんでほしい」。三平弁護士はこうしたアドバイスを寄せました。

小屋暮らし的な生活は、さかのぼると鴨長明の『方丈記』からヘンリー・デビッド・ソローの『森の生活』、ヒッピー・ムーブメント、最近の「0円ハウス」や「ノマド」ライフなど、形を変えていつの時代にも一種のあこがれとして存在します。特に日本の若者は、会社組織の縛りや地域社会のしがらみから解放されたいといった願望や、東日本大震災以降はエネルギーの自立という切実な問題意識も抱えていることでしょう。

そこにホームセンターなどで安く多様な建材が買えたり、若者同士がネットを通じて欧米の「スモールハウス」などについて情報交換したりするなど、時代や技術が追いついてきました。上の世代からはまだ田舎暮らしの延長や「世捨て人」的なイメージで見られるでしょうが、これからの世代には人生のポジティブな選択肢の一つとして広まっていくかもしれません。 

「日曜大工などの経験がまったくない僕のような素人が、単に家賃節約のためだけに小屋暮らしを始めると、思ったよりお金や時間がかかってしまい、アパートのほうがよかったということになりかねません」という高村さんも、お金や法律の問題を最低限踏まえた上で、小屋暮らしの心構えについてこう助言します。

「自分の土地や城がほしい、自然に囲まれた暮らしがしたい、静かな環境がほしい、DIYで小屋を建ててみたい、高消費生活に疑問を感じる、生活を心機一転したい…。動機は人それぞれ違うでしょうが、コストパフォーマンスに加えて何か一つでも惹かれるものを感じれば、小屋暮らしはきっと面白くなるでしょう」

 

 

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2015年05月13日

税金は? 排水は? 「小屋暮らし」の理想と現実 No1

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http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150428-00000004-wordleaf-soci&p=1

若者が手作りの家でローコストの生活を営む「小屋暮らし」が注目を集めています。量販店で建材や食料を、インターネットで情報を仕入れながら、人家の少ない郊外でしがらみのない自由を満喫するライフスタイル。ただ、実際には税金や法律、周辺住民との関係などの諸問題もかかわってきます。小屋暮らしの先駆者や弁護士の意見を交えて、その理想と現実の問題をまとめてみました。 「田舎暮ら
し」 発想の転換が「八ヶ岳山麓で趣味三昧」実現
.
税金は? 排水は? 「小屋暮らし」の理想と現実 10万円で建築、生活費は月2万円
5年ほど前から山梨県の山あいで小屋暮らしを続け、「寝太郎」のニックネームで知られる高村友也さん(32)。  理想とする生活を「固定費を抑えて必要最低限(Basic)に」「素人が
試行錯誤で遂行でき(Babyish)」「A級ではなくB級」などの意味で「Bライフ」と名付け、自ら実践。ブログや著書も出版して、多くのフォロワーを生み出しています。

理想を掲げるだけでなく、その情報発信は土地探し、小屋の組み立て方はもちろん、必要な収入や保険、さらに建築基準法や農地法、廃棄物処理法、河川法といった法律問題も一通り押さえるなど、とても現実的です。

「僕も最初は無計画で、とりあえず土地を買ってしまってから少しずつ勉強していきました」という高村さん。いざ小屋を建てようと法律を調べると、「土地に定着する工作物で、屋根・柱・壁を有する」という建築基準法上の「建築物」は、「金槌もろくに握ったことのない」自分では造れそうもないと判断。ならば「土地に定着させなければいいのか」と役所に確認しに行くと「その通り」だと言われ、基礎を固定しない「小屋」を建てることにしました。

購入した山林の一部に3坪の木造平屋を自力で建てた総費用は約10万円。電気はソーラー発電、水は沢水や湧き水をくみ、火は主に枝木を拾ってペール缶などで自作したロケットストーブと薪ストーブで調理や暖房。生活費は月2万円程度で済み、短期バイトなどでまかないつつ、悠々自適に暮らす日々だそうです。

厄介なのは排水やトイレ問題
生活上の一番の問題は排水や廃棄物の処理。「水は手に入れるより捨てる方が厄介です」と高村さん。地域の条例などによって違いがあるそうですが、家庭内から出る排水は原則、下水管や浄化槽を通さなければなりません。高村さんの土地に下水管はなく、合併浄化槽は設置に数十万円がかかります。そこで洗剤や石けん、歯磨き粉などは一切使わず、食器類は油を必ず拭き取り、「水だけでピカピカ」になるスポンジで洗うことにしました。

すると排水はほとんど無害になるので、畑にまけます。ラーメンの汁など、塩分の多い排水は別の配管に分けて自然蒸発。尿は排水と一緒に畑へ。大便は自作のコンポストトイレで発酵させ、やはり畑の肥料にします。コンポストには米ぬかをかけていましたが、最近は薪ストーブの灰をかけると消臭作用があり、虫や動物も寄ってこないと分かったそうです。  「排水の規制は地域によっ
て厳しかったり緩かったりで、害がなければ垂れ流しでいいところもあるようです。

また、建築物かどうかの判断も地域や担当者によって解釈が異なりますので、事前に問い合わせるのが確実。建築基準法とは別に、その建物が住宅として課税されるか否かという調査、判断もあります」と、慎重に「法令順守」する高村さんは、これまで苦情を受けたり、トラブルに見舞われたりしたことはないそうです。

 

 

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2015年05月12日

老後の心配がないシンガポール    No2

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http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/43572

HDBの公式サイトの沿革にも記載があるが、HDBが設立された当時、国民の多くが「非衛生的なスラムや密集した不法占拠者の土地」(unhygienic slums and crowded squatter settlements)に住み、HDB住
宅に住む国民は全体の9%であった。現在では、住宅問題はほぼ解消され、80%以上の国民がHDB住宅に住んでいる。 やはり人間にとって「住」は大切だ。シンガポールでは不動産価格が高騰しているため、価格が高級コンドミニアムに比べ半額程度のHDB住宅はありがたい。また中央積立基金(CPF)という強制加入の個人年金制度があり、HDB住宅を購入する際はそこから頭金を利用することもできる。

ちなみに、国民は新しいHDB住宅への無償住み替えが保証されている。HDB住宅の維持管理はすべてHDBが責任を持つため、入居者が補修費の心配をする必要もない。HDB住宅の敷地には「ウェットマーケット」(市場)や「ホーカー」(公営のフードコート)があって、生鮮食品等が安く購入でき低価格の外食も利用できる。 また、HDBハブと呼ばれるセンターと地下鉄の駅がある。

地下鉄の駅がない場合でもバスルートだけは確保されている。このバスや地下鉄などの公共交通は政府が管理していて料金は安い。医療費に対する充実した政府補助を考えると、おそらく月々10万円程度の光熱費や食費さえ確保できれば最低限の生活はでき、老後の生活に大きな不安を抱くことはなさそうだ。

真の課題は格差対策ではない
シンガポールはアジアのタックスヘイブンと言われる国であり、貧富の格差は先進国としては非常に大きく、社会における所得分配の不平等さを測る指標「ジニ係数」は0.464(2014年)となっている。これは世界でもトップランクに近い数字だ。
シンガポールの国民は、高級住宅街に豪邸を所有する富裕層世帯、築30年くらいの古いHDB住宅に住み子供からの仕送りを頼りに質素に暮らしているシニア世帯等々、多様である。しかし、基本的な日常生活においては富裕層も庶民も購買行動はほとんど同じだ。

日本であれば「相対的貧困層」に分類されるような世帯でも将来の不安は比較的少ない。「住」が政府によって保証され、贅沢さえしなければ老後の生活を心配する必要のない社会ができあがっているからだろう。日本では、急激な円安に伴う物価上昇で庶民の生活は苦しくなりつつある。年金制度への漠然とした心配もあり、老後が不安なため庶民は消費を手控える。かつて中間層が分厚かった日本社会では、今、「格差」の拡大が問題視されているが、あらためてシンガポールの事例から学ぶべきことがあろう。

「失われた20年」の間に失敗した政策の再来のような「地方創生」に多額の予算を投じたり、株式市場の活性化や大企業社員の給与アップを促して全体に良い循環を行き渡らせるというアプローチを否定するものではない。だが、今後、真の政策課題は現実に直面している「貧困」の撲滅と「老後の不安」の払拭、それによる安心・安全な社会の構築なのではないだろうか。

 

 

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