2015年03月26日

遺言 日本の未来へ     No1

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三菱商事の“宇宙人”が説く本当の「開国」
http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20150317/278818/

三菱商事・元社長の槇原稔氏。三菱創業家である岩崎家の娘と結婚した槇原氏は、いわば「三菱のサラブレッド」。長い海外生活で身に付いた米国流の発想が社内外で注目され、かつては「宇宙人」と言われたこともありました。槇原氏は、これから日本がグローバル化を進めるには、一人ひとりが「第3の開国」をすることが欠かせないと説きます。

「宇宙人」と呼ばれた三菱のサラブレッド
槇原稔(まきはら・みのる) 英ロンドンで生まれて7歳で帰国。日米開戦の翌年、三菱商事に勤める父親が乗った「大洋丸」が、東シナ海で撃沈される。米ハーバード大学卒業後に三菱商事に入社し、三菱創業家の岩崎家の娘と結婚。1992年に社長。米国流の発想で総会屋問題などに対処。現在は特別顧問。岩崎家ゆかりの東洋文庫理事長。写真は米フォーチュン誌(44年4月号)。1930年1月生まれ。(写真:竹井俊晴、以下同)

ちょっと、遺言はまだ早すぎると思うんだけどね。僕は少なくとも、まだ5〜6年は生きるつもりでいるから。僕は、経歴的には非常に恵まれたといいますかね。最初の一番大きいショックは、父が1942年に亡くなったことです。三菱商事の社員として「大洋丸」に乗ってフィリピンに長期出張で向かう途中、東シナ海で米国の潜水艦によって沈められました。それが、私にとって1つの契機になったと思うんです。父と親交があった(三菱創業家の)岩崎家にお世話になるようになりましたから。

亡くなった諸橋(晋六=三菱商事元社長)さんにもよく言われましたが、「おまえは自然体で、あまりものに逆らわず、結果的にはいいところに行くんだ」と。戦争に負けたからグローバリズムの先駆けになったとか、そういうことではなしに、自然とこういう風になってきたと思います。 振り返れば、父の死と共に、私の人生のもう1つの契機となっているのは、非常に運が良かったことに当時通っていた成蹊学園で、素晴らしい先生に巡り会えたことです。

清水護先生という、一生懸命、英語を教えてくれる方がいた。成蹊は戦争中でも、英語教育が非常に盛んだったんです。だから、英語力は結構みんなありましたよ。父の死後、三菱創業家の岩崎家の屋敷に住んだ。終戦の詔勅は、小田急線の駅、なんて言う駅だったかは忘れてしまいましたが、そこで聴きました。正直、なんと言っているか分からなかったけど、何となく負けたのかなと、みんながそんなことを言っていたので、そうなんだろうなと思いましたね。

戦争に負けたのは、しょうがないなという感じでした。残念とか何とかというより、しょうがない。むしろ、終わってよかったと。まあ、負けるとも勝つとも、あんまり関心がなかったということじゃないですかね。それから、成蹊にも軍隊から将校が来ていましたが、それこそ、清水先生は尊敬するけど、配属将校は何となくみんなでバカにする雰囲気があったんです。 戦後直後の日本の経済というのは、本当に無茶苦茶でね。僕はたまたま、(東京の)牛込の家が焼けちゃったので、国分寺にある岩崎さんの屋敷に住まわせてもらっていたんです。屋敷の隅っこにちっちゃな家があって、そこに私と母と2人で住んでいました。

母が背中を押した米国留学
岩崎家の母屋の方には、後に米国聖公会の司教になられる方が住んでおられた。彼がハーバード大学の卒業生だったんです。日本国内がとにかく乱れていたものだから、私は成蹊を卒業したら海外に行きたいと思っていて、1949年にその司教に留学したいという希望を伝えたんです。すると、「私は神様が後ろ盾にいるけれども、いくら頑張ってもハーバードには直接入ることはできない」と言うんです。いくら英語が上手くても、ダメだと。

しかしながら、「ハーバードには推薦できないが、ニューハンプシャー州にあるセント・ポールズ・スクールなら推薦できる。まずはそこに入って、そこでいい成績を修めればハーバードに行ける」と提案してくれました。 親父が死んで僕は、母と二人きりになっていましたから、母がどう思うか心配したんです。そしたら、母は、「もう、そりゃ行きなさいよ」と言ってくれた。背中を押してくれた母には、本当に感謝しています。それで、まずはセント・ポールズ・スクールに入り、1年後にハーバードにいくことになりました。

 

 

posted by タマラオ at 07:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記