2015年01月26日

安い海外農産物の攻勢をチャンスに変えたオランダ

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http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/42466

日本のスーパーでもお目にかかる、赤、黄、緑の巨大なピーマン。原産国がオランダであることが多い。また、花屋の店先へ行けば、オランダ産と記された球根や「アムステルダム直送」などという札がついた生花が美しくアレンジされているのを見かけることもあるだろう。

オランダを農業輸出額世界第2位にした推進力とは
日本の九州とほぼ同じ面積しかない小国のオランダは、不毛といわれる岩塩混じりの土壌を持ち、北海からの強風が常に本土へ吹き寄せ、曇天がほぼ1年中続くという、お世辞にも農業に適しているとは言い難い国である。北ホラント州の農地。この地から、農作物が世界へ向けて輸出される   ところが、農産物の輸出額は、なんと米国に次ぐ世界第2位(約773億ドル:CBS・オランダ中央統計省2013年度調べ)なのだ。

輸出額が特に多いのは畜産製品(肉、乳製品)、トマトやピーマンなどの野菜、そして生花球根、植木などの園芸植物である。 2008年のリーマンショックの影響で生じた経済危機による不況から回復の兆しがない悲観的な状況であるにもかかわらず、農作物の輸出額に限っては、順調に伸び続けている。 特に生花の出荷率は、昨年の同時期と比較すると、約3%も増加している(CBS・オランダ中央統計省2014年度調べ)。

農産物輸出額世界第2位の地位をこの国にもたらしたのは、「スマートアグリ」の導入によるところが大きい。農業従事者たちがコンピューターを使い、ビニールハウス内の温度、湿度、二酸化炭素の濃度、そして地中の温度などをITによって管理する方法だ。10色以上の色を持つといわれるピーマンを育てる農家。管理はすべて、スマートアグリによるコンピューター制御で行われる   実はこのスマートアグリが従来の農業にとって代わることになったのには、理由がある。

1980年代終盤、スペイン、ポルトガル、ギリシアなど、南欧の気候風土を生かし大量生産された安価な農産物がオランダへ大量に輸入されるようになり、国産物の売れ行きががた落ちしたことがあった。 従来のオーソドックスなオランダの農業法では、量産の面からして、とうてい太刀打ちできない。そんな中、農業従事者たちがたどり着いた考えは、国産農産物を効率よく大量生産させることだった。そのためには、不毛に近い土壌、悪天候等のマイナス要素をプラスに変えるための方法を編み出さねばならない。

搾乳もコンピューター機能をフルに活用した方法を用いている。写真は、最新システムを導入した酪農家のもとで体験学習をする小学生たち。 そこで農業従事者たちは協同組合を結成する。この組合で、経験を基にお互いのアイデアを交換しつつ、試行錯誤を繰り返しながら、結果としてIT技術を用いた農作物の徹底的管理法の導入に踏み切ったのだ。 オランダのスマートアグリは、農業従事者たちがオランダ東南部・ワーヘニンゲン大学の研究者たちの助けを借りながら、自ら開発し導入したものである。導入に伴う資金調達も、大手金融機関からの工面によるものだ。

つまり、スマートアグリ導入は、国の提案によるものではなく、農業従事者たちの経験と研究が実を結び、実現に至ったものと言えよう。 その結果として収獲量が増大し、輸出量が世界第2位となったことが農林省に正式に認められ、昨年から農業従事者への資金支援が政府によって約束されることになった。

生花の生産から販売・流通までを支えるIT化
オランダといえば、チューリップを思い浮かべる方も多いだろう。国花でもあるチューリップに代表されるような、生花の輸出量を世界一の座に押し上げたのも、やはりスマートアグリによるものだと言える。

園芸はもともとオランダの主要産業のひとつだった。
特に生花、球根、植木の輸出量は、過去10年の間に軒並み上昇傾向を辿っているが、政府はそれを見越して、園芸を専門とする農家の協同組合に対し、援助資金調達をすでに1990年に開始していたという。 これにより、生花の生育や流通システムのIT化が一挙に進むことになったわけだ。  生花店にて。花や観葉植物は、暗く長いオランダの冬の間、部屋を明るくするインテリアとして欠かせない存在でもある

 

 

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2015年01月25日

クマさえ食べない“嫌われ野菜”で No1

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10億円稼ぐ最高齢85歳ニラ農家集団の逆襲     http://diamond.jp/articles/-/63914

ここに一枚の写真がある。撮影時期は7月で、山の麓の畑に植えられているのはニラである。「好きな野菜は何か」と聞かれ、「ニラ」と答える人はあまりいないのではないかと思う。ニラを使った料理といって思い浮かぶのも「餃子」「ニラ玉」くらい。決してメインを張れる野菜ではない。女性の場合、その匂いも気になるところだ。ところが、その嫌われ野菜で儲かっている産地がある。ニラのブランド名は「達者de菜」。栄養満点のニラを食べればマメで元気になれるという意味らしいのだが──。

予想以上に熱かったニラの統一ブランド名を巡る戦い
訪れたのは山形県最上地方だ。県内は大きく庄内、最上、村山、置賜の4つの地方に分かれており、北東部に位置する最上は、年により積雪量が2メートルにもなる豪雪地帯である。取材のために訪問した時期は10月上旬で、JR新庄駅から現地の農協へ向かう途中には見渡す限りの田園風景が広がっていた。ちょうど刈り取りを終わったばかりの田んぼは、どれも見事なまでに区画整理されていた。

到着したJA金山で、営農部部長の柴田裕一さんと生産者でにら部会長の大場孝さんにニラに関する詳しい話を伺った。案内していただいたのは、JA全農山形の最上米穀園芸推進室、鈴木学さんである。袋詰めされて出荷される「達者de菜」。ブランド名は同じだが、JAごとに袋のデザインは微妙に異なる。

──「達者de菜」は最上地区にある5つの農協が使用している統一ブランド名だそうですが、秀逸ですね。どなたが考えたのでしょうか?
柴田「20年くらい前、広域の全農の会議で話し合ったなかで出てきた、と聞いています。じつは、宮城に『もっこりにら』というのがあったんですよ」

──もっこりにら!?
柴田「てんこもり、とかいう意味の。だから、まあ、それに負けないインパクトのある名前をということで考えたらしいです」ブランド名を決める会議に参加していたのは、各農協の事務局長、部会長とみな高齢者だった。ニラは言わずと知れたパワー野菜。すぐに「ニラを食べて達者で長生き、それでいこう」ということになった。改めてネットで調べると、JAみやぎ登米のホームページにはたしかに「もっこりにら」「仮面ライダーきゅうり」「地中海キャベツ」などの衝撃的な統一ブランド名が並んでいた。近所の100円スーパーに行けば長崎県産の「ニラめっこ」というニラも並んでいて、ネーミングの妙を競う産地間の戦いは予想以上に熱いこともわかった。

柴田「ここでは、ニラそのものは以前から作っていたんです。時期で言うと昭和55年くらいから。きっかけは減反政策です。コメからの転作が必要だというので、いろいろ試しました。とうもろこし、カボチャ、ひまわりなんかもやりました。だけど、そのなかで残ったのはニラときゅうりくらいで……」山形と言えばさくらんぼやモモ、ブドウなどフルーツの産地としても有名だ。しかし、ここ最上では寒過ぎてフルーツの栽培には向かない。加えて、冬場のハウス栽培も難しかった。軽油や灯油などの燃料費がかさみ、採算にのらないからだ。そこで露地栽培のニラに着目した。

柴田「最初はきゅうりの研修で山形市内に話を聞きに言ったんです。そしたら、隣にたまたまニラ農家がいた。聞いたら、ニラは儲かるって言う。『そんなに儲かるのか?』っていうところからニラを本格的にやろう、という話が始まったんです」

たった5ヵ月間でサラリーマンの平均年収を稼ぐニラ
たかがニラ、されどニラである。山形県にとってニラがどれほど重要な野菜か、を示すデータがある。平成22年度の山形県野菜総販売額(全農扱い)における品目別の割合で最も高いのはスイカ(27%)だが、ニラ(10%)はそれに次ぐ県の主力野菜になっている。年によってその販売金額は若干上下するものの、多い年ではニラだけで10億円以上を売り上げる。そんな県産ニラのほとんどはここ最上地方で生産されている。袋詰めされたにらは立てた状態で箱に入れられ、出荷される。

 

 

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2015年01月24日

「失われた20年」は、実は「成長痛の20年」でした      No5

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倒産法の改正
第2に、倒産法が2000年頃改正されました。以前は、経営が危うくなった企業には、メーンバンクによる救済に頼らざるをえませんでした。しかし今では、民事再生法や改正後の会社更生法に基づいて、企業を再建することができます。この2つの現代化された法律により、メーンバンクの、企業再建における独占状態を止めることができました。 銀行主導で再建が進められると、最終的に企業がローンを返済できるよう、財政上の問題を解決しようとします。

しかし、2000年代から始まった競争社会において、企業を再建するためには、財政的再建より、ビジネスモデルの改善の方がより大事になりました。これは、新しいビジネスモデルなしに、国際競争に勝つことができなくなったからです。
そして、新しいビジネスモデルを考えるのは、銀行の得意分野ではありません。そこで、新しい民事再生法や会社更生法の改正により、企業が自分たちで最善の選択肢を決められるようになりました。

さらには、昔のメーンバンクによる経営再建よりも幅広い種類のビジネスモデルを使って、リポジショニングができるようになったのです。

労働市場における変革
第3に、労働法が改正されました。これは面白い要素の多い話であるため、また別の回でお話したいのですが、簡単にまとめると、終身雇用が変わり、非正規労働者が増えました。社会にとっては、解雇されることがないシステムは魅力的です。しかし、ビジネスの観点からすると、リポジショニングのために、柔軟性が必要です。 以前は、リストラが厳しく制限されていたため、利益の見込めないビジネスからの撤退は困難でした。このため、企業規模は拡大し、たくさんの無駄を抱えることになりました。

しかし、2003年ごろになると、リストラ、そしてビジネスからの撤退がしやすくなり、国際競争に勝てる戦略を練ることが容易になりました。もちろん、これは社会にとっては、成長痛のように痛い変化です。しかし、日本が市場本位の経済で国際競争に勝つためには、必要な変革でした。

選択と集中
では、ニュージャパン企業はどうやって、昔ながらの経営規模と安定性を重視した習慣から、利益率とポジショニングを重視した習慣に切り替えたのでしょうか。この変革期における日本のビジネスのキャッチフレーズは、「選択と集中」です。まず、企業は計画的に、競争できるビジネスを「選択」し、ほかのビジネスから撤退します。それから、研究開発費用や、製造に関わる資源をすべて、そのビジネスに「集中」させるのです。オールドジャパン企業はこれを得意としません。

日立製作所はまだ800以上もの子会社を抱えており、東芝やパナソニックも数百もの子会社を持っています。この中で、収益性が見込める子会社は実はさほど多くありません。 現在の国際競争で勝つためには、ビジネスの「集中」が必要です。それは、色々なビジネスで競争をしてしまうと、それぞれの分野で力強いライバルと競争しなければいけないからです。そのため、努力をすべて一番得意なビジネスに集中させ、その分野で競争した方が効果的なのです。

 

 

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2015年01月23日

「失われた20年」は、実は「成長痛の20年」でした      No4

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下のグラフは、東京証券取引所における、1998年から2012年の間の株主の内訳です。このグラフから分かるように、現在海外投資家は全投資家の3分の1を占めています。これは日本の企業の経営者の多くにとって、懸念材料です。以前は、国内の銀行や企業などが安定株主となり、株式持ち合いをしていました。そして安定株主が求めていたのは、最善の経営や利益ではなく、長生きできる企業だったため、当時の企業は収益さえ安定していれば十分だったのです。

これは、企業を長い目で経営できるという点では良かったのですが、経営者にあまり責任はなく、業績が悪くても生き残れたため、“甘え”が生まれるという悪い点もありました。それに対して、新しい投資家たちは投資の見返り、すなわち株式資本利益率、総資産利益率、営業利益率などの利益率を重要視しました。そのため、常に最善の経営を求めました。もし企業の経営が良くないと判断したら、その株を売ったり、敵対的買収を行ったり、経営者を変えたりして、経営を改善しようとします。このため突然、日本企業は企業規模ではなく、業績を気にしなければいけなくなったのです。

これは経営陣にとって、今までとは全く違う、意識の方向転換が必要になった、ということです。利益を上げられない子会社を維持することができなくなりました。「これで十分」という妥協点がなくなりました。最善を尽くした経営をしなければ買収されるかもしれないという恐怖が芽生え、利益率を上げようと意識するようになりました。これらの結果、海外との消費者向け商品の競争が始まっただけでなく、国内においても目覚ましい変化が起きていたのです。

小泉改革と企業再生
2000年代初期になると、小泉純一郎元首相が、“民間ができることを民間に委ねる”をキャッチフレーズにさらなる改革をしました。この改革により数え切れない数の法律改正があったのですが、ここでは、3つの重要な変化についてお話します。

第1に、企業再建に関する法律が改正されました。それまでは、ビジネスからの撤退、子会社の独立、子会社と他社との合併などは、ほとんど不可能でした。しかし90年代初期から規制が緩和され、今では大企業による、利益が見込めないビジネスからの撤退や、重要ではない子会社の売却が可能になりました。つまり、事業ポートフォリオの再建が可能になったのです。それから毎年のように新たな規制緩和が進められ、2006年には会社法が施行されました。

これにより、大企業の経営者の、経営戦略の選択肢が著しく広がりました。 この変化は企業形態にも影響しました。旧山之内製薬と旧藤沢薬品工業が合併し、アステラス製薬が生まれ、製薬業界の合併の波が始まったのが良い例ですが、大きな合併が増えました。それから、新日本製鉄が半導体ビジネスから撤退し、そのビジネスを担当していた社員が、アクセルというパチンコ台に使われる半導体をデザインする企業を起業した、といったような、大手企業から分離独立する形の新しい企業も増えました。

また、いくつかの親会社が、あるビジネスから同時に撤退し、そこで切り離された部署が合併して、1つの大きな企業になるという“子会社の結婚”も増えました。例えばエルピーダメモリは、1999年に、日立とNECがDRAMビジネスから撤退した時に生まれました。各産業における昔ながらの階級制度が解体されたため、新しい企業が市場に参入し、競争しやすくなりました。

このようにして、会社法の改正は、企業のリポジショニングや変革を可能にし、新しい企業を繁栄させたのです。そして、この改革や新しい競争を通じて、楽天、ソフトバンク、DeNa、テンプスタッフなど、数々の新しい企業が、力をつけました。

 

 

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2015年01月22日

「失われた20年」は、実は「成長痛の20年」でした      No2

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1つ目は、国内市場が変わったことです。以前は、輸入制限や、小売業に関する厳しいルールなどにより、価格競争が制限されていました。しかし、流通革命や電子商取引が始まったことにより、保護を受けながら輸出に専念していた市場から、激しい競争をしながら、消費者に幅広い種類の商品と価格を提供する市場に変わったのです。

2つ目に、国際競争が変わりました。例えば、電子機器には国際市場に消費者向け商品を大量生産し、輸出する役割は、日本企業から韓国、台湾、中国の企業に移りました。そして、今度はグローバル市場で競争するために、日本企業の変革が必要でした。

この変革は痛みを伴う厳しいものでしたが、未来の成功のためには必要なものでした。しかし、すべての企業がこの変革を乗り越えられたわけではなく、昔と同じ方法で経営している企業もあります。私はこれらの企業を、“オールドジャパン”企業と呼んでいます。それに対し、この新しい競争市場で積極性を発揮し、成功している企業を、“ニュージャパン”企業と呼んでいます。 この変革は、90年代の深刻な危機から始まりました。

たくさんの銀行や中小企業が倒産し、新規雇用が減り、リストラが増え、ホームレスや自殺などの社会問題が多発しました。そして、日本の転換期である1998年に、新しいグローバル社会に適用できなかった日本の高度成長は終わりを迎えました。しかし、これは必要な変革でした。古いしきたりばかりでお堅かった戦後の日本から、優れたテクノロジーを活用し、グローバル社会で競争できる日本に成長しなければいけませんでした。

そして20年間に及ぶ変革期で、古い保護型のシステムを捨て、新しい競争型のシステムを取り入れるために、“成長痛”に耐えなくてはいけなかったのです。

「産業政策」は日本の発明したコンセプト
第二次世界大戦後、日本は欧米に追いつくために、素晴らしいシステムを作りました。それは経済用語で、輸出主導型成長、そして「幼稚産業保護型システム」と呼ばれます。旧通商産業省を中心に機能したこのシステムは、「産業政策」と呼ばれます。日本ではすっかりおなじみであるこの産業政策という考え方は実は、後に”industrial policy”と英訳され輸出された、日本の発
明品です。 

このシステムでは、市場競争よりも政府が成長見込みのある重要な産業を特定し、その中でも特に成長見込みの高い“勝ち組”企業を支援します。この産業政策によって、日本は古い産業(50年代で言えば玩具や繊維工業など)から撤退し、新しい産業(機械工業、鉄鋼業、造船業、73年の石油危機以降は電子産業など)を育てることができました。  この頃の目標は、とにかく最大限
輸出し、外貨準備を確保し、日本を立て直すことでした。

政府は、研究費や生産を効率化するために競争を制限し、“勝ち組”企業が多様化しながら企業規模を大きくするように誘導しました。その間に、企業の良し悪しは利益率ではなく、売り上げや市場占有率など、企業規模によって測られる、という考え方が生まれました。 大企業のリーダーは財界のリーダーでもあり、小さな企業は“負け組”でした。大企業に就職できれば、家族も喜ぶし、女の子にもモテるため、若い男性はみな大企業で働こうとしました。

そのため、大企業は優秀な大学生を真っ先に採用することができました。 しかし、まるで“宗教観”のようなこの考え方は、実は世界共通ではなく、日本独特のものです。大企業に人気が集中するのは実はとても非合理的なことなのですが、日本の就職ランキングを見れば、現在もこの考え方が根強いのが分かります。 このような状態でも、80年代後半まではうまく機能していました。外国で発明されたテクノロジーを日本が導入し、カメラ、ウォークマン、ビデオレコーダー、ファクス、そして自動車など、とてもかっこいい商品を作っていたからです。

日本の企業は、優れた品質で、かつ安い商品を大量生産することが得意ですし、アメリカ人もヨーロッパ人も、日本の商品が大好きです。

 

 

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2015年01月21日

「失われた20年」は、実は「成長痛の20年」でした      No1

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苦しんだ期間はイギリスよりも短いのです     http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20140522/265147/

インターネットサービス企業のディー・エヌ・エー(DeNA)、メモリー大手のマイクロンメモリジャパン(旧エルピーダメモリ)、大手製薬会社アステラス製薬、半導体に欠かせないシリコンウェハーメーカーのSUMCO、大手都市銀行のみずほ銀行、そして最近上場したジャパンディスプレイ。これらの企業の共通点は何でしょうか。 彼らは、「失われた20年」の間に生まれ、躍進してきた企業群のほんの一部です。このグループには現在、成功している企業だけでなく、苦しんでいる企業、既に売却された企業など、実に様々な企業があります。

しかし「失われた20年」と呼ばれた時代であったのにもかかわらず多くの企業が生まれ、その多くが今も活躍しているのはなぜでしょうか。 彼らは、ベンチャー企業、みずほやアステラスのように合併によって作られた企業、あるいは20年の間に作られた新しい起業方法から生まれた企業です。楽天、カカクコム、グリー、ミクシィ、DeNAのような、インターネットの普及で起業できた企業もあります。新しい企業ばかりではなく、ソフトバンク、ファーストリテイリング、ワタミ、キーエンス、日本電産など、この時代に一気に成長した企業もあります。

このような現象が起きたのは、90年代が全く失われてなどいなかった証拠です。むしろこの20年間は、若く成長が著しかった日本から、成熟した、「大人な日本」に変わるための、大事な変革期だったのです。当時の日本の産業構造では、グローバル社会で競争できなかったからです。 この変革は、成長痛のような、とても痛いものでした。しかし、20年以上“英国病”という成長痛で苦しんできたイギリスと比べると、20年という期間は決して長くありません。

しかもその20年の間、日本の政治経済が構造改革を進めたため、新しく、競争力のある企業を生み出すシステムが生まれました。今日は、この変革についてお話ししたいと思います。

どうして競争することが大事なのか
この20年間の日本経済における一番の変化といえば、競争が始まったことでしょう。例えば、ファーストリテイリングのユニクロを例に見てみましょう。ユニクロの成功理由は、たくさんあると思います。まず、経営者の柳井正さんがいち早く予見した次の流行ファッションをもとに、安くておしゃれな服を作れることです。そして、サプライチェーン・マネージメントなどの企業経営が素晴らしいこともあげられます。それから、ヒートテックを筆頭に、一級品の素材を使っているのも強みです。

これらに加え、私が考える4つ目の理由は、国際競争が激しいからだと思います。スペインのインディテックスが展開するZARA(ザラ)、スウェーデンのヘネス・アンド・マウリッツのH&M、米国のフォーエバー21などといった競合ブランドがなければ、ユニクロは今ほど安く、良い商品を売っていなかったかもしれません。同様に、楽天はアマゾン・ドット・コムと、コマツはキャタピラーと競い合っているからこそ、素晴らしい企業に成長したのです。

彼らがグローバル市場で成功できている理由は、スポーツ選手が新記録を達成できる理由に似ていると思います。競争相手が速く走るほど、自分も速く走らなければいけません。同様に、競争が激しいビジネスであるほど、より良い商品やサービスを提供しなければ、生きていけないのです。 「失われた20年」の間に競争が始まったことにより、2つの変化が日本で起きました。

 

 

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2015年01月20日

日本に多大な利益をもたらす製品      No3

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それはスマホです!
http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20140508/264160/

どうしてこれが意外なのか
iPhoneと、日本のグローバル・サプライチェーンにおける役割に関する研究発表をするたび、多くの日本人の方に驚かれるだけではなく、信じてもらえないこともあります。これには2つ、大きな理由があると思います。 まず、素材や部品のメーカーの存在を知らないことが理由です。多くの人にとって、アップル、ソニー、パナソニック、サムソンなどのブランドは馴染み深いでしょう。これはテレビやパソコンなどにブランド名が必ず明記されており、毎日目にするからです。

これに対し、パソコンのハードディスク・ドライブや、液晶ディスプレイを作ったメーカーの名前を目にすることは滅多にありません。ましてや、その液晶ディスプレイに使われる素材を作ったメーカーともなれば、更に難しいでしょう。そういう意味では、日本の企業の付加価値を実感しにくいのは仕方がないのかもしれません。

利益率より経営規模を優先する日本人
しかし筆者の話を信じてもらえない最大の理由は、多くの日本人が”オールド・ジャパン”的な考え方を持ったままであるからだ、と思います。これについては、次のコラムで詳しく話そうと思うのですが、簡単にいうと、多くの日本人には、大企業に憧れる傾向が昔からあるからです。それはつまり、利益率より経営規模を優先する、ということです。日本の大企業の多くは多角化、つまり、様々な種類の商品やサービスを提供しています。

例えば、日立製作所はつい最近まで800以上の子会社を持っており、発電所からドライヤーや掃除機まで、電気に関わるすべてのものを生産していました。 掃除機など、家庭で毎日使われる商品も生産していたため、誰もが日立の名前を知っています。その半面、素材や部品を生産している企業は知名度が低く、比較的小さな企業である場合も多いため、日本人にとって、こうした企業が世界で活躍していると信じることは難しいのでしょう。

過去20年間で世界の経済は劇的に変わりました。先ほどのU字曲線からわかるように、部品を組み立てるだけの分野では利益率はとても低くなっています。1970〜80年代の日本企業の競争優位は、消費者向けの高品質な商品の大量生産、つまり組み立てとデザインにありました。 そこに、韓国、台湾、そして中国が追いついてきました。日本の企業は、U字曲線の中で”組み立て”にあたる分野から移動しなければ、利益を上げられなくなってしまったのです。

U字曲線上の「川上」に移動せよ
パナソニックやソニーは最近、消費者向け商品のビジネスを打ち切ると発表しました。ソニーはVAIOを、パナソニックは携帯電話を、もう生産しないというのです。この発表を聞いた多くの人々はこれを、“失敗”、“敗北”、“損失”、などと捉えます。しかし、これは経営戦略の観点からすると、とても賢い一手です。日本は部品の組み立てなどの単純作業を低コストでできるという優位性を失ったため、この分野で
利益を得ることが難しくなりました。国際競争に勝って成功するためには、U字曲線上の違う点に移動しなければいけません。

製造企業にとって、大抵これは川上に移動することを意味します。つまり、高い技術を要する付加価値の高い素材や部品を生産することにより、利益率を上げるのです。パナソニックが最近、アップルに部品を提供する企業に加わったことは、”勝者”への一歩を踏み出した、ということではないでしょうか。 嬉しいことに、多くの日本企業が、同じような変革を始めています。

 

 

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2015年01月19日

日本に多大な利益をもたらす製品      No2

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それはスマホです!
http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20140508/264160/

サムソンのGalaxyやHTCのスマホにおいても、日本企業による付加価値はiPhoneと同様、もしくはそれ以上に高いかもしれません。つまり、韓国と台湾がスマホの生産のために日本の素材を輸入しているため、日本企業が生産するスマホが世界で競争できていなくても、日本は素材の市場で世界一なのです。 日本がLCDの画面を作るための素材、部品、産業機械において世界一なのは、嬉しい事実です。

なぜなら、製造工程の中で一番利益率が高いのは大抵川上の、素材や部品を扱う産業だからです。製造工程と利益率の関係を考え出したのは、台湾のパソコンメーカー、エイサーの創業者であるスタン・シー氏でした。数年前に彼は、パソコンの部品を組み立てる単純作業だけでは利益を上げられないことに気づき、利益率と製造工程の関係は、以下のようなU字曲線で表せると発表しました。この曲線は笑っている人の口に似ているため、英語では”スマイリー・カーブ”と呼ばれます。

利益率のスマイリー・カーブ
この曲線から分かるように、製造工程の中で川上と、リテールを担当する川下にいる産業において、最も経常利益率が高くなっています。さて、アップルが儲かる理由が見えてきたでしょうか? アップルは、川上のデザイン、そして川下のリテールだけが自社で、それ以外の工程を外部委託しているのです。このような戦略で高利益を得られる企業は、残念ながら今現在は日本の電機メーカーにはほとんどありません。

アップルの秘密主義で有名になれない日本企業
しかし多くの日本企業は、川上におけるデザインのすぐ次の工程に位置しています。さらには、最先端のスマホにおいて、ディスプレイ素材を生産する企業がデザイン工程にかかわることが少なくありません。これにより素材を生産する企業は、主要供給業者という立場を確立できます。アップルはとても秘密主義の企業であり、知的財産保護のためデザイン工程を内密に進めます。そのため、デザイン工程やそれに関わる川上の企業の名前は公開されていません。

川上の中でも、素材や産業機械を生産する工程の利益率が高い理由は、高度な技術を必要とするからです。複雑な有機化学物質を取り扱うことが度々あるため、他の企業では同じ品質でデザイン・生産できないような素材を作っているのです。 この素材は高品質のディスプレイには不可欠なものです。アップルやサムソンはこの高品質なディスプレイを使って、商品の品質を高めようとしているため、お金を多く払ってでもこの素材を購入したいと思うのです。

分かりやすい例は偏光フィルムです。これは、化学物質を吸収させた薄いフィルムで、画面を明るくしたり、日光の下でも見られるようにしたり、視野角(ディスプレイを横から見ても画面が綺麗に見える角度)を広げたりします。この偏光フィルムにおいては、世界市場の約70%を日本の企業が占めています。もちろん、韓国のLG化学やドイツのヘンケルなど競合先はいます。彼らは日本にとって脅威ですが、幸いにも日本企業は立ち止まらず日々品質向上の努力を続けているため、世界トップの座を維持できるのです。

 

 

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2015年01月18日

日本に多大な利益をもたらす製品      No1

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それはスマホです!
http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20140508/264160/

ひょっとしたら信じがたい読者もいるかもしれませんが、日本発・世界のヒット商品の1つはスマホです。スマホといえば、米アップルのiPhoneやサムソンのGalaxyなどが代表的ですが、実はどのスマホにも、さらにはiPadやタブレットにもこの「事実」があてはまります。 確かにiPhoneは米国でデザインされ、大部分の利益を米アップルが手に入れます。 その間、日本企業は音楽のデジタル化や
iPodの波を逃しただけではなく、“ガラパゴス”ケータイを作ってしまったということで、ソニーなどの日本企業は大変な批判を受け続けました。しかしそれでも、スマホは多くの日本企業にとって大きな収入源となっているのです。どうしてでしょうか。

iPhoneが日本にもたらす莫大な利益 iPhone製造における国別内訳
iPhoneの製造プロセスを詳しく見てみると、日本企業が大活躍している理由が分かります。右の図は、iPhone 3Gの製造にかかわる企業の、国別の内訳をまとめたものです。この図
は、電子機器のマーケットリサーチを専門とするアイサプライがiPhoneを分解し、それぞれの部品の原価価値を調査して作りました。これを見ると、iPhoneの製造原価のうち、実に34%の価値を日本企業が付加していることが分かります。iPhone 3Gの製造
原価が1台約178.96ドルですので、iPhone1台が売れる度に、日本に60.84ドル落ちる計算になります。

アップルは素材や部品を提供している企業のリストを発表しています(例えばこの資料から確認できます)。このリストには、AGC旭硝子、京セラ、TDK、住友電気工業など、90以上もの日本企業が記載されています。中には、第一精工、アルプス電気、イビデン、ミツミ電機、日本メクトロン、SMKなど普段あまり耳にしない企業も含まれています。これらの企業もまた、アップルに直接部品を売っているのです。

日本の素材なしにスマホは成り立たない
日本のiPhoneへの付加価値は部品によるものだけではありません。先ほどの企業リストにあるように、多くの企業は台湾か韓国の企業です。実は、この2つの国は対日貿易赤字の状態です。この理由の多くは、日本の化学品、素材、部品、産業機械、電気製品の輸入によるものです。 つまり、日本の企業が素材や部品を生産し、台湾や韓国の電子部品メーカーがこれを加工し、最後に中国の企業が組み立てをしているのです。

その結果、中国もまた、台湾と韓国に対して貿易収支が赤字となっています。例えば、LCDに使う高品位で薄いフィルムを日本の企業が生産しています。この中には、JSR、日東電工、富士フィルムホールディングスに加えて、ほとんどの人が耳にしたことのないような企業がいくつもあります。この他にも、台湾や韓国は、LCDの画面を作るための機械や半導体なども日本から輸入しています。

これから分かるように、すでに加工し終わった最終製品だけを見て、日本企業のiPhoneに対する付加価値が少ないと判断するのは間違いなのです。日本の企業は、川上に位置する素材や、構成部品などを生産しています。これらの素材を作るのはとても高度な技術が必要であるため、iPhoneへの付加価値はとても高いのです。 その結果、日本のiPhoneの原価に対する貢献度は、世界のどの国よりも高くなるのです。

 

 

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2015年01月17日

鉄より強い人工血管  No3

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人間には到底そんなことはできません。絹を模した人工繊維にナイロンがありますが、その製造過程では高温や薬品を必要とします。一方、カイコは室温で水溶液から強い繊維をつくり出すのです。私は、繊維化前の絹の水溶液がどんな分子構造をしているのか、非常に興味を持ちました。同時に、強い繊維になるからには、何らかの秩序だった分子構造を持っているに違いないとも考えました。

この構造を解明すれば、薬品も使わず環境に優しい方法で強い繊維をつくることができるかもしれない。そう考えたのが、私の研究の出発点でした。

20年間カイコ一筋で偉業を達成
1950年代に、ノーベル賞を受賞しているポーリングという学者が、絹の繊維化後の構造、つまりカイコの口から出た後の絹の分子構造について論文を発表しました。しかし、絹の繊維化前の構造、すなわちカイコの体内における絹の水溶液の分子構造については、多くの研究者が解明しようとしたものの、分からないままでした。この研究の難しさは、「絹の繊維化前の分子構造を、外からの力がかからない状態で決定する」という点でした。

それまで構造決定のためによく用いられていたX線解析の方法では、質の高いデータを得るために対象物を結晶化する方法が一般的でした。しかし結晶化させようとして熱を加えたり伸ばしたりすると、その分子構造は繊維化後の構造にすぐに変わってしまうのです。従来の分析手法が通用しませんでした。そこで、構造決定のために、NMRを使った新たな分析手法を開発する必要がありました。新しい方法を考えるところから始めるのですから、とてつもない時間がかかります。

方法論を考案し、実験を計画し、テストし、改良の工夫を考えてはまた試し――。そうしてカイコの研究を始めてから20年を経て、ようやく絹の繊維化前の分子構造を解明することができました。もちろん世界初の偉業である。「決定的なデータが出てから1週間は興奮して眠れなかった」という。研究者の世界でも、20年をかけて成果を出す例は少ない。長い年月、意志が揺らぐことはなかったのだろうか。20年の間に研究を取り巻く環境も変わりました。

基礎的な研究では学外のサポートを得られにくくなり、「すぐに役立つ研究を」という風当りを感じたこともありました。しかし、自分のやっている仕事を「絶対に面白い」と感じ、応用や発展の可能性を確信しているなら、ゴールがぶれることはないと思います。もちろん、社会の直近のニーズに合わせた優れた仕事をする研究者もいます。でも、私は一つのテーマに絞り続けました。結果として、自分の歩んだ道はこれで良かったと感じています。

20年間続けることができたのには、ライバルの存在も大きかったという。
物質の分子構造を決定する分析手段として、NMRとX線解析は双璧です。NMR構造解析の研究者と、X線構造解析の研究者の間にもライバル意識がありました。実は、私が農工大で絹の繊維化前の構造解析を始めた数年後に、同じ学科にX線解析の研究者が加わり、私と同じ研究を始めました。当然私としては、負けられないと思いました。毎年、学生の卒業論文発表会では、私が指導したNMR派の学生と、X線派の学生との間でバトルになりました(笑)。

当時は、内心穏やかではありませんでしたが、今考えると、ライバルの存在は非常に大きかったと思います。ライバルがいて、つくづく良かったと思います。

 

 

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2015年01月16日

鉄より強い人工血管  No1

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カイコの謎を解き明かし、鉄より強い絹で人工血管をつくる    東京農工大学大学院工学研究院教授 朝倉 哲郎氏

カイコはどうやって体内で絹をつくっているのか――半世紀もの間、世界中の研究者が挑み続けてきた謎を20年かけて解き明かした日本人研究者がいる。東京農工大学教授の朝倉哲郎氏だ。現在、朝倉氏はその成果を応用し、絹製の人工血管を開発。医療分野での絹の新しい可能性を生み出しつつある。

絹の人工血管は血栓ができにくい
体を巡る血管が何らかの問題で機能しなくなってしまった際、その代替として生体組織とは異なる物質で出来た人工血管が使われることがある。朝倉氏が取り組んでいるのは、絹を用いた直径6ミリ未満の小口径の人工血管の開発だ。
人工血管は、血管が閉塞した場合や血管に瘤(りゅう)ができた場合などに、もとの血管の代わりとして使われるものです。血管の大きさは部位により様々で、直径6ミリ未満の小口径の人工血管が使われる部分としては、心臓の冠動脈や下肢の細動脈が考えられます。

心臓の冠動脈が詰まれば心筋梗塞になったり、膝下の細動脈が詰まれば脚を切断せねばならなくなったりするケースもあります。ところが、現在主に使われているポリエステルやフッ素樹脂製の人工血管は、直径6ミリ未満だと血栓ができやすいという問題があります。理由ははっきりと解明されていませんが、材質が影響しているのかもしれません。私は長く絹を研究してきました。絹は丈夫な上に生体適合性が高く、昔から外科手術の縫合糸として使われてきました。そこで、絹で小口径の人工血管をつくったところ、血栓ができにくいという結果が得られたのです。

絹が生体組織に置き換わる「リモデリング」
朝倉氏の研究グループは、絹を編んでつくった直径1.5ミリの人工血管を27頭のラットに移植し、フッ素樹脂製の人工血管の場合と比較した。フッ素樹脂製の人工血管では短期間で血栓ができたのに対し、絹の人工血管は85%のラットで1年後も詰まらず機能した。さらに、興味深い現象が起こっていたのだ。ラットの体内で、絹が生体組織に置き換わり、血管が再生される「リモデリング」が起きていました。血管の主な成分はコラーゲンです。

絹が分解して、その代わりにコラーゲンに置き換わり、血管が再生されたのです。この実験では繭から直接取った非常に細い糸を使いました。それで絹の分解性が高くなり、リモデリングが起きたのだと考えられます。1年で約7割の絹が分解して生体組織に置き換わっていました。これまで人工血管の開発においては、生体内では基本的に「分解しない」というのが要求される性質でした。分解してもろくなっては、瘤ができたり、血液が漏れたりするからです。しかし、生体組織に置き換わり、血管が再生されるのなら話は別です。一定期間ごとに人工血管を取り換える必要もなくなります。私たちは従来の発想を転換し、分解性が高く生体組織にスムースに置き換わる人工血管の開発を目指しています。

 

 

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2015年01月15日

JAXA宇宙飛行士・油井亀美也 No2

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――自衛隊で学んだリーダーシップ、フォロワーシップのポイントを具体的に教えてください。
自衛隊には「指揮の要訣」というリーダーシップの鉄則があります。リーダーとしての重要なポイントは、まず部下をしっかりと掌握しておくことです。そのうえで状況を把握し、部下に対して明確な目標を示すことが必要です。掌握にも関係しますが、部下の能力を見て、どうすれば仕事がやりやすくなるかを考えることが求められるのです。また、「幕僚の心得」のようなフォロアーシップの鉄則もあります。結局のところ、指揮官が出す指示を理解するには、指揮官が何を考えているかわかっていなければなりません。

そのためには、みずからが指揮官になったつもりで考えることが求められます。リーダーの立場に立って状況を分析し、自分なりの行動方針を探したうえで、その案をリーダーに提示するのです。つまり、フォロワーであってもリーダーと同じプロセスで考えることになり、それがリーダーシップを強化することにつながっているのです。ただし、あくまでも意思決定をするのはリーダーです。リーダーの決断と自分の考えが異なった場合は、すぐに自分の考えを捨て去り、リーダーの決定に従うのがフォロワーの極意ですね。

――自分の意見を通したいこともあると思いますが、引く「コツ」はあるのでしょうか。

昔から私は、自分の意見は必ずリーダーに伝えるようにしています。それでもリーダーが異なる考えを示すということは、それなりの理由があるはずです。そのときはリーダーの意見を尊重しようと思ってやってきました。理由に納得できない場合はもう少し議論を重ねるかもしれませんが、基本的にはリーダーの意見に従うのが前提です。フォロワーは、自分の意見が通らなかったことを引きずってはいけません。リーダーが決定した意見を吟味し、その欠点を探すべきです。

ただし、決してあら探しをすることが目的ではありません。少しでも欠点を補い、リーダーの考えをより良くするために自分ができることを考え、先回りして動くのが理想的なフォロワーだと思うからです。自衛隊では、リーダーに意見具申をするときにはルールがあります。それは、自分の意見の利点と欠点をオープンにすることです。さらに、欠点を欠点として投げ出してしまうのではなく、欠点を補うための方策まで言うべきだとされています。

テスト・パイロットと宇宙飛行士は似ている
――ここからは宇宙に関するお話を聞かせてください。若田光一さんに続いて国際宇宙ステーションに行くことが決まったときの、油井さんの率直な気持ちをお聞かせください。

私は、小さいころからずっと宇宙を目指してきましたし、宇宙飛行士の候補者に選ばれてからは宇宙飛行のための訓練を受けてきたので、やっと来たかという気持ちでした。ただ、楽しみなことが大部分を占める一方で、まったく知らない世界で自分がしっかりと仕事ができるのか、という不安も少なくないのが本音です。テスト・パイロットの仕事と宇宙飛行士の仕事はよく似ています。テスト・パイロットは、試作機ができたときに、その試作機が安全に飛べるか、計器
類の正しく表示されているか、どのように操作すれば間違いを犯さないかなどを、一つひとつ確かめていく仕事です。その結果として、手順書も作らなければなりません。普通のパイロットは、テスト・パイロットがチェックしたうえで作成した、「この手順通りやってください」という指示書を信じて、その通りに運用することになります。そのため、テスト・パイロットの責任は重大です。

宇宙に当てはめて考えると、私が滞在する「きぼう」は試作機のようなものだと思います。宇宙に浮かぶ「きぼう」を運用するにあたり、本当に安全か、どのように運用すればいいか、使ってみておかしなところがないかを確認します。必要あれば改良し、手順書を書き直すというのは、テスト・パイロットとまったく同じ仕事なのです。「きぼう」は完成したと言われていますが、細かいところは改良や修正を重ねているところです。

たとえば、ロボット・アームの操作をする時に見る画面がありますが、表示される部分を少しずつ修正しています。その修正は、実際に計器に触れる宇宙飛行士の要請に基づいて行われます。仕事のやり方がテスト・パイロットと似ているのは、映画『ライトスタッフ』でも描かれたように、アメリカの宇宙開発がテスト・パイロットから始まっていることが理由の一つなのかもしれません。

――宇宙飛行士に指名されたことで、チームワークやリーダーシップを発揮するための準備もされているのでしょうか。
私はコマンダー(船長)ではありませんが、リーダーの役割を果たさなければならない局面は必ずやってきます。特に「きぼう」の運用に関わるところは、他国の宇宙飛行士たちよりも詳しいので、コマンダーも私に任せてくれるでしょう。その時は、私がしっかりとリーダーシップを発揮したいと考えています。冒頭でお話ししたように、リーダーが何を考えているかわからないと、フォロワーもうまくサポートすることができません。だからこそ、機会があるごとにコマンダーと話をするようにしています。

コマンダーの考えを把握しながら準備することで、宇宙に飛んだ時に、より良い仕事ができるはずだと考えています。

 

 

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2015年01月14日

JAXA宇宙飛行士・油井亀美也 No1

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自衛隊で叩き込まれたチームワークの真髄 理想のリーダーは理想のフォロワーである
http://www.dhbr.net/articles/-/2897

自衛隊出身者初の宇宙飛行士として、大きな話題を呼ぶ油井亀美也氏。自衛隊のテスト・パイロットとして活躍し、飛行隊長の道をほぼ約束されていた実力者である。究極のチームワークが求められる組織で学んだ、リーダーシップとフォロワーシップの真髄とは。自衛隊で叩き込まれたチームワークの真髄

――『DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー』11月号特集「創造性 vs. 生産性」のなかで、若田光一さんが「チームワーク」の重要性を語っています。自衛隊で学んだチームワークが、宇宙航空研究開発機構(JAXA)に移ってからも役立っているのでしょうか。

油井 亀美也(ゆい・きみや)JAXA宇宙飛行士
1970年、長野県生まれ。1992年、防衛大学校理工学専攻卒業後、防衛庁(現防衛省)航空自衛隊入隊。2008年、防衛省航空幕僚監部に所属。2009年、宇宙航空研究開発機構(JAXA)より国際宇宙ステーション(ISS)に搭乗する日本人宇宙飛行士の候補者として選抜され、同年、JAXA入社。2011年にISS搭乗宇宙飛行士として認定され、2012年10月、ISS第44次/第45次長期滞在クルーのフライトエンジニアに任命された。

油井亀美也(以下略)自衛隊という組織は、リーダーシップとフォロワーシップに基づいて行動することが厳格に求められます。ある局面ではリーダーを担い、ある局面ではフォロワーとして行動しなければいけません。役割が目まぐるしく変わる経験をさせてもらったので、本当に勉強になりました。自衛隊のなかには「リーダーとは何か」を専門で学ぶ本格的な学校もあります。目黒にある幹部学校で約2ヵ月間、どうやって人を指揮するべきか、どのように人をフォローすべきかという授業を受けるんですよ。その後数年の勤務の後に試験があり、合格すればさらに1年間、リーダーシップについて学ぶ機会が与えられます。

最初の2ヵ月間のコースは全員受講できますが、1年間のコースは試験に合格し、選抜されなければ入れません。つまり、リーダーシップを学ぶに値する適性があるかどうか、筆記試験と面接でふるいにかけられるのです。学校に入ってからもリーダーとしての素養は常に厳格に評価され、その後、隊内でどのような道に進んでいくかが決まってきます。

――その学校での経験のなかで、特に印象深い思い出はありますか。
入学した者は、1年かけて一つのテーマに絞って研究に取り組みます。私は心理を研究することにしました。戦場や災害派遣など、自衛隊が仕事をする環境は非常に苛酷です。そうした状況のなか、人はどういう間違いを犯しやすいのか、どうすればリーダーとして、あるいはフォロワーとして適切な仕事ができるかを学びたかったからです。その研究は思いのほか評価され、代表として発表する機会までいただきました。ここまでの教育は、自衛隊だからこそできることだと思います。

各部署の中核にある多忙な人材を1年間もみっちり、一堂に集めて教育をすることなど、一般企業ではなかなかできることではありません。裏を返せば、リーダーとしてチームを指揮すること、フォロワーとしてチームをサポートすることをそれほどまでに重視している組織だと言えると思います。

リーダー候補は明確に順位づけされている自衛隊に受け継がれる「指揮の要諦」とは
前回、飛行隊長になれることがほぼ決まっていると言いましたが、自衛隊では誰が次にリーダーになるのか、その順序が明確に決まっています。戦場という極限の状況を想定しているので、リーダーが指揮を執れなくなったら次、その人もダメだったらその次と、リーダー不在で組織が混乱しないようにできているんです。私が「宇宙飛行士になるために自衛隊を辞める」と上司に告げた時も、それを感じました。

「飛行隊長の夢が叶うところまできたのに、本当にいいのか」と引き止められましたが、それでもいいと告げたら「そうか、それなら頑張りなさい」と、自分が思っていたよりもすんなり受け入れてくれました。それは能力を評価されていないということではなく、同じ水準で代わりを務められる人が常に控えている組織だからです。リーダー不在という最悪の状況には絶対に陥らない、完成された仕組みだと思います。だからこそ、上に立つ可能性がある人には、徹底的にリーダーシップとフォロワーシップが叩き込まれるのです。

 

 

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2015年01月13日

人間は150歳まで生きられる」 No4

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最高齢エベレスト登頂者が挑む“攻めの健康”
http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20150105/275812/?P=1

どん底の健康状態を克服してエベレストへ
実はこのトレーニングで大失敗したことがありました。心臓の手術を受けた2週間後にこのトレーニングをやったら、うっかり風邪をひいて熱が出て、心臓手術の前よりももっとひどくなってしまった。とうとう病院に担ぎ込まれて、全身麻酔で電気ショックをかけられて、ぎりぎりの手術をしたんです。 それがエベレストに向けて出発するちょうど1カ月くらい前でした。リハビリにはもう失敗できないし、ベースキャンプまで行くのに時間もない。だから「今までのヒマラヤに登る常識を全部変えてやってみよう」と、1カ月かけてゆっくりと体調を整えていきました。

普段通りの健康な80歳の体でエベレストに登るのはうんと楽だったんでしょうが、そういうわけではなかったんですね。70歳の時には狭心症発作を起こしていたし、75歳の時にはひどい不整脈を抱えていた。そして80歳の時には、やっと心臓が良くなりかけたと思ったら、直前にまた手術を受けることになった。 そのうえ76歳の時には大腿骨と骨盤を骨折しました。この時は、治っても車いすで生活できればいいだろうと言われて、さすがに再起不能だと思いました。

もうエベレストに登るなという思いや色々な迷いはあったけれど、結局は怪我を治して、ようやく本番という時に、半年前にヒマラヤへ入って虫歯がひどくなって、それが引き金になって心臓の不整脈が悪化した。手術して不整脈が良くなりかけてきたのに、さきほど説明した東京駅で風邪をひいて、また再起不能かという状況になってしまった。1月15日に手術をして、3月に出発でしたから。

つまりどんな挑戦でも、「そういうこれがなかったらいいのに」というどん底の状況に追い込まれながらやってきたわけです。僕自身は、こちらのほうが、意味があると思っています。

「いくつになっても諦めるな」
要するに、病気であっても、けがをしても、いくつになっても諦めるなということです。可能性はいくつも開けるんだ、と。みんな80歳を過ぎると、病気をしたりけがをしたりすると、すぐ「あ、俺はもうだめだ」って諦めるんです。僕だって再起不能だと言われる困難に直面したことは何度もあったけど、エベレストに登ろうという目標があったから頑張れた。国家でも企業でもそうなんですよね。夢や目標があるとチャレンジし続けます。人間だって同じでしょう。目標があれば、病気やけがも乗り越えられる。

やっぱり人間、一番大事なのはイマジネーションです。想像力というか、1つの創造性。自分はこうありたいと思うこと。 「エベレストの山頂に立ちたい、立ったらすごいだろうな」と強く思う。そうすると、その過程で何をしなきゃいけないかが見えてくるわけです。けがしたら治さなきゃいけないし、心臓がだめだったら手術してリハビリをする。あるいは、登り方を、今までと全然違う方法に変えてみるとか、それなりの工夫をする。

不可能を可能にする「3つの想像力」
つまり、あらゆるものの中に、3つの想像力があるわけです。イマジネーションとインスピレーション、それとイノベーション。健康法の中にも当然、今までなかった方法があるだろうし、病気を治す方法にしても、病院の先生がこうだという方法だけじゃない手段もいっぱいあるんです。 僕は今だって心臓の冠動脈の65%が詰まっているんです。専門医の先生は「手術しなきゃ心臓が詰まって死ぬから、絶対にエベレスト登頂は許可しない」と言っていました。

でも65%が詰まっているということは、35%が通っているんだから、それでいこうと考えたんですね。そのうえで、血液をさらさらにする薬を処方してもらいました。つまり、できる方法を探ればあるわけです。 僕の挑戦は、いろいろな人が喜んでくれているし、珍しがられてもいます。だからこれからも、挑戦を続けていきたいと思いますね。まずは85歳でヒマラヤをスキー滑降すること。これに向けて挑戦していきたいですね。

 

 

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2015年01月12日

人間は150歳まで生きられる」 No3

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最高齢エベレスト登頂者が挑む“攻めの健康”
http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20150105/275812/?P=1

90歳で4度目のエベレスト登頂に挑戦する
高齢化が進む日本にとって、100歳の「センチュリアン」が1つの節目になっていく。あと10年もすれば、60歳の還暦を2回祝う、120歳の「大還暦」がテーマになる時代が来ると思うんです。100歳になってもまだまだこれからだ、と。高齢者はみんなそう思わなきゃいけないし、そうなれば、今度は個人も社会も、どうしなきゃいけないかが分かってくる。つまり80歳というのは、人間がどんどん衰退する状態ではなく、100歳に向かってまだまだ挑戦していく年齢になる。

僕の当面の目標は、85歳でチョーユーというヒマラヤの8200m地点からスキー滑降をすることです。それを達成したら、次は90歳でエベレストに4度目のトライをしたい。僕の一番の欠点は心臓の不整脈なんです。スポーツをやっているうちは心臓が肥大して、これが高齢になると心臓が変形しちゃう。ただ、ノーベル賞を受賞した山中伸弥さんのiPS細胞とか、再生医療も随分進歩していますよね。心臓も今、実験中だそうです。

うまく技術を生かして、若返る心臓を作れる可能性が見えています。まだ、これから10年近くありますから、他力本願だけれど、再生医療の進化を期待しながら、90歳でエベレストに登頂できる可能性があるんじゃないかと思っています。
今もまだ休んでいますが、足にはそれぞれ1.4kgのウエイトを付けていますよ。今晩(取材時の2014年11月18日)は、これから小泉(純一郎)さんや豊田章一郎さん、御手洗(富士夫)さんを含めた財界人のパーティーが夜にあるんです。

いつも通り、これにも重りを付けて参加します。いつも、そうやってうろうろしているとみんなが寄ってきて、「今日は何キロ?」なんて聞かれたりして(笑)。

「63歳で余命3年と宣言された」
実は一旦、50代後半でもうリタイアだと思っていたんですね。仲間がみんな死んでいきましたから。植村直己や加藤保男、山田昇、長谷川恒男…。僕より若い、世界に誇る登山家や冒険家が、次から次へと死んでいった。 僕は運が良かっただけだとは思うけれど、よく今まで助かったものだと感じて、60歳にリタイアしようと考えていた。 でもね、リタイアした途端に、典型的な怠け者になったんです。飲み過ぎや食べ過ぎで運動不足になってしまった。

すると63歳くらいの時に、寝ていて、気持ち悪いなと思った途端、心臓が何かにつかまれるように痛くなったんです。狭心症の発作でした。本当に危ない状態になって、病院で検査を受けたら「余命3年どころか、明日だって危ない」と言われたくらいです。 狭心症の発作以外に糖尿病も患っていたし、血圧も高くて190ぐらい。人工透析も、もうすぐというぐらいで、本当に「余命3年」と宣言されてしまった。 それで、思い切って足に重りを付けて、背中にザックを背負うようになったんですね。

1年目はそれぞれ1kgずつ、2年目から3kgずつ、3年たって5kgずつ。最後には10kgずつ、合計で30kgを背負って歩くようになりました。こうしたらメタボが完全に治って、膝の半月板損傷や腰の痛みも全部治っちゃった。 エベレストに登ってみたいという目標を立てた時、僕は走れなかったんです。だから苦し紛れに足に重りを付けてゆっくり歩き始めた。 例えば新幹線で大阪に行く場合は、(東京の)北参道にある事務所から東京駅までの約9kmの道のりを、片足5kgずつ、背中に25kgの重りを背負って歩いて行きます。ちょうど富士山に登ったのと同じくらいの運動量で、やっとの思いでふらふらしながら新幹線によじ登る。それで、トイレでびっしょり汗をかいた洋服を全部着替えていくんです。

 

 

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2015年01月11日

人間は150歳まで生きられる」 No2

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最高齢エベレスト登頂者が挑む“攻めの健康”
http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20150105/275812/?P=1

応援してくれたのは経営者だけではありません。エベレストをスキー滑降した時には、石原慎太郎さんに頼んで、石原プロを総動員して映像を撮ってもらいました。ちょうど、石原裕次郎さんが「黒部の太陽」や「富士山頂」を撮っていた頃です。このフィルムが英語版になって、1976年のパリの映画祭で長編記録映画のアカデミー賞をもらったんです。今でも僕の挑戦を応援してくれる企業は多いですね。一番の理解者であり応援者なのは、やはりサントリーの佐治さんの息子さん、信忠さんです。

ほかにも、東芝さんやトヨタグループの皆さんだとか、世界を舞台に活躍する日本企業の幹部の人たちは、みなさん応援してくれています。個人的にサポートしてくれる方も大勢いらっしゃる。非常にありがたい話ですし、挑戦者を応援する文化は日本に根付いていますね。

「え、氷河がまたこんなに溶けたの」
1969年から今までエベレストを行ったり来たりしていて、今、とても気になっているのがエネルギー問題です。中でも地球の温暖化には特に胸を痛めています。地球の温暖化が進み、海面の上昇が進行すれば、日本の土地がおよそ半分なくなるだろうというくらい、非常に危機的な状況を迎えているんです。モルディブだとかが、どんどん海底に沈んでしまう。今から防止しても間に合わないかもしれないけれども、これを止めなきゃいけないし、そのためにはクリーンエネルギーを進めていかないといけない。

僕はもう50年近くエベレストを見ていますが、登頂するたびに、温暖化の脅威を感じるんです。恐ろしいくらい氷河が後退していて。ヒマラヤの周辺には、インドも中国もあるでしょう。これらの国々はヒマラヤの水で生活をしているわけです。それなのに、氷河の水がどんどん少なくなっているんですね。僕はちょうど5年おきぐらいにエベレストに行っていますから、登るたびに「え、またこんなに溶けたの」と感じるんです。この氷河の崩壊が、いずれアジアやインド大陸の水資源の枯渇につながっていくかもしれない。

加えてアジアのいろいろな国が、ものすごい排気ガスをクルマや工場からばらまいています。ネパールでは、病院を訪れる患者の8割が呼吸器系の疾病だと聞きました。それでも病院に入れる人はいいんですけど、入れない人もたくさんいる。化石燃料に変わる新しい資源を生み出し、こうした問題を解決しないといけないんです。

「攻め」の健康があってもいい
環境問題のほかに、課題だと思っているのが、急速な高齢化社会です。日本はせっかく世界で一番の最先端高齢化社会になっているんだから、この高齢者たちにこれから、どうやって元気で活力を持って生きてもらうか。高齢者が増えても、寝たきりだったり、介護が必要だったり、あるいは栄養補給や酸素補給に頼ったりして生きている状態なら、単に寿命が延びただけでしょう。そうじゃなくて、もう一段アクティブな「健康寿命」が大事なんじゃないかな。

守りの健康がある一方で、攻めの健康があってもいい。守るだけじゃ、どんどん年を取って年齢に負けていきますから。年を取っても富士山に登ってみようだとか、マラソンを始めてみようだとか、何かアクティブに運動する、行動する。その点、僕の挑戦は同世代には分かりやすいと思います。僕自身も病気をしたり、けがをしたりして、それを抱えて動いているから。だけどみなさん、病気をしたり、けがをしたりすると諦めちゃうんですよね。「ああ、もう年だし、無理だ」って。けれど、高齢者だってまだまだ挑戦できるんです。

エベレストの山頂にたどり着くと、実年齢が20歳の登山家が、90歳くらいになったように感じると言われているんです。酸素は地上の3分の1くらいしかありませんから、どうしてもパフォーマンスが出ないんですね。20歳の若者が70歳加齢されるんだから、僕が80歳でエベレストに登ると、体感年齢は150歳くらいということでしょう。実際には20歳の登山家よりもっと歳を取っていますから、本当は200歳くらいなのかもしれない(笑)。 ということは、逆に言うと、人間は150歳くらいまで生きられるのかなと思うんです。

 

 

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2015年01月10日

人間は150歳まで生きられる」 No1

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最高齢エベレスト登頂者が挑む“攻めの健康”
http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20150105/275812/?P=1

戦後70年――。今年、私たち日本人は、また1つの節目を迎えます。 日経ビジネスオンラインでは、特別企画として戦後のリーダーたちが未来に託す「遺言」を連載していきます。焼け野原から輝ける時代を築いた当事者たちの言葉には、若い世代が持ち得ない強靭な視座があります。 第2回は、登山家の三浦雄一郎氏の「遺言」。80歳でエベレスト登頂に成功し、世界最高齢登頂者となった三浦氏は、次の目標を85歳でヒマラヤ8200m地点からのスキー滑降と掲げて挑戦を続けています。

攻め続ける登山家
三浦 雄一郎(みうら・ゆういちろう) プロスキーヤー、登山家。1970年、世界で初めてエベレストの8000m地点からスキーで滑降。第39代米大統領ジミー・カーター氏はこれに共感し、三浦氏のファンに。2003年に70歳、2008年に75歳、2013年に80歳でエベレストに登頂。自身の世界最高齢登頂者の記録を更新すべく、通販で買った片足1.4kgのトレーニングシューズで体を鍛える。1932年10月生まれ。(写真:千倉志野、以下同)

最近は、登山に挑戦したり、山岳部に属して山に挑んだりする絶対数が少なくなっています。確かに登山は、ある意味じゃあ非常に危険なきついスポーツですからね。そういう意味ではある種のチャレンジ精神が薄れている世代になりつつあるんじゃないかな。 ただ、そんな世の中でも山に挑む若い連中を見ていると、みんなテクニックや技術は素晴らしいよね。トップクラスの登山家は、今も昔と全然変わらないどころか、もっとすごい。

例えば、2013年に僕と一緒にエベレストに登った平出(和也)くんは、登山家の金メダルと言われるゴールデンピッケル賞をもらっていますし、冒険山岳カメラマンとしても一流。僕が必死にエベレストにしがみついているところを、自分の庭みたいに跳び回っている(笑)。そういう意味では、新しい世代が次々に生まれているんでしょうね。登山家だけじゃありません。国際的な評価を見ても、オリンピックのメダリストやノーベル賞の受賞者、国際的な学術関係のトップクラスの受賞者たちは、僕らの年代と比べてケタ違いに増えています。

僕らの時代はノーベル賞なんて、遠くて遠くて。日本人が一生取れるものじゃありませんでした。湯川秀樹さん以外、自分が生きているうちに取れる人はいないんじゃないかと思っていたら、みなさんどんどん受賞していますよね。もちろん、単にノーベル賞を取ればいいというものじゃないでしょう。けれど科学のほかに、スポーツでも世界のトップを争うようになってきている。うれしいですね。 僕のこれまでの挑戦を振り返っても、日本人というのは、戦後の日本の復活とともに成長してきたのではないかと思います。

「松下幸之助さんが興奮した」
僕が世界で初めて、エベレストのサウスコル8000m地点からスキー滑降したのは1970年のことです。当時の僕のやっていたことというのは少し変な表現だけれど、時代のニーズといいますかね、そういうものがあったように思います。ちょうど日本が世界にチャレンジして、どんどんトップに迫りつつあった時代でしたから。その頃、スポンサー探しでソニーの盛田(昭夫)さんや松下幸之助さん、本田宗一郎さん、サントリーの佐治(敬三)さんに会いました。みなさん、当時ちょうど世界に挑戦しようとしていた第一線の経営者たちです。

お会いしてみると、みなさん、それぞれに素晴らしい独特の個性と非常に強い好奇心を持ち、チャレンジ精神も旺盛でした。例えば松下幸之助さんというのは、非常にまじめで実直な印象をお持ちの方が多いでしょう。だけど一緒に食事をして、僕が世界で初めてエベレストをスキーで滑るんだと言ったら、松下幸之助さんは興奮して「いや、これはすごいですよ」と応援してくれた。 僕はゼロからスタートして、まったく未知の世界に飛び込んでいった。

そういうフロンティア精神やチャレンジ精神に共鳴してくださったのでしょう。本田さんにお会いしても、盛田さんにお会いしても、みなさん一緒でした。佐治さんなんかはそれこそ、「おもろい、やってみなはれ」という感じで(笑)、一も二もなく応援してくれました。全身全霊の挑戦なしには成し遂げられない命がけの目標。こういうものが、世界に挑戦して成功した起業家の人たちと同じだったのでしょう。人間、切羽詰まったり、命懸けになったりすると、いろいろな知恵が生まれますよね。それが製品にどんどん反映されて、日本企業は世界をリードできた。

 

 

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2015年01月09日

医者も人間です No1

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http://diamond.jp/articles/-/22940

筆者の尿管結石経験談から 予防法と痛みに襲われたときの対処法を考える 旭 伸一
[医学博士 日比谷公園クリニック院長]

縁石に座り込んでうめいた尿管結石の焼けるような痛み
医者も人間。今回は筆者が尿管結石になったときのストーリーを基に、その予防法と症状が出たときの対処法をお伝えしようと思います。あれは2011年の9月のことでした。仕事から自宅に帰ろうとしたときに、急に上腹部に違和感が走りました。「うっ」と息が詰まるような痛みに、何か悪いものでも食べたのかと思いましたが、その日、生ものを食べたわけでもありませんでした。 便秘のような気もしたのですが、それにしては痛みが強い。

職場を出て、エレベーターに乗って地上に出るころには、痛みはみぞおちから腹部全体に広がっていました。その痛みは、まるで誰かが太陽を腹の中に押し込んだのではないかというような、焼ける痛みになっていました。駅に向かって歩いていくのですが、痛みの強さと質から、これは尋常ではないと考え始めました。そのときは、すでに呼吸がほとんどできないくらいになり、意識もだんだんと遠のいてくるのが分かりました。 「いったい何だ、何なんだ」とつぶやきながら歩いていました。

しかし、もう歩けないと立ち止まり、駅前の銀行の縁石に座り込み、腹を抱えました。額から冷や汗がしたたり落ち、声にならないうめき声を出していたはずです。 「もしかして心筋梗塞ではないか
――」。一瞬、頭をよぎりました。朦朧とする意識のなかで、「確か、心筋梗塞の中でも右冠状動脈がやられて、下壁梗塞になると腹痛になる」と、もう1人の冷静な自分が、痛みに必死に耐える自分に話しかけてきました。そして、「右冠状動脈からは房室結節に動脈が出ているので、不整脈を起こしていたら、オレの人生はもう終わりだ」などと考えていました。

そこで、脈を自分でとってみることにしました。しかし、脈の乱れはないし、血圧が下がっているとも思えませんでした。とりあえず、すぐに死に至ることはないなと、と銀行の縁石に座りながら考えました。そうして、ようやく「これは尿管結石だろう」と考え始めました。以前に救急室でよくみかけていました。まさか自分がこのようなことになるとは思いもよりませんでした。

“お花畑”も見えた!? 2度目の発作
そのあとのことはよく覚えていません(笑)。30分くらい座りこみ、ようやく歩き出したのではないかと思います。電車に乗って、最寄り駅からは歩いて家に帰り着いたはずですが、銀行の縁石から家までは、まったく思い出すことができません。意識はそう簡単になくなるものではありませんが、この時ばかりは意識が低下していたと思います。まるでゾンビのように歩いていたのでしょうが、よく警察のお世話にならなかったものだと思いました。家に着くと、すぐに風呂に入り、寝たようです。

9月で残暑が厳しいころでしたが、筆者は節電に協力するためエアコンは使用せず、窓を開けて寝ていました。水分をしっかり摂ればよかったのですが、汗が出ると困るので、その日は極力、水分を摂るのを控えました。いま、思い返すと、あの日は尿が濃くなっていましたが、そういうものだろうと、気にしていませんでした。そして、一週間後、2度目の発作が起きました。今度は診察室で昼休みになって、食事に出ようとする直前でした。

「また来たか!」あの意識が遠のくほどの苦しみが襲ってくると思い、背筋が凍ったことを覚えています。ただ、救われたとも思いました。なぜなら、今度は院内に薬局があったからです。 「これぞ、役得だ」などと、
心のなかで思いつつ、ふらつきながら、薬局にたどり着きました。「ブスコパン」と「ボルタレン」。まるで呪文のように、その名前を頭のなかで繰り返していました。ようやく手にした薬を、落としたりして、なんとも無様な様子だったと思います。

 

 

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2015年01月08日

ニッポンの魅力は、「スシ」より「スイカ」! No2

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いわゆる、日本国内でしか通用しない“ガラパゴス商品”ではないのです。もちろん日本人なら誰でも、スイカやPASMO(パスモ)がどんなものかご存知だと思います。クレジットカードに似たプラスチックカードに、ソニーが開発したFeliCa(フェリカ)という平たいICチップが埋め込まれていて、“タッチアンドゴー”で運賃を精算してくれるツールですね。このテクノロジーは日々発展し続けており、今ではレストラン、タクシー、カラオケなどでスイカなどが使えるほか、ICチップを搭載した「おサイフケータイ」としての利用も増えています。

FeliCaのテクノロジーでライセンスビジネスをしている「フェリカネットワークス」という会社は、ソニー57%、NTTドコモ38%、そしてJR東日本5%の出資による合弁事業です。皆さんがスイカで自動改札機にタッチするとき、この3社に小額の手数料が入ります。これは素晴らしいビジネスモデルで、ソニーの大きな収入源にもなっています。

東京の通勤スタイルが電子マネー普及を加速
日本が、このテクノロジーを開発するもととなった1つの理由は、東京の通勤・通学の仕組みにあると思います。東京は1日何百万人もの通勤・通学者が行き交う経済の中心地であり、世界で最も、電車や地下鉄などの交通機関が発達しています。私が初めて日本に訪れたばかりの頃は、まだ改札にいる駅員さんがパンチを使って1枚1枚、切符に穴を開けていましたが、その進化ぶりには目を見張るものがあります。

90年代に入りオムロンなどが製造する自動改札機が導入されると、圧倒的なスピードで切符を処理できるこのテクノロジーに皆が魅了されました。世界がうらやむこのテクノロジーは瞬く間に、ニューヨークやサンフランシスコなどの大都市に導入されました。しかしこの自動改札機でも、1000万人を超える東京の人口に対しては力不足でした。またここだけの話、自動改札機によって不正乗車が増えたという話も聞きます。自動改札機をさらに発展させる必要があったのです。

さて、ここでソニーが表舞台に登場します。ソニーはまず非接触型ICカードを発明し、それを読み込む装置を他社が開発しました。この新しい装置を搭載した自動改札機は、従来の自動改札機よりもはるかに情報処理が速いだけでなく、乗車券を買う手間を省いてくれるため、利用者にとってもより便利になったというわけです。 そしてソニーがJR各社と提携し、この自動改札機がJRの駅に設置されたことにより、ラッシュアワー時の改札口付近の混雑緩和につながりました。

さらに、このテクノロジーの更なる可能性に着目したNTTドコモは、「おサイフケータイ」という、非接触型ICチップを利用した携帯電話を開発しました。

スイカも、最初は用途が限られた日本限定の“ガラパゴス商品”でした。しかし、パスモの登場によって地下鉄やバスでもこのテクノロジーが導入され始め、後にスイカとパスモの相互利用が可能になったことにより、交通機関においてこれらは重要なアイテムになりました。さらに、この読み取り機が改札やバスだけではなくコンビニなどでも導入され始めたため、買い物にスイカを使う機会が増えました。

一方で、セブン&アイホールディングスの「nanaco」のようなプリペイド型のカードも登場し、大都市で生活するうえでは電子マネーが便利、という共通認識が日本の消費者の間で生まれました。そして今この瞬間にも、Felicaが入ったカードを使われるたび、ソニー、JR各社など複数の会社に利益が入るようになっています。このビジネスモデルは瞬く間に応用され、電子マネーを利用したおサイフケータイなどが一気に広まりました。

 

 

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2015年01月07日

ニッポンの魅力は、「スシ」より「スイカ」! No1

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http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20140422/263292/?P=1

ウリケ・シェーデ 米UCサンディエゴ大学教授 日本型経済・経営および経営戦略論の権威。主な研究領域は、日本を 対象とした企業戦略、組織論、金融市場、政府との関係、企業再
編、起業論など。

ジャパン電子マネーはなぜこれほど洗練されているのか?
この連載では、シェーデ教授が研究活動や日常のディスカッションを通じて「面白い」と思った、日本のビジネスに関するトピックについて、海外の目線からご紹介します。 初めまして。カリフォルニア大学サンディエゴ校(UCSD)で日本型経営論を研究・教えているウリケ・シェーデ(Ulrike Schaede)です。ドイツ人で、ドイツの大学で日本学と経済学の博士
課程を修了しました。日本を初めて訪れたのは1982年で、 当時特に驚いたのは、日本の会社が、文書を手書きして、グローバルに競争をしていたことです。

手書きで機能する経済大国に魅了されて…
この“手書きで機能する経済大国”にすっかり魅了された私は、日本語を勉強しながら、日本をあちこち旅行しました。普通の日本人よりもよっぽどたくさん、日本の各地を旅行し、お寺やホテルを見て回ったと思います。一番好きな場所は富山県、九州地方(特に天草や日向)、そして東北地方です。以来私は、日本の研究をライフワークにしています。 日本がバブル経済の時期にあった87年頃、私は一橋大学の博士課程の学生でした。

合計8年間、研究員や教授として様々な研究機関で日本型経営の勉強をしました。日本語も流暢に話せます。92年に米カリフォルニア大学バークレー校、それからカリフォルニア大学サンディエゴ校という、日本の研究においては米国を代表する2つの大学で研究を続け、今は大学で日本型経営論を教えています。 専門分野は日本企業の企業戦略です。

お寿司が大好きですが・・・
お寿司は日本発のグローバルなヒット商品ですし、米国でもドイツをはじめとするヨーロッパの国々でもお寿司屋さんと回転寿司はとても人気があります。 私もお寿司は大好きですし、米国風の「カリ
フォルニア・ロール」よりも日本人が作る“本物の”お寿司のほうを好みます。お寿司は素晴らしい料理ですが、“日本の素晴らしさ=お寿司の素晴らしさ”というわけではありません。私にとっては今でも、“日本の素晴らしさ=日本のイノベーション”です。

日本のイノベーションがすごかったのは20世紀の話だ、と現在よく言われています。
私も、ソニーのウォークマンや、デジタルビデオカメラや、90年代に初めて買った東芝のノートパソコンには驚きました。しかし、日本のイノベーションは現在も進行中なのです。私たちは、日々進展し続ける日本のイノベーションの素晴らしさ、及びその秘められた可能性に気づいていないだけなのです。この連載では、世界を代表する日本の素晴らしいイノベーションを、外国人の観点からご紹介していきたいと思います。

最も印象的なイノベーションは、スイカです
日本の社会、ビジネス両方の観点から見て印象的なイノベーションの1つは、Suica(スイカ)です。スイカについてUCSDで丸々90分、講義をすることもあります。なぜかって? それはスイカは日本のテクノロジーと社会の特徴を反映しているからだけではなく、スイカをはじめとする電子マネーのビジネスにおいて、日本は世界のリーダーだからです。実は、日本が発明したこの電子マネーのテクノロジーは、95年の香港進出を皮切りに、シンガポール、インド、タイ、中国、ハワイなどへの輸出に成功しています。

 

 

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