2014年08月11日

海を渡るおじいさんのトラクター No3

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──すぐに売れたんですか。
幸田 いいえ。コンテナ船が神戸港を出港してから1カ月くらい経っても連絡がないんですよ。1カ月でエジプトには着いているはずなんです。「あの人は嘘をつく人ではない」と信じていました。でも、何回電話しても出てくれないんですよ。

──これは騙されたと。
幸田 ただ、自分の決断に後悔はありませんでした。輸出のやり方が分かったから無駄ではないと思っていました。そうしたら、しばらくして連絡が入ってきたんです。「幸田さん、全部売れちゃったから、また送ってくれ」と言うんですね。「いやいや、売れたのはいいんだけど、お金を送ってくれ」とお願いしました。そうしたら彼が「オーケー、オーケー」と(笑)

──結果的に売れてお金も入ってきましたけど、ずいぶん勇気がいる決断だったんじゃないですか。
幸田 自分たちで直接輸出できるようにならないと、いつまで経っても下請けの状態ですからね。また、それまでに自分で海外に行って農機具店を見てきた経験から、日本の中古農機具は海外で売れるという自信はあったんです。だからこそ彼に託してみた、というのはありましたね。

相手にしてもらえないので作戦を変更
──それを機に、商社を通さずに輸出をするようになったわけですね。どのようにして販路を開拓していったのですか。
幸田 最初はフィリピン、ベトナムなど東南アジアに行って農機具店を回り、自分で交渉するということをどんどんやりました。

──現地の農機具店は商社を通して輸入しているわけですよね。いきなり行っても「お前は何者だ」という感じではありませんか?
幸田 ええ、どこに行っても話を聞いてもらえませんでした。あまりにも相手にされないので、やり方を変えることにしました。いちからお客さんをつくった方がいいなと思ったんですよ。

──いちからお客さんをつくるとは。
幸田 例えば、中古車や中古バイクなどを日本から輸入している会社があります。そうした会社に、日本の農機具を扱ってみませんかと持ちかけてみました。すると、けっこう飛びつく会社があるんですよ。

──農機具店をターゲットにするのではなく、日本製品を輸入しているけど、まだ農機具を扱ってない会社に目をつけた。つまり、新しい商材を探している会社ですね。
幸田 そういうことです。そのやり方がうまくいって、お客さんをどんどん増やしていくことができました。今は約80カ国に輸出して、海外の約400社の会社がお客さんになっています。

 

 

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2014年08月10日

海を渡るおじいさんのトラクター No2

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中古農機具を売買する市場はなかった
──実家は鳥取の兼業農家だそうですね。やはり将来は農業関係の仕事をしようと思っていたんですか。
幸田伸一社長(以下、敬称略) いいえ、全然思っていませんでした。

──それがどうして農機具でビジネスをするようになったのですか。
幸田 高校を出てサラリーマンをしていました。最初がふとんの販売会社、次が産業廃棄物処理の会社です。産業廃棄物の収集や処理の仕事をする中で、農機具店に出入りするようになったんです。引き取った農機具が商社に売られ、海外に渡っていくのを見て、海外で日本の農機具のニーズがあることを知りました。 当時、中古の農機具を売買する市場が日本にはまだありませんでした。中古農機具の流通を扱う専門の会社もなかった。

でも、やがてそういう会社が現れるんだろうなという予感はありました。それなら自分でやってみようと思い、独立して中古農機具の売買を始めたんです。21歳のときでした。 資金は、手元にあった20万円です。そのお金で農機具店から農機具を買い取って、国内の商社に販売しました。それをどんどん繰り返して、販売台数を増やしていきました。

エジプト人留学生との出会い
──中古農機具を商社を通さずに直接海外に売るのは、幸田社長が初めてだったそうですね。きっかけを教えてください。
21歳で独立し中古農機具の輸出ビジネスを始めた幸田伸一社長。生まれ育った鳥取への愛着は大きい。「鳥取にいることのデメリットはまったく感じません」という。

幸田 独立して1年目の頃に、鳥取大に留学に来ていたエジプト人と出会ったのがきっかけです。その人は博士号を取ってエジプトに帰るところでした。帰国する前に私のところにやって来て、日本の農機具をエジプトに売って商売したいと言うんです。うちが店の前にトラクターをいっぱい並べて置いていたから、それを見てやって来たというわけです。 ただ、その人は、お金はエジプトで売れてから振り込むって言うんですよ。騙されるんじゃないかという心配はありました。

──それは不安になりますね。
幸田 でも、たとえお金が返ってこなくても、やってみる価値はあるなと思ったんです。輸出の手順の踏み方や通関の仕方とかが分かるじゃないですか。それまで、商社がどうやって輸出しているのかという知識はありましたけど、自分で実際にやってみないと身につきませんよね。だから、やってみようと。国内の商社に売れば500万円分ぐらいになる量でしたが、思い切って彼に売ってもらうことにしました。

 

 

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2014年08月09日

海を渡るおじいさんのトラクター No1

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日本の農機具は古くても世界で引っ張りだこ 2014.07.30
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/41287

鶴岡 弘之 ; 日本ビジネスプレス副編集長。東京大学文学部卒業。電機メーカー、コンピューターメーカーを経て日経BP社記者に。コンピューター雑誌、美術・デザイン雑誌、ビジネス系ウェブサイトなどの編集や運営、立ち上げに携わる。日本ビジネスプレスの設立に参画し、2008年4月より現職。著書に『一億人に伝えたい働き方 無駄と非効率のなかに宝物がある』(PHP新書)がある。

クールジャパン」の代表といえばマンガやアニメだが、その人気に負けず劣らず海外で引っ張りだこの日本製品がある。農機具だ。水田や畑で使われるトラクター、田植え機、コンバインといった機械である。

旺方トレーディングの本社。社員数は約50名。売上高(2013年度)は約10億円。その約6割が輸出の売り上げである。鳥取自動車道・鳥取南インターを降りてすぐ、田園が広がる地域の一角に、金型工場を改装した大きな倉庫が建っている。近づくと、倉庫の周りに古い農機具がずらりと並んでいるのが目に入る。どれも相当年季の入ったものばかりだ。多くは泥にまみれており、ボディーがへこんでいたりライトが割れていたりするトラクターもある。 

これらは解体されるのを待っているわけではない。ここでトラックに載せられ港に運ばれて、海外に輸出されていくのだ。

これだけ古いと引き取り手がいないのではないかと思ってしまうが、日本製の農機具は海外で人気が高く、ちょっとぐらいへこんでいようが錆びていようが各国の農機具店が喜んで買い取るのだという。本社の敷地にぎっしりと並ぶ中古農機具。輸出先は東南アジア、ロシア、ヨーロッパなど。約7割がヨーロッパ向けだという。 旺方トレーディング(鳥取市)は1995年の設立以来、毎年約20%増の勢いで売り上げを拡大してきた。

当初は日本の中古農機具を海外のみに販売していたが、リーマン・ショックを機に国内市場にも参入。現在は国内の農機具店や商社にも販路を広げている。 2008年に立ち上げた「農機具買取ドットコム」は日本最大級の中古農機具買い取りサイトとなっている。同社は買い取りから輸出、販売までをすべて自社で行う。中間マージンを抑えることで高値の買い取りを実現しており、農家からの問い合わせがあとを絶たない。

だが、ここに至るまでの道のりは決して平坦なものではなかった。幸田伸一社長はカネもコネもない状態で自ら海外に足を運び販路を切り開いていった。業界の慣習を打ち破るような思い切った挑戦もあった。幸田社長に、これまでの市場開拓の軌跡と事業にかける思いを聞いた。

 

 

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2014年08月08日

圧倒的に性能が違う! “航空業界のシビック”ホンダジェットで革命

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SankeiBiz 2012.11.21
http://www.sankeibiz.jp/business/news/121121/bsc1211210504006-n1.htm

ホンダが開発中の小型ジェット機「ホンダジェット」(HJ)の販売がカウントダウンに入った。 10月末に量産1号機の生産を始め、2013年には顧客に引き渡す予定。派生機種の開発も今後、検討する考えで、航空事業を営む子会社「ホンダ エアクラフト カンパニー」の藤野道格社長(52)は「航空業界に革命を起こしたい」と意気込む。 「圧倒的に性能が違う」。10月、米フロリダ州オーランドで開かれた世界最大のビジネス航空ショー。

ホンダジェットのブースを訪れた関係者らは舌を巻いた。 同クラスのライバル機に比べ速度は約15%速く室内は約20%広いが、燃費は約15%向上。しかも価格は他社とほぼ同じだ。ニューヨークで富裕層向けビジネスジェット販売を手掛けるレトラーさんは「業界の常識を変えた」と驚きを隠さない。ここまで性能が突出した一番の理由は、藤野社長が発案した特徴的なデザインだ。

機体後部の左右に取り付けていたエンジンを、主翼上部に載せるような形で取り付けたことで、高速飛行時の空気抵抗を抑え、燃費向上と速度増加の効果を生み出した。エンジンを機体から切り離すことで余分な構造が不要となり、室内も広がった。 藤野社長は9月、このデザインが評価され、業界で最も権威があるとされる米航空宇宙学会の「エアクラフト・デザイン・アワード」を日本人として初めて受賞した。

特許を取得したため他社は使えず、「10年は競争優位を保てる」と藤野社長。大型車が主流だった米自動車業界でかつて大ブームとなったホンダの小型車「シビック」に例え、「航空業界のシビックを目指す」という。 一方、これまで大きなシェアを誇ったライバル他社は、ホンダジェットの参入を警戒。米大手セスナ・エアクラフトやブラジルのエンブラエルは、長年の経験に基づく自社商品の信頼や実績でホンダジェットに対抗する構えだ。

だが「ホンダジェットと同じカテゴリーのライバル社は、既に値下げを余儀なくされている」(販売関係者)という。 藤野社長は「速くて燃費が良く、室内も広い。今までにないデザインを採用したことで別次元の製品となった。いま注文しても2〜3年待ちの状態だ」と説明。 年間販売が約300機の米ビジネスジェット市場で「80機程度をホンダジェットにしたい」と、一気呵成(かせい)のシェア奪取を狙っている。(オーランド 共同)

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ホンダジェット 米検査承認取得 量産開始へ前進 産経新聞 12月24日(火)
ホンダは23日、開発中の小型ジェット機「ホンダジェット」について、米航空機事業子会社が米国連邦航空局(FAA)から型式検査承認を取得したと発表した。  これにより、型式証明に向けた最終的な
飛行試験が実施できるようになり、今後1年間は、FAAのパイロットが搭乗する。2015年の量産開始に向けた準備が整うことになる。  ホンダは、06年に操縦士を含めた6人乗りの小型
ジェット機「ホンダジェット」の生産販売に乗り出すと発表し、同年から受注を開始。


現在まで計100機以上を受注している。 当初、10年中に1号機の引き渡しを計画していたが、FAAからの認可が下りず、計画が延期されていた。量産開始の2〜3年後をめどに年80〜100機の生産を目指すとしている。エンジンは、提携先の米ゼネラル・エレクトリック(GE)と共同開発する計画。

 

 

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2014年08月07日

危機で生まれ変わり、素直になれた   No4

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「クルマが好き」と素直に言える
2009年の就任以降、厳しい局面が続きました。トヨタの経営、そしてご自身の存在について見直しましたか。
豊田:「人命第1、地域の復興第2、生産は最後だ」。東日本大地震が起こったときに、思わず出た言葉です。 これこそがトヨタの人材育成ではないかと思うんです。人間というのは、今まで経験したものからしか言葉と行動が出てきません。危機に直面して出てくる言葉は、人材育成の結果です。マニュアルだけで教えられていたら、あのときにそういう言葉は出てこなかった。厳しい上司、本当のことを言う友人、そういう人たちに恵まれてきたからこそ出てきた言葉かなと。

生意気かもしれませんが、自分がそういう教育を受けたように、やっぱり次世代に向けて、そういう教育をしていくことこそが、世のため、トヨタの将来のためだと思っています。

「モリゾウ」としてレーサーの人格を演じています。あえて別のキャラクターを立てることにどのような意味があるのでしょうか。
豊田:もともと、豊田章男としてモータースポーツに参加することに批判のほうが多かった。批判イコール、会社に迷惑を掛けるわけです。ですから、そういうのをいわば隠す、逃げる意味でモリゾウができたような気がしますね。 実は、トヨタに入ってからはクルマ好きだと言うのは少し遠慮していたんです。「創業家だから」と言われるので、素直に言えない自分がいました。 米国の品質問題でいろいろなご心配をお掛けし、米国でトーク番組の「ラリー・キング・ショー」に出演したときのことです。

最後の質問で、「私はクルマが好きなんです」と答え、「I love cars」と訳されたのです。あそこで世論が変わったんです。ああ、このトップはクルマが好きなんだ。なら、きっといいクルマをつくってくれるんじゃないかな。そう思ってくれた瞬間です。米国の公聴会に向かう前「生きて帰ってこいよ」と皆に言われました。もしかしたら社長という職は失うかもしれない。それでも、生きて帰ってこいよ、と。その言葉を背に受けて、素直な自分に生まれ変わって、自然に言葉が出てきた。

素の自分で「クルマを好きだ」と言ってもいいんだと思いました。公聴会のときの自分は、私と同様にトヨタが好きな現場の人のために、トヨタを守る存在だったんです。 だから「もっといいクルマ」と言い続けていますが、そのために自分は感性を磨いているつもりです。それは自分がフィルターだからです。フィルターでクルマは作れないけど、フィルターが汚れているときれいな水は流れない。ですから、自分自身がもっといいクルマのフィルターになろうとすれば、いろいろなクルマに乗ったり人と話をしたりすることが必要なんです。

無人運転は目的ではない
クルマがよくなっている手応えはありますか。
豊田:それは僕が決める話じゃなくて、お客さんとか市場が決めることでしょう。ただ、私はフィルターとしては、最後まで褒めないようにしています。時々、「かっこいいね」とか言っちゃいますけど、それを言ったら止まっちゃいますからね。 あと、社内ではよく「好きか嫌いかだけははっきり言ってくれ」と言われます。「本当は嫌いだった」と、後でぐずぐず言わないで、嫌いだったら止めてください、と。その代わり、後の20年間責任を取ってくださいねと。それがフィルターなんです。

家は「マイホーム」と言います。愛家とは言いませんよね。「愛犬」も「愛妻」もありますが、「愛車」というように「愛」が付く工業製品はクルマ以外にはあまりないんですよ。 この意味はこだわった方がいいと思っているんです。モビリティが今後どう発展していっても、「愛」を付けてもらえる商品を作り続けることが大事です。そこが一番の目的であって、あとは結果じゃないですかね。 ですから、自動運転もやっぱり交通事故死をゼロにすることが究極の目的であって、自動車屋がやるからには無人運転をすることが目的ではないと思います。

無人運転とか、そういうことにこだわればこだわるほど、クルマはどんどんコモディティー化します。そうすると、単に移動手段になってしまい、「愛」が外れると思うんですよ。じゃあ、何が答えなのかはわかりません。それが分かったら苦しまないですよ。 正解はないけど、こだわりたいことはある。私が社長をやっているときに、その答えが出るかというと出ません、きっと。だから、ある引き出しは耕して、ある引き出しには種をまいておく。ある引き出しには収穫前のもあるという状態で次に渡す。

結局、イノベーションいうツールも、人がそれをどうマネージするのかに行き着くような気がしますね。悩んだ、失敗したことを次世代に受け継いで人材を育成する以外、企業が未来永劫、持続的成長をする方法はないんじゃないでしょうか。

 

 

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2014年08月06日

危機で生まれ変わり、素直になれた   No3

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トヨタをパーソナライズする
では、豊田社長の役割は何なのですか。

豊田:責任者です。中長期と言った瞬間に、いろいろ努力しても、結果が伴わないときはある。そのときに責任者がいないと、現代の方々には分かっていただけない。自分が責任者であるということははっきりしています。

リーマン・ショック前の急拡大で、それまでトヨタの強みだった現場がおかしくなったという認識はありますか。
豊田:それは歴史が評価するでしょう。ただ、人材育成のスピードをはるかに超えたスピードで規模が拡大したことだけは確かです。私は最近、「年輪」という表現を使います。持続的成長のために、商品と人材で年輪を1本ずつ刻んでいくのです。 それにはペース配分が大切です。トップが、普通の木を10年で屋久島の屋久島杉にしようと言って突き進むと、どこかで折れてしまう。それを私はやらない。私は太陽となり、土となります。それで、副社長が水をまき、多少色気のある本部長は肥やしをやる。そんなイメージです。

短期の目標を追い求めないという考え方を、果たして株主や市場が理解してくれるでしょうか。
豊田:資本主義にも原理資本主義的なものもあれば、国家資本主義と言われるものもある。私が理想とする姿に一番近いのは、公益資本主義です。以前からトヨタというのは「誰がステークホルダーか」と聞かれた時に、まず「お客様」「従業員」「地域社会」と答える会社でした。 もちろん、そこには株主も入ります。ビジネススクールでは「会社は株主のもの」と教えていますし、私もそう教えられました。

でも、ハーバード・ビジネス・スクールでも「コンシャス・カンパニー(意識の高い会社)」と言い出している。中長期的な目線を持っていない限り、結局は短期の結果も付いてこないということを、いろいろな人が気がつき始めたのではないでしょうか。 ですから、株主や金融機関の方たちに、「持続的成長」や「真の競争」といった、私が使っている言葉の意味を分かりやすく伝える努力を始めています。

最近では、中小企業の経営にも着目されていると聞きます。
豊田:中小企業にこそ立派な経営者が多いのではないでしょうか。トヨタもそうですが、大企業の組織にはいろいろな役者がいます。中小企業の経営者は1人で何役もこなしている。そうして、過去、現在、未来、すべての責任を背負い、「仕入れ先の影響です」とか「環境が悪かった」とか言い訳はしない。 大企業のトップの方が、すぐ金融市場がどうだとか、市場がどうだとか、自分がコントロールできない話をする。じゃあ、自分でコントロールできる世界に、どのぐらい能力と情熱をつぎ込んでいるのかと。その点では、中小企業の方々に学ぶべき点が多い。

トヨタも中小企業流に経営すると。
豊田:もともと私には、大企業のトップにいるという感覚がないんです。だから、トヨタという大企業をパーソナライズ、顔が見えるようにしたいのですね。例えばいろいろなイベントで、サプライズでトークショーに出たりするんですよ。自分のアンテナを、現場に近いところへ持っていって情報を取っているんだと思います。 決して、表に出るのが好きなわけではないです。だけど、ああやって車に乗ったり、レーサーやメカニックからも話を聞いたり、車好きの方々が集まっている場で自分の意見を言ったりしたときに、直接フィードバックをもらえるのはすごくいいことだと思います。

 

 

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2014年08月05日

危機で生まれ変わり、素直になれた   No2

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持続的成長のために、社長の仕事のやり方、役割も変えていかなくてはならないということでしょうか。
豊田:私の役割は、目線を中長期に置くことです。クォーターごとの数字に振り回されるのではなく、もっと長い目線です。 今、トヨタは77歳です。人間と違って企業は成長し続ければ未来永劫生きることができます。自分が社長を何年やるか分かりません。でも、次の次の次の社長に、会社をどういう状態で渡せるかを常に考えています。 その時、畑にはまだ耕す部分もあれば、種をまいたばかりの場所、収穫を間近にした場所、収穫がちょうど終わった場所もある。

そんなバランスのいい状態で渡したいんですね。目の前の結果ばかりを追い求めて刈り取ってばかりだと、荒れた畑しか残せなくなります。誰一人「過去最高」と言わない。結果として過去最高の業績を残している中、社員の意識を変えるのは難しくありませんか。

豊田:77歳のトヨタには77年分の成功体験と失敗体験があります。やっかいなのが成功体験で、世の中は変わったのに「前はこれで成功した」とか「何で変えるのか」と言い出した途端、成長は止まります。 だから、絶えず好奇心を持ち、アンテナを高くしておく。決断は3秒でいいんです。その3秒の決断が何年か後になって、「あれが耕したことになったんだ」となればいい。 幸いというのもおかしいですが、リーマン・ショックで1回どーんと落ちました。

そこで改めて、トヨタに期待されていること、やってはいけないことがはっきりした。これが分かっているうちに、今後の成長に向けた体質改善をやっていきたいんです。 そのためには、数値目標や結果を取り出して「ベストを出した」とか「ダントツだった」というのはダメなんです。目標は、到達したら終わってしまう。過去、そうやって引っ張った時代もありましたが、私は言いません。トヨタという会社はトップが正解を言ったら、現場がそれを効率的にやろうと一気に動いてしまう。それではだめなんです。

社内の意識が変わった手応えはありますか。
豊田:結果は私のときには出ないのかなとも思います。ただ、この間の決算発表で、誰も「過去最高」と言いませんでした。私が言うなと言ったわけじゃない。そういう言葉はなかったと発表後に気が付いたぐらいで、まったく意識なしにそうなっていた。その意味では、この4年間で意識は変わってきたんじゃないかなと。

数値目標がないと成長の方向性が外から見えないという声もあります。
豊田:「もっといいクルマをつくろうよ」としか言わない社長に対して、何を言っているか分からないとか、社内外でいろいろなことを言われました。 ですけど、結果はあくまでも結果です。目的は、もっといいクルマを通じて、お客様に笑顔をもらうことなんです。その理解が少しずつ進んでいるのかなとは思います。結果が出るのはまだまだ先になるでしょうが。 そもそも私の中には、「こうすればいい」という明快な回答もなければ、含蓄もない。

でも、もっと多くの笑顔が欲しいとか、昨日より今日をよくしようよねという意志は強い。絶えずベター、ベター、ベターで会社が動かなければ、持続的成長はできません。 そう言い続けてきたことで、現場のリーダーたちが自分の頭で考え、悩み、いろいろな案を出してくれる。回答を言わないが故に、私なんかが考えるより優秀なアイデアが「リーダーズ」から多く出てくるし、それを活用する。トヨタの現場には「考える」というベースがある。

だから、そのスパイラルを増やした方が、これだけの規模の会社にはいいのです。 でも、目標がないと人間は動けないのも事実です。例えば陸上選手がただ走らされるだけで、記録を知らされないとしたら、とてもやっていられません。だから、副社長や地域の責任者、各本部長が数値目標や具体的なことをいろいろ言っている。彼らが実質的な経営者であり、リーダーです。その集合体がトヨタなんです。

 

 

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2014年08月04日

危機で生まれ変わり、素直になれた   No1

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日経ビジネス     2014年6月30日    http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20140625/267523/?P=1

田村 俊一 日経ビジネス編集長 1989年日経BP社に入社。日経リゾートを経て1993年から日経ビジネス編集部。日経新聞経済部、日経ビジネス・ロンドン特派員、日経ビジネス副編集長、日経新聞産業部次長を経て2014年4月から現職。

豊田章男社長が語る自らの使命とは
過去最高益を更新し、リーマン・ショック後の大幅赤字や米国での品質問題といったどん底から「復活」したと見られているトヨタ自動車。 盤石だったはずの成長モデルが、実は限界に近づいていた。日経ビジネス6月30日号の特集「トヨタ 迫る
崖っぷち」。取材班は、愛知県豊田市のトヨタの本拠地や海外の最前線で、成長に向けて聖域なき変革に挑む現場に迫った。 トップの豊田章男社長はトヨタの現状をどう認識し、何を変えようとしているのか。乗り越えるべき「危機の正体」と「自らの使命」を打ち明けた。

豊田 章男(とよだ・あきお)氏
トヨタ自動車社長。1956年、愛知県生まれ。慶応義塾大学法学部を卒業し、米バブソン大学でMBA(経営学修士)取得後、84年4月トヨタ自動車入社。生産管理や国内営業部門、米生産子会社を経験する。2000年に取締役となり、その後常務役員、専務役員、副社長として中国・アジアや北米、国内営業などを担当。2009年より現職。創業者、豊田喜一郎氏の孫。豊田章一郎・名誉会長の長男。

2013年度は6期ぶりに過去最高益を更新し、グループ販売台数も初めて1000万台を突破するなど、企業として未踏の領域に入ってきています。一方で、トヨタ自動車の次の成長の姿が見えないという声が広がっています。トヨタは今、どこに向かっているのですか。

豊田:今のトヨタが戦っている舞台は陸上の世界選手権です。小学校の50メートル走なら、やり方次第で2秒、3秒とタイムがよくなるかもしれませんが、世界レベルの100メートル走はコンマ数秒の戦いになります。コンマ数パーセントの成長を積み上げていく競争のフェーズに入っているのです。 あと、同じ1000万台でも、トヨタがほかの自動車メーカーと違うのは、「レクサス」や「サイオン」というブランドは持っているものの、全部根っこは同じで積み上げてきたということです。

例えば独フォルクスワーゲンさんは、生い立ちの違う会社の集合体でもあるんですね。 人間も20代と40代、60歳を過ぎてからでは成長の仕方が違うように、トヨタも成長の仕方が違ってきています。だから社外の方に(成長スピードについて)いろいろ言われると、心の中では「1000万台の会社を経営してごらん」とついつい思うこともあります。

いつまでも息切れしない新しい「走り方」を模索しているということでしょうか。
豊田:この間の決算発表では「意思ある踊り場」という表現を使いました。私の説明不足もあって理解いただけなかったかもしれませんが、1000万台を超えても成長し続けるために、あえて立ち止まるという意味です。1000万台の規模を安定成長させるためには、仕事のやり方を変えなくてはなりません。それでも実際は、600万台ぐらいだった時代とあまり変わっていない。 昨年、組織を「第1トヨタ」、「第2トヨタ」、「レクサス」、「ユニットセンター」という4つのビジネスユニットに分けました。

それも、仕事のやり方を変えるための手段です。後に「ああ、これこそが持続的成長なんだな」と実感できるものを作ることが目的です。

 

 

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2014年08月03日

富士重、大躍進の秘密は発想法にあった  No4

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他社と同じでは真っ先に負ける
「当時の議論は今でも鮮明に話せるくらい印象に残っている。確からしさというのは、少し難しい言葉遣いだけど、考えて考えて導いた言葉でした」(吉永社長)それから歳月は過ぎ、森郁夫前社長時代にブランド・ステートメントを考えることになった。当時、技術本部長だった馬渕晃・現専務が、若手社員とともに、「スバルとは何か」という議論を4カ月ほど続けた。その結果、導いたのが「信頼」だった。 

社内の反応は、「時間をかけて議論したのに普通で面白くもなんともない華やかさもない言葉しか出ないのか」というものだった。しかし、吉永社長はこのとき確信を得た。 「完璧にこれで合っていると思いました。20年前の確からしさと同じ答えなんですから。パッとわかりやすいかどうかではなく、本質を突いているかどうかが大切。歴史に根ざしていない言葉には迫力がない。あとはトップが発信するだけ」 それからというもの、吉永社長はことあるごとに「安心と楽しさ」と語ってきた。

そのかいあって、いまでは富士重の社員の間で、このキャッチフレーズは驚くほど浸透している。幹部だけでなく、現場の若手社員も「安心と楽しさ」と口にする。新型車の開発現場でも営業現場でも、同じ方向を向いて仕事をしている。富士重を長く見てきた自動車アナリストの中西孝樹・ナカニシ自動車産業リサーチ代表は、「会社そのものが塊のようになって、目指す方向に向かっている。企業としての強さがある」と評する。 

「他社と同じことやって規模が勝敗を決する方向の戦いに出て行ったら、おそらく真っ先に負ける。言い過ぎかもしれないけど、弱い。そうじゃない戦い方をしないと存在できない」富士重が見つけた生き残りの道は、ライバルに劣る経営資源を、強みに集中投下することだった。会社が歩んできた歴史に裏打ちされたアイデンティティーを繰り返し議論することで、経営層だけでなく、社員たちの方向性までを1つにしようとしている。 

「弱点の克服から長所での勝負へと振り向けたことで、社内がすごく明るくなってきた」。吉永社長は頬をゆるめる。富士重が今後、さらなる躍進を遂げるのか、注目したい。

 

 

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2014年08月02日

富士重、大躍進の秘密は発想法にあった  No3

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一方で、富士重は高コスト体質だと指摘されることも少なくない。相当な原価低減を進め、筋肉質になってきてはいるものの、規模が小さいためコスト競争力で見劣りするのも事実だ。この欠点を吉永社長は、こう説明する。 「飛行機会社だから素材も良いモノを使いたがるし、設備も良いモノを入れたがる。だからコストが高い。それはそれで直していかないといけないけれど、欠点の議論をしていると、ここがトヨタさんに負けてる、ここも負けてるという繰り返しになって突破口が見つからなくなる。

そうすると、だんだん辛くなる。一度、欠点の議論はやめて、強みは何かという議論に集中することにしたんです」 では、飛行機会社をルーツに持つ富士重の強みはどこにあるのか。飛行機会社だからこそ、社内で定めている安全基準が非常に厳しい。安全基準が厳しいからこそ、クルマの基本性能である「走る」「曲がる」「止まる」を妥協なく作り込む。

強みは安全、安心と認識を新たに
富士重の社員たちは内心、「安全性能なら他社には絶対に負けない」と思っていた。だが、自分たちにとって当たり前すぎて強みだと認識できなかったのだ。 「僕らの強みは安全、ひいては安心なんだ」と認識した富士重。それならば、ぶつからないクルマだって作れるはずだといって出てきたのが、国内販売躍進の立役者、衝突回避システム「アイサイト」だった。アイサイトの実現技術は、飛行機の無人航行技術から派生したものだ。

安心こそが強みなのだから、それを実証しようと認証取得にも取り組んだ。例えば、米IIHS(道路安全保険協会)で安全性能の最高評価である「トップセーフティーピック」を全車種で取得した。さらに、9月27日には、IIHSが世界で初めて自動ブレーキの第三者評価結果を発表。「レガシィ」と「アウトバック」だけが最高の6ポイントを獲得した。 いまや北米では「SUVを買うならスバルを検討してから」と言われるほどになった。日本でも新車販売の約8割強にアイサイトを搭載する。

アイサイトの対応車種は上級グレードが多いことから、利益率を押し上げることにもつながった。 吉永社長が掲げる中期経営計画のキャッチフレーズは「Confidence in Motion」と「安心と楽しさ」。信頼、安心、
楽しさという、並べてみると自動車メーカーとしては、あまりに当たり前に聞こえるキャッチフレーズを選定した背景にも、スバルらしさを問う議論があった。 富士重は過去に複数回、スバルらしさとは何か、という議論をしている。

20年ほどまえには、有志の役員たちが集まって「ソフトミーティング」という会合を持っていた。若き吉永社長は、メンバーに入るような立場にはなかったが、議事録を毎回見ていた。 「デザインも褒められたものではないし、宣伝もうまくない。俺たちの会社はどうしようもない」というところから議論は始まった。だが、何回か議論を重ねていくうちに、「それでも富士重は潰れていない。なぜなんだろう」と論点が変わっていった。

当時の役員たちが導いた強みは、「確からしさ」だった。この議論から「SI理念」という言葉が生まれた。スバルのSとアイデンティティーのIから取ったものだ。

 

 

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2014年08月01日

富士重、大躍進の秘密は発想法にあった  No2

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歴史に根ざした強みで勝負する
経営危機に瀕し現在のビジネスモデルを模索していたとき、どのような葛藤があったのか。吉永社長はこう語っている。 「世界の自動車会社の中でも規模が小さく、国内では販売台数が最も少ない。それでも潰れないで生き残ってきた理由は何か。そこには、お客様が認めているスバルの価値があるはず。経営資源が劣後しているなかで競争優位を築くためには、自社の歴史に根差した強みで勝負をかけないといけない」

富士重工業の吉永泰之社長。明るく朗らかな人柄で、歯に衣着せず語る姿勢が印象に残る。決めるときは決める、決断する経営者だと評する声も多い。 他社と何が違うのか。何が顧客に受け入れられてきたのか。これを知るためには先人に学ぶしかないと、吉永社長は社史などの資料を読みあさったという。 吉永社長は大赤字を出した1990年ごろ、経営企画室にいた。当時も生き残る道を探すために必死で社史を読み、ヒントを探していた。

まだ課長クラスで経営に口出しする立場にはなかったというが、歴史の持つ意味を強く意識していた。社長就任が決まると、再び歴史に向き合い、自らの采配の方向性を導こうと試みたのだ。

「全部省いて、行き着いたのが、飛行機会社だった」
会社の歴史を理解し、考え抜いて至った結論は、「飛行機会社こそがルーツである」という事実だ。富士重の前身は中島飛行機だ。第二次世界大戦の敗戦後、GHQにより解体、分割され、富士重は誕生した。 富士重の原点は、同社が初めて販売した軽自動車「スバル360」と語られることが多い。だが、そうではない。富士重が誕生し、最初に開発した「P-1」というクルマは、小型車だったのだ。

欠点の議論はだんだん辛くなる
当時、金融機関に「いまの富士重に小型車を作る体力はないでしょう」と言われたことで発売を断念した同社は、その後、国民車構想に乗って軽自動車の発売にこぎつけた。 発売をあきらめた最初のクルマ「P-1」は、ボデーもエンジンも中島飛行機のエンジニアたちが開発した小型車だった。 「最初に造ったP-1を起点にすれば、全部つながって一発で理解できる。でも、軽自動車がスタートだと考えると、どうしてもギクシャクしちゃうんです」

吉永社長が飛行機会社こそがルーツだという背景には、こうした事実があったのだ。歴史を紐解き、ルーツをたどれば、欠点は強みに変わる。この発想の転換こそが、吉永社長の持ち味だろう。 飛行機でありP-1がルーツだと考えるからこそ、軽自動車の生産からの撤退も決断できた。風力発電や厨芥車などの事業も売却した。水平対向エンジンと四輪駆動にこだわるからこそ、コンパクトカーは手出ししないという、一連の選択と集中に迷いがない。

 

 

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