2014年03月02日

こんな人生の歩き方  No23

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業績の推移は順調で、埼玉県内でトップ5社に入る納税額の企業となる。
光雄氏は、80年代の日本ではすでに時計マーケットは成熟期に入った。今後消費者は海外ブランドや嗜好品の高価な時計に関心が移ると予測していた。また、当時のパソコンはいずれもっと楽に持ち運びができる携帯型に進化し、身近な機器として普及するという大胆な予測を持っていた。一方、メッキ工場が大量に流す廃液は、環境に与える負荷が大きいので、環境への対応を真剣に検討すべきだとの認識も持っていた。

ベトナム進出直前、無念の病に倒れる
光雄氏は、実はかなり前からある人物(以下A社長)にこのメッキ工場の社長を任せていた。とは言っても重要なポイントを含め会社の方向性などは光雄氏が決めていた。1990年光雄氏は新たにベトナムでの事業プランを固め、実行に移そうという直前に体調を崩した。最初は風邪と思われたが、結果は思いもよらぬ大腸癌であった。光雄氏には病名は知らされたが、進行状態など具体的には知らされていなかったようである。

いまとなっては、その時A社長が光雄氏の状態を社員にどの様に説明していたかははっきりしない。やがて光雄氏は治療の甲斐なく数か月後亡くなってしまう。麻美氏の継母(88年実母が逝去し、光雄氏は再婚)が役員に入ったが、実質的な経営への関与はなく、経営はA社長が継承することとなった。光雄氏は享年65歳、志半ばの無念の死であった。

(2)アメリカで宝石鑑定士の資格を取得。名門カルティエの社長から入社の誘いを受けるが、思わぬ運命に遭遇
幼稚園から高校までインターナショナル。大学卒業後FMラジオ局のディスクジョッキーに
麻美氏は光雄氏夫妻の一人娘として生まれ、家は港区六本木にあり、幼稚園から高校までをインターナショナルスクールで過ごした。両親は彼女に今しかできない好きな道を選ぶように勧めるモダンな雰囲気の家庭であった。「母は音楽好きでおっしゃれでした。また、社交的で私の学校のお友達のママやパパ達とパーティに行ったり、ディスコに行ったりする活動的な女性でした」しかし、その母は麻美氏が13歳の時病気になり、7年間の闘病生活の後、他界してしまう。「自分の病気の行く末を知った母は、亡くなるまでの間、私に必死で料理や家事の特訓をし、花嫁修業を懸命に教え込もうとしました」麻美氏は上智大学に進み卒業の時が来た。当時の新卒者にはマスコミや金融が人気で、バブルの絶頂期でもあった。麻美氏は大企業でのデスクワークには魅力を感じることができず、好きな音楽か宝石の道に進もうと考えた。結局、FMラジオ局のフリーランスのディスクジョッキー(パーソナリティ)として社会人の順調なスタートを切る。しかし、家庭面ですでに20歳で母を失った上、23歳で父親の死にも遭遇する運命となった。当時の麻美氏にとって、父の遺したメッキの会社はすでに社長であったA社長が経営を続いていくのが自然という受け止め方であった。すでに、数社のFM局の仕事を得ていた麻美氏には、自分の世界と父が遺したとはいえメッキ会社とは接点がないに等しい状態であった。自分が父の会社にかかわるということは思いも及ばなかったのである。麻美氏は義母と父が遺した東京の家で暮らしながら、FMラジオ局のディスクジョッキーを続けていく。

 

 

posted by タマラオ at 08:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記