2014年03月01日

こんな人生の歩き方  No22

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日本電鍍(でんと)工業株式会社 様 代表取締役 伊藤 麻美氏

http://takahashi-akiyo.jp/interview/nihondento_1.htm

日本電鍍工業株式会社 HP http://www.nihondento.com/profile/p-index.html
いま製造業の多くは不況の嵐のただ中にあり、長年経営をしてきた経営者の方々から、味わったことのないむずかしい舵取りに直面しているという声が届いている。麻美氏の日本電鍍工業もこの影響を大きく受けているが、麻美氏は「毎日元気で楽しく過ごしている」と笑顔で語っている。今回、麻美氏が社長に就任することになった経緯に入る前に、彼女の父で同社の創業者伊藤光雄氏(以下光雄氏)の創業から事業の成功、篤い起業家精神について先に紹介する。

麻美氏の厳しい再建の取り組みの根底に流れるものを理解する上で、亡き父上の人生は大きな影響を与え続けているからである。

(1)溢れる創業精神で成功をつかむが、志半ばで無念の病にたおれる
父(創業者)は脱サラし特殊なメッキ技術を開発して、セイコーなどからの指定工場を獲得し、成長の軌道に 日本電鍍(でんと)工業(株)は主に貴金属を対象とするメッキ製造業で
ある。麻美氏の父光雄氏は商社マンで、20代で役員になるなど将来を嘱望されたていた。しかし、商社を辞めて、1956年東京葛飾区で研究室と実験工場を開設し、欧米の技術水準を抜く高速度合金厚付けメッキ法を開発し、創業に踏み切った起業家であった。

1956年といえば、日本はまだ高度成長前のことである。その頃の日本では、誰もが腕時計をはめる時代ではなかったが、光雄氏は「日本でも必ずひとり一人自分の腕時計をはめる時代が来る」という先見性を持ち、開発したメッキ技術を売り込むため、すぐ行動に移した。やがて、光雄氏はこの技術をセイコーなど時計メーカーに売り込み、58年セイコーの指定工場の認定を受け、事業として成功をつかむ。

貴金属メッキでトップクラスに成長
セイコーへの売り込みの時のエピソードがある。「父は当時セイコーの社長が飛行機で出張する情報をつかみ、セイコーの社長の隣のシートにチケットをとって、自分が開発した新しいメッキ法の話をしたそうです。セイコーの社長が伊藤光雄という人間にチャンスを与えたいと思わせた何かがあったのでしょう」 セイコーに次いで、同じ58年矢継ぎ早にシチズンやオ
リエント時計の時計側の金メッキ加工の指定を受けるなど、同社の新メッキ技術は時計メーカーで揺るぎない評価を獲得する。

同社が持つ高度な技術を駆使して メッキ処理されたトランペット
事業の拡大にともなって、早くも59年には埼玉県川口市に本社工場を移転し、さらにそこも手狭となったため、72年に大宮(現在の所在地)に本社・新工場を設立した。光雄氏はこの頃からこのメッキ工場の経営を幹部に任せ、テレビのスイッチのメッキなど6社もの会社経営を同時に展開していた。やがて、80年代に入ると中国でえびの養殖や枝豆の栽培に挑戦するなど、アイディアを即実行に移すエネルギッシュな起業家精神のかたまりのような人であった。

しかし、中国のこれらの事業は時期尚早だったのであろう。成果が出ないことが判明するとすぐ撤退をする手腕も際っていた。新分野へ挑戦、PCの普及や進化を予測し、環境問題の重要性を説く先見性 80年代同社のメッキに使
用する金の量は日本でもトップクラスになる。光雄氏は時計など貴金属の分野だけでなく、新たに電子部品のマーケットへ参入していく。当時売上は約40億円に達し、社員180名ほどでそのうち技術者は約30名を擁する技術開発型企業として、その名を業界に知られるようになっていく。

 

 

posted by タマラオ at 06:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記