2014年03月11日

こんな人生の歩き方  No32

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この10年を振り返って「生かされているのです」
「最初経営のけの字も知らなかった私が、何とか社長としてやっていけるかもしれないと思った第一歩は、社員とのコミュニケーションのため始めた個人面接が1年間かけて終わった頃だった思います」麻美氏はこの1年間、面接を通して社員とのコミュニケーションをよくしようと、社員ひとり一人と30分、彼らの話にじっくり耳を傾けることから始めていった。社員といっても、親子ほども差がある年配の技術職から若い18歳まで、年齢には大きなバラツキがある。

そこで、まず社員ひとり一人の不満やわだかまりをすべて率直に話してもらうことに時間をかけようと考えた。この麻美氏の狙いは少しずつ効果を現していった。中には30分の予定が2時間ちかくになる人もいて、中には個人の家庭の悩みが混じることあった。麻美氏のこうした取り組みをみていた社員は、どうなるのかという感じであった。そのうち、古い社員は創業者の跡取り娘の真剣な姿に信頼を寄せようになり、麻美氏と共に汗を流していこうと前向きな気持ちを持つようになっていたと思われる。

麻美氏と社員との面談は、この時以来ずっと毎年行われている。同社でのこの積み重ねは、麻美氏と全社員との信頼を築くことに大きな効果をあげ、風とおしのよい組織風土を形成していった。そして「決めごとはボトムアップ型」は同社も大きな強みになっている。「社長とは偉い人ではなく、責任が重たい人。決断をしつづける人だと思います。私は社員をはじめ多く人から助けられた初心を忘れないで、やっていきます。

分からないことは、どんなささいなことも、遠慮せず教えてもらう。加工現場のことは社員たちに、資金や税などは税理士に、財務では外の金融マンの人からの助言をいただく。また同世代の経営者仲間との交流でも、いろいろ学ぶことができます。今までいろいろな方々から助けられてきたし、生かされてきました。今後もそうでしょう。そのことを深く感謝してやっていきます」

「高橋のひと言コメント」
ご存じの方もいるが、私は、いまは亡き父が大田区で戦前創業した町工場の出身である。麻美氏とは時代が異なり、父の工場は上の弟が継ぐみちすじがあった。また父は生涯現役として、大胆な最新設備で事業の拡大を続け、私が父の工場経営にかかわるように期待もされなかったし、自分からかかわろうと思うこともなかった。父の晩年、その経営が悪化した頃、父から私に相談があった。しかし、残念ながら非力な私は渦中の栗を拾うことはできなかった。

他にもいろいろ事情が重なって、60年近く続いた父の工場は倒産した。父は弟共々銀行に個人保証をしていたため、長年暮らした家を手放す境遇となった。若い麻美氏の話をうかがっていると、大きな負債を抱え、ダメ後継者と闘いながら、的確な決断し、ひたむきさと粘り強さで次々手をうち、クリアしていったパワフルな姿に圧倒される。私は麻美氏のインタビューの間、自分の生家のことや自分の選択を重ねていた。

厳しい会社の再建で10年間を過ごし、ようやく基盤を安定させた麻美氏の手腕はほんとうに頼もしい。まず、父上が志半ばで倒れた会社再生をした経営者であるお父様への、麻美氏の篤い敬愛の気持ちがバックボーンとなっている。
「麻美ならできるかも知れない。けれど3年間は地獄をみるだろう」という、暖かく、でも真摯なアドバイスをくれたひと。経理の公開やハードな金融機関、社会保険事務所との交渉などで支援をしてくれた税理士がいらっしゃった。

彼女に接した人たちは、彼女の父の遺志を継ぎ、何としても会社を再生したいという強い思いと覚悟。知らないことをどん欲に修得する意志と着実な行動力に接し、心を動かされ支援を惜しまなかったのであろう。その上、結婚しお子さんに恵まれて視野が広がり、会社では社員たちとよいコミュニケーションを築き、人間としての豊かさ、柔らかさを身につけた。

今後もものづくりの将来を見据えて、技術の伝承に情熱を燃やし、いきいきした麻美さんにはずっとものづくりの世界で活躍して欲しい。

 

 

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2014年03月10日

こんな人生の歩き方  No31

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社員の子どもたちが夢を諦めないために
今後同社は産業連携で、多品種少量を維持し、受注先のリスクの分散を図り、付加価値のあるものづくりを目指していく。そこで重要になるのが、他社が真似ができないものづくりと人づくりである。高品質のものづくりの追求とひとづくりという二つの車の両輪のバランスをどうとっていくか。麻美氏はここがものづくりの経営手腕を問われるところだと思っている。「夢を叶えるためにお金が必要です。その夢とは社員とその家族、子どもたちがこれから夢を諦めることがないようにしたい。これは私の願いでもあります」

(7)結婚・出産を機に、よりしなやかに、強く、やさしさを持つ経営者へ

結婚し子どもを持って、新たにみえて来た生きる意味
「いま夫である男性知り合ったのはアメリカ留学中の1999年です。当時は結婚に興味がありませんでした。しかし、多くの方に助けていただくにつれて、両親のおかげ、両親への感謝から親孝行したいという気持ちが強まりました。けれども、すでに親がいないので親孝行は無理でした。最大の親不幸はルーツを絶やすことを自分だけで決めてしまうこと。そう思うと子供が欲しくなり、以前から私に新しい家族を作ろうと思ってくれていた当時のボーイフレンド、今の夫と結婚しました」

1年後男児を誕生した。昼間子供は保育園に通園している。麻美氏はハードな社長業に育児家事が加わって、間違いなく忙しさが増す生活が始まった。「子どもを持って自分が変わったと思うのは、以前は完璧を期待することが多かったのですが、グレーの部分をある程度許容できるようになったことです。幼稚園から高校までインターナショナルスクールで、自己主張し、自らアピールすることの大切さを学びました。

自分が努力してポジショニングをつかむのは当然という教育方針です。加えて、母は私が13歳の時病気にかかって20歳の時亡くなりました。死期を覚悟し治療のかたわら、最後まで明るく積極的に生きる姿を、私にみせて逝ったのです。そういう母の姿や、いつも新しいことに挑戦する経営の厳しさとおもしろさを遺してくれた父の志を強く感じるようになりました。いまは、これまで私が体験してきたすべてのことは、意味があったと思っています。亡き両親に恥ずかしくないように生きていこうと思います。

自分中心で生きていけたアメリカ留学の30歳頃を境に、環境というより運命が大きく変化した結果、私自身が大きく変わりました。そして、約10年を経て経営者の責任を果たすためには、強くなくてはならないわけですが、同時に社員との間には柔らかい部分を許容できるようになり、彼らとの距離が短くなってきました」

 

 

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2014年03月09日

こんな人生の歩き方  No30

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(6)この時期だからこそ大卒新人を採用し、技術の伝承に注力
ISOの取得で最初は有志から。やがてその他の社員が入って来るボトムアップ型組織へ

「はじめて一か月分の賞与を出せたのは2007年の冬です。2008年は夏・冬出すことが出来ました。そして、2007年頃から第三者からの喝が必要だと思い、ISOの取得を考えましたが、当然ベテランの中には反対する人もいました。若手にヒアリングをすると、取りたいとかなり意欲的でしたので、取得することをトップダウンで決めスタートしました」2006年念願の財務の正常化もできて、やや社内は中だるみ状態であった。でもまだ、ボーナスは出せなかった。

麻美氏は、ISO取得はお金をかけず社員参加で取り組める目標だと考えた。同社の若手30代が中心になってISOの取得を1年かけて取り組むことになった。やがて、その動きは社内に徐々に広がっていった。その結果、2008年に計画通り取得することができた。

社員が祝ってくれた誕生パーティで、はじめて涙する
同社では毎月、社員の誕生パーティを開いている。そこで、麻美氏はポケットマネーでチョコレートかワインをプレゼントすることにしている。また、敷地内に社員は自分のポケットマネーで野菜や花を植えて、きれいな工場にしようと取り組んでいる。ある時、社員が麻美氏には内緒に、彼女の誕生パーティを企画した。外から会社に戻った麻美氏は、この思いもかけぬサプライズパーティに感激し、社員の前ではじめて涙をみせた時であった。

社員がポケットマネーで、野菜も育てている。
技術の伝承は、現場で一から取り組む時間がかかるテーマ ものづくりの世界では、業界や製品の用途に応じてさまざまなメッキ加工の方法がある。その中で同社の強みは自働機に頼らず、手作業が必要とされる分野である。つまり、厳しい品質や細かい仕様をクリアする、手のかかる加工を得意としている。この強みを社内できちんと伝承させるには、職場で先輩が若い社員に一から手とり足とり教えていくことが欠かせず、かなりの時間がかかる。

お客さまからの新しい引き合いがあった場合、社内に長年かかって蓄積された自社に固有の技術やノウハウがベースにあるから、そこに研究と工夫を重ねることで、経験のないむずかしい要求をクリアできるのである。しかし、社内は70代の技術の高い職人をはじめ、故光雄氏と共に仕事をした経験がある60代と50代が多くなっていた。光雄氏の病気以降、A社長は計画的な人事政策を持たず、新人採用を怠っていたこともある。また中堅世代はリストラされて抜けていた。

その結果、年齢構成は50代から40代が細くなっていて、以降は30代から20代、10代の3名となっている。創業50周年を迎え、次の50周年目指して、まず人の採用と育成を決断 2008年は麻美氏の父光雄氏が同社を創業
して50年目の節目の時期を迎えた。そこで、麻美氏は09年4月入社の高卒と大卒4名と高校卒1名の計5名を採用し、若手社員の層を厚くすることにした。これから同社の50年に向かって、本格的にひとづくりの礎を築くことに着手したのである。

「採用では、やる気・気あい・根性をもっていて当社に入りたいと思ってくれる学生を採用しました。その結果、たまたま今年入社した学生は文系4名、理系1名いう構成になってしまいました。なんでこんな不況の時に、と言われるかもしれません。しかし、仕事が忙しくなると、うちのような会社では、特に大卒新人の採用は思うようにいきません。こういう時期こそ、若い人を採用してしっかり技術の伝承に取り組もうと考えたのです。さいわい、70代60代の大先輩がこのことをとても喜んでくれ、真剣にその期待に応えたいと言ってくれています」

同社はいまパートを含め約70名の社員を抱えている。上述したように、4月から大卒4名に高卒1名が入社してきた。さらに、フィリピンから2人、スリランカと中国から各1人が働いている。「厳しい再建の時代を経験してきた社員たちは、いわば底の時の厳しさを身をもって知っています。従って、いまの不況でも、私たちはやるべきことを、着実にやっていこうと思っているのです」

 

 

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2014年03月08日

こんな人生の歩き方  No29

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金融機関や税務署、社会保険事務所など、資金繰りで厳しい日々が続く
しかし、複数の金融機関への返済は依然として続いていた。その上、A社長の会社に対する裁判もあり、麻美氏の闘いの日々はまだ続いていた。光雄氏時代のメイン銀行は、当時合併でなくなっていた。金融機関も大きな再編の波をかぶっていたのである。金融機関は同社の受取手形の割引に応じてくれず、麻美氏から逃げ回る状態であった。「父が亡くなった時、メイン銀行のある支店長が、今後必ず伊藤家を守ると言っていました。しかし、彼らは今大雨が降っているのに、傘を貸してくれないのです」

2003年黒字にはなったものの、資金ショートはまだ続いていた。税金や社会保険も滞納が続いていた。税理士と相談して、麻美氏は現状の業績を書類にして、税務署や社会保険事務所(当時)に説明に出向いて、もうしばらくの間納入の猶予を求めた。しかし、数ヶ月後社会保険事務所は銀行口座の差し押さえを通告してきた。麻美氏は滞納額の一部を先付け小切手で納付し、何とかクリアするという綱渡りを何度か体験した。

黒字から3年後ようやく財務の正常化を実現
「金融機関との関係では、政府系金融機関とは前からお取引はありました。黒字になったことから更に支援をして下さるようになりました。しかし、複数の民間金融機関の中では、わが社のランク付け評価が定まらず、なかなかメインバンクが決まらなかったのです」 ある異業種交流会に参加していた麻美氏は、そこである銀行のトップの方
と出会った。「それがご縁で、その後支店の方がわが社におみえになり、何度かの打合せを経て、ようやくその銀行への借り替えが実現し、メインバンクとなっていただくことになりました」

3年後2006年会社はようやく財務の正常化の段階を迎えることができた。麻美氏はこの時やっと「社員がすばらしく、ようやくここまで来ることができた」と喜びを噛みしめた。しかし、そのすばらしい社員に対して、まだボーナスを出せず、残業代も払える状態ではなかった。就任して1〜2年後の年末、麻美氏はせめて社員ひとり1万円のお年玉を払おうと、50万円の現金を用意した。けれども、社員はみな受け取れないという。「けれども、私の気持ちなので是非受け取って欲しい」と懸命に訴えた結果、ようやく社員が受け取るというシーンがあった。

「1つの資金繰りをクリアしても、また次の資金繰りがすぐやって来ることは分かっていました。そうすると、社員の前では笑顔で接しているつもりでも、内心では逃げ出したくなることがあったのです」社長就任の3年後の頃、いつものように次の資金繰りに直面していた。すると、ある年配の女性社員が傍に来て、小声で「そういう顔をしていてはダメよ」と。自分では気づかなかったが、資金繰りの重さに、さすがの麻美氏も暗い表情になることがあった。

この女性社員の言葉は、社長である自分への励ましなのだ。そう受けとめた麻美氏は、また気持ちを新たにして進もうと思った。

 

 

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2014年03月07日

こんな人生の歩き方  No28

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未経験の引き合いも、蓄積された技術とノウハウをベースにクリア
その結果、他社では数年かかってもクリアできなかったこのメッキ加工を、同社は数ヶ月で実現した。麻美氏は、この会社にはいまは亡き父の技術への篤い情熱が引き継がれていることを確信した瞬間であった。「この技術をさらに磨き、努力を重ね続けていけば、必ずわが社の道は拓ける」と。同社にはプラズマ溶射という技術を使った大型産業機械の部品であるタービンを表面処理する利益率の高い部門があった。

ところが、この部門の責任者は麻美氏が社長就任直前に、会社の将来に見切りをつけて、数名の技術者を引き連れて独立してしまっていた。しかし、引き続きお得意先から注文が入って来る。麻美氏は困ったことになったと思っていると、さいわい当時社内の60代の技術者が、この技術に詳しい知人の技術者を社内に招いて、溶射について色々と教えてもらうことができました。

(5)3年で黒字を達成。その3年後財務改善が進み、金融機関を変えて安定化へ
経理公開、不採算部門の縮小で、債権整理回収機構とも縁が切れる 勉強をしていくうちに、タービンは装置産業の部品であるため、受注に波がある。この状態のまま引き続き受注を続けるのは無理、ということも分かった。また、従来得意と思っていた時計側メッキは、以前から時計は材料費が高く、利益率が低いことはわかっていたが、量産のため利益率が低さは目立たなかったのである。

しかし、麻美氏が経営に携わる頃は、受注量が減り、また国内では手間のかかる受注が多く、他の加工と比較して利益率の低さが目立っていた。

そこで、麻美氏は自社のキャパに見合った選択と集中をしようと考える。同社はもともと8割〜9割が時計関係で、プラズマ溶射部門だけが、時計以外の表面処理を扱っていた。当時は、電気めっき、イオンプレーティング、プラズマ溶射の3部門であったが、麻美氏が就任して1年〜2年で電気めっき、イオンプレーティングの2部門に絞ろうと思った。しかし、社長就任時人のリストラはしないと約束していた。そこで、麻美氏は溶射部門の人を電気メッキに配属させたいと伝えると、自ら退社していった。「溶射にいた人たちは、職人系の人たちでしたので、そういうプライドもあったのかと思います」

リストラをせず、配転で乗り切ろうとした麻美氏の方針だったが、結果は不採算部門の縮小となった。
実は、これらの出来事の前になるが、麻美氏は、就任して数ヶ月で、経理の公開に踏み切った。社員に対して、会社は大きな借金を抱えて苦しいという事実を客観的に数字で示すことにした。「社員はいっしょに厳しい局面を乗り越えるteam mateなの
で、隠しごとなどがないよい関係が信頼へとつながると思ったので、経理をオープンにしました」 その結果、社員たちは進んでコスト削減に目を向けるようになっていった。

溶射部門がなくなった結果、人件費比率も下がっていき、ようやく黒字化の灯りが見えてきた。「就任当初三年で黒字にならなければ辞める」と心中深く期していた麻美氏は、こうして念願の最初の目標をクリアした。

 

 

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2014年03月06日

こんな人生の歩き方  No27

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新規開拓に向かって、女性社員が未経験のホームページづくり
次に麻美氏は新規開拓の必要を感じ、顧客を増やすために、まずリストを作って、これと思う企業に片端から電話作戦を開始していった。展示会ではブースへの出展費用がないため、名刺を持って、出展している企業の人たちに配って歩き、会社の名前を浸透させる作戦を続けた。こうした努力の甲斐があって、少しずつ新しいネットワークが広がっていった。日本では1995年頃からインターネットの商業活用が始まっていた。

麻美氏はディスクジョッキー時代にネットを使った情報収集の経験があったので、営業ツールとして自社のホームページを作って情報発信をしたいと考えた。ホームページの制作会社に見積もりを依頼すると約100万円という。とても払えない。この話を聞いたある女性社員のご主人が「会社にパソコンが2台あり、ドメインもあるのだから、自分たちで作ればいい」と。「いずれHPを作ろうと思い、それ以前に私がドメイン取得していました。

パソコンは他の業務で使っていましたが、ホームページを自分達で作れるとは思っていませんでした」社員平均年齢は50代である。彼らの多くがいまさらパソコン操作を習うのは無理と逃げ出してしまう。けれど、ここで麻美氏は諦めない。それならと女性社員に声をかけると、意欲ある女性社員が何人か集まってきた。やがて、パソコンの初歩操作の習得から始まって、少しずつステップアップしていき、ホームページづくりにチャレンジすることになった。パソコン操作トレーニングやホームページ制作の取り組みは、仕事終了の午後5時30分から9時までを使ってのことであった。

お金はなくても、知恵でできることをやる
会社案内を制作するため、写真が得意な人は自分のカメラを持参して、会社の建物や機械設備を撮影し、他のメンバーはコピー(文章)に頭をひねった。こうしてようやく初歩的なホームページが完成した。この取り組みの中で、あるメーカーが高性能のコピー機をお試し期間キャンペーンで、貸し出ししているという情報が飛び込んできた。早速このコピー機を借りて、パソコンに取り込んだ会社案内を使い、カラー印刷800枚の会社案内を制作した。

しかし、このコピー機の購入はできない。そこで期間内に返却したのだ。お金はなかったが、女性社員たちはたくましさと知恵を発揮して、不可能と思われることをクリアしていくので、とても頼りになる存在であった。

医療機器メーカーからメッキ依頼が飛び込む
実はこのホームページづくりの成功体験は大きかった。ホームページをみたある医療機器メーカーが、カテーテルのガイドワイヤーのメッキをやって欲しいと引き合いを送ってきた。しかし、精密な仕様の上、高度の品質が要求されるメッキで、ほとんどの社員ができないと尻込みをした。麻美氏は「そんなはずはない」と思った。自らの学生時代バスケットの選手として試合に負けそうになった時、チーム全員で粘って逆転に持ち込んだことや、難関といわれたラジオのディスクジョッキーのオーデションをパスした成功経験から、「やる前からできないというのはよそう。仮に3年かかってもいい。何とかやってみよう。ひとり一人がどうしたらできるのか、何とか工夫して欲しい」と必死に訴えた。

 

 

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2014年03月05日

こんな人生の歩き方  No26

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(4)「あなたならできるかも知れない。でも3年間は地獄をみるだろう」
社長就任後、次々に決断をし、問題をクリアする毎日がスタート 「ともかく考えに考えました。そして自分が引き受けた結果、仮に会社が潰れた場合、命まで奪われるわけではない。反対に自分が引き受けなかった場合、やがて老いて死ぬとき、あの時自分はどうして引き受けなかったのかと後悔するのではないか。麻美氏は32歳で引き受けることを決断した。その結果、もし失敗しても、まだ人生をやり直すことは可能だと思ったのです」

麻美氏の決断を知った多くの人は、ほとんど賛成をしなかったという。しかし友人の父で経営者であった人だけが「麻美ならできるかもしれない。ただし、少なくても3年間は地獄をみるだろう」と。2000年3月A社長を解任同然で辞任してもらう。こうして、麻美氏は社長に就任した。麻美氏は社長就任のあいさつで「会社の業績悪化を景気のせいにしたくない。業績のよかったかつての経営を何としても甦らせたい。ぜひ皆さんの協力をお願いしたい」と訴えた。辞表を懐にしていた社員も撤回して、いっしょにやっていきたいと申し出るようになった。

全社員に朝のあいさつからはじめる
麻美氏は社員ひとり一人とのコミュニケーションをとることからはじめた。まず、朝のあいさつをはじめた。あいさつを返す社員もいたが、無視する社員もいた。けれども、ひるむことなく続けた。やがて、1週間もすると無視していた社員があいさつを返すように変わっていった。そして、一人ずつ社員と面接をして彼らの話を聞いていくと、A社長への不満や景気が悪いから仕方がないなど、次々に自信を失った後ろ向きの考えが出てくる。

麻美氏は彼らのこうした考えに接していると、自分自身も気が滅入ってきて、暗い気持ちになることもしばしばであった。それでも全社員と辛抱強く面接を続けていくうちに、彼らはそれまでため込んでいたネガティブな考えを少しずつ発散していった。そして自分が得意な分野で力を発揮できる場を見出していった。こうして、社員と麻美氏とのコミュニケーションがじょじょに形成されていった。

金融機関の不当な対応に辛い思いをする
金融機関に社長就任のあいさつに行くと「ほんとうの社長を連れて来てください」とか「あなたのプロフィールを提出してください」、「人脈リストを出して」と言う。「あなたが社長では....」と相手にできないというそぶりを露骨にする。麻美氏は多少覚悟をしていたものの、会ってみるとあまりの理不尽な対応に、席を立って帰ろうかと何度も思ったという。しかし、そういう不愉快な対応にめげず、会社の状態を説明して、金融機関からの新たな信用を得るために、何度も足を運んだ。

若い女性で、しかも赤字が続きの製造業の経営者の出現に、「金融機関の担当者は想定外であったのかもしれない。私に許し難い態度をとった人もいましたが、その都度今に見てろ!とポシティブなパワーが湧いてきたので、いまとなれば、彼らに反対に感謝しています」

 

 

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2014年03月04日

こんな人生の歩き方  No25

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父の亡き後の10年間で会社は赤字に転落
「父が生前時計業界への依存から抜け出して、新しい事業に活路を見出そうとしていた戦略は反故にされ、ダラダラと時計業界からの受注で、10年も赤字を続けていたのです。何十億円も資産があった会社は、10億円以上の借金を背負ってその返済に困り、この状態が続けば誰の目にも今月か来月には倒産するという厳然たる事実に、私は向き合うことになりました」父を慕っていた社員の何人かは、すでにリストラで辞めさせられていた。

当然社内は暗い雰囲気で、麻美氏自身もどうしていいのか、思い悩む日が始まった。やがて、麻美氏は会社の中に入ってより深い実情をつかみ、役員会の決定に参加し、発言するためには肩書きが必要であると考えた。最初は監査役に、さら役員にも就任した。しかし、この段階でもまだ麻美氏自身は、社長就任という渦中の栗を拾う覚悟には至っていなかった。A社長との対話はうまくいかず、このままでは会社の閉鎖か倒産だという段階になった。

社員から受けた恩を返し、何としても父の生きた証を守りたい
「最初はよそから優秀な経営者に来ていただき、何とか建て直しをしてもらおうと漠然と考えていました。しかし、こんなに悪化した内容の会社経営を引き受けてくれる人なんて、そうかんたんに見つけられるはずがないのです」「会議で会社に行くと、約50名の社員が仕事をしていました。やがて、次第に彼らの顔がみえるようになってきました。彼らにはひとり一人の人生がある。家族もいるし子どもがいる。会社を何とかしなければ、彼らは間違いなく路頭に迷うことになる」という暗澹たる情景が目に浮かんできた。

麻美氏は、改めていままでの31年間の自分の人生を振り返った。「両親が揃っていて、父の会社があって、社員が父のもとで懸命に働いてくれたお陰で、私は何不自由なく大学にまで行かせてもらえた。彼らに恩返しをするのは自分の使命だ」と強く実感する。そうはいっても、この時会社は多額の借り入れ金を抱え、銀行からは明日にも返済を迫られている状態であった。その資金の調達のため、麻美氏は周囲の知り合いの経営者に支援を得ようと、あちこち走り回ったが、手をさしのべる奇特な人は現れなかった。

「なぜ会社を経営する人が現れないのか理解できない中、日本の中小企業には個人保証制度があることを知りました。でも、資産の無い私が経営を引き継いだ結果、もしも会社が最悪の事態になったらどうすれば良いのか、という質問に対して、弁護士の先生は、自己破産という道があります、と。自己破産のことすら知らなかった私に具体的に説明して下さいました。その時、全てを失っても命は残るのだと思い、だったら、チャレンジしてみようと思い行動しました」

麻美氏は決算書の読み方さえよく分からなかったのだが、「何としても会社を潰したくない。父の生きた証を守りたい」と強い思いをいだくようになっていく。

 

 

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2014年03月03日

こんな人生の歩き方  No24

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ディスクジョキーをやめ、宝石鑑定士を目ざしアメリカ留学
やがて、麻美氏は好きで入った放送業界のディスジョッキーの世界であったが、以前ほど魅力を感じなくなっていった。アメリカのディスジョッキー界では、若さより経験やスキルを高く評価するスペシャリストとしてその地位が確立されている。一方、日本では若さが求められ、特に女性に対してはその傾向が強かった。例えば、仕事になれた麻美氏は企画を提案すると、いったんは上司の賛成を得られた。しかし、最終段階でスポンサーの意向により、企画が却下されるということがあった。若く仕事への意欲の高かった麻美氏は、何か割り切れない思いをした。

「好きで入った放送業界でしたが、今後もがむしゃらにやっていこうという熱意を持てなくなっていました。さいわい住む家もあって、経済的に恵まれた環境が残されていました。そこで、かつて興味のあった宝飾の世界で一からやってみたい」と決断し、アメリカ・カリフォルニア州のGIA(Gemological Institute of America)に留学した。幼稚園からインタナショナ
ルスクールにいたため、英語はお手のもの。留学先のクラスメートにアメリカ人と思われるほど、のびのびと勉強した。

1年間で宝石鑑定士と鑑別士の資格を取得し、アメリカで就職しようと考えていた。「両親が亡くなっていたこともあって、私を日本に引き留めるものはなく、とても自由だったのです」宝飾の世界ブランド・カルティエの社長から入社を誘われる
ある時、麻美氏は留学していた学校の主催したパーティがあり、クラスメート200人のうち参加できるのは推薦を受けた数人で、麻美氏はその一人に選ばれた。このパーティでカルティエの社長と出会う。

そして「名刺をいただき、当社で働くことに興味があったら、連絡をください」と声をかけられる。クラスメートはこの話を聞いて、みな「すごい」と興奮し、とても喜んでくれた。麻美氏自身も、アメリカでこんなに早く、思いもかけぬ運命の扉が開くかもしれないと心が躍った。しかし、この喜びは日本からの1本の電話で状況が一変する事態となった。

(3)「何としても会社を潰したくない。父の生きた証(あかし)を守りたい」という強い思い 父が遺した優良企業が、いまや倒産寸前に
電話は継母からであった。「会社が倒産しそうだ」と。99年7月急遽帰国してみると「父の死後翌年から、業績が下がっていたとは聞いていましたが、いま継母が住む家を売らなくてはならいかも知れないほど、事態は急を要する状況だったとは、まったく思いもよりませんでした」麻美氏は、成田空港から乗った車の中で、継母から「担保が...」「決算書が...」と聞かされる話の内容を「ほとんど理解できなかった」

「時差のせいもあったのですが、何より経営に関するこれらの言葉を耳にしたのははじめてでした。けれども、継母の緊張した話しぶりから、たいへんな状態であることを直感しました。そして税理士や弁護士にあって説明を受けると、それは想像を超える悪化した会社の実情でした」次第に分かってきたことは、父が元気で経営していた頃は無借金の優良企業であった会社は、父の死後A社長等の守りの経営で、じょじょに赤字に傾いていったこと。

A社長は蓄えられた会社の資産を食いつぶし、10年間赤字を垂れ流していたこと。継母にはそうした会社の経営実態をほとんど知らされず、継母は事実上無視されていたのであった。

 

 

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2014年03月02日

こんな人生の歩き方  No23

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業績の推移は順調で、埼玉県内でトップ5社に入る納税額の企業となる。
光雄氏は、80年代の日本ではすでに時計マーケットは成熟期に入った。今後消費者は海外ブランドや嗜好品の高価な時計に関心が移ると予測していた。また、当時のパソコンはいずれもっと楽に持ち運びができる携帯型に進化し、身近な機器として普及するという大胆な予測を持っていた。一方、メッキ工場が大量に流す廃液は、環境に与える負荷が大きいので、環境への対応を真剣に検討すべきだとの認識も持っていた。

ベトナム進出直前、無念の病に倒れる
光雄氏は、実はかなり前からある人物(以下A社長)にこのメッキ工場の社長を任せていた。とは言っても重要なポイントを含め会社の方向性などは光雄氏が決めていた。1990年光雄氏は新たにベトナムでの事業プランを固め、実行に移そうという直前に体調を崩した。最初は風邪と思われたが、結果は思いもよらぬ大腸癌であった。光雄氏には病名は知らされたが、進行状態など具体的には知らされていなかったようである。

いまとなっては、その時A社長が光雄氏の状態を社員にどの様に説明していたかははっきりしない。やがて光雄氏は治療の甲斐なく数か月後亡くなってしまう。麻美氏の継母(88年実母が逝去し、光雄氏は再婚)が役員に入ったが、実質的な経営への関与はなく、経営はA社長が継承することとなった。光雄氏は享年65歳、志半ばの無念の死であった。

(2)アメリカで宝石鑑定士の資格を取得。名門カルティエの社長から入社の誘いを受けるが、思わぬ運命に遭遇
幼稚園から高校までインターナショナル。大学卒業後FMラジオ局のディスクジョッキーに
麻美氏は光雄氏夫妻の一人娘として生まれ、家は港区六本木にあり、幼稚園から高校までをインターナショナルスクールで過ごした。両親は彼女に今しかできない好きな道を選ぶように勧めるモダンな雰囲気の家庭であった。「母は音楽好きでおっしゃれでした。また、社交的で私の学校のお友達のママやパパ達とパーティに行ったり、ディスコに行ったりする活動的な女性でした」しかし、その母は麻美氏が13歳の時病気になり、7年間の闘病生活の後、他界してしまう。「自分の病気の行く末を知った母は、亡くなるまでの間、私に必死で料理や家事の特訓をし、花嫁修業を懸命に教え込もうとしました」麻美氏は上智大学に進み卒業の時が来た。当時の新卒者にはマスコミや金融が人気で、バブルの絶頂期でもあった。麻美氏は大企業でのデスクワークには魅力を感じることができず、好きな音楽か宝石の道に進もうと考えた。結局、FMラジオ局のフリーランスのディスクジョッキー(パーソナリティ)として社会人の順調なスタートを切る。しかし、家庭面ですでに20歳で母を失った上、23歳で父親の死にも遭遇する運命となった。当時の麻美氏にとって、父の遺したメッキの会社はすでに社長であったA社長が経営を続いていくのが自然という受け止め方であった。すでに、数社のFM局の仕事を得ていた麻美氏には、自分の世界と父が遺したとはいえメッキ会社とは接点がないに等しい状態であった。自分が父の会社にかかわるということは思いも及ばなかったのである。麻美氏は義母と父が遺した東京の家で暮らしながら、FMラジオ局のディスクジョッキーを続けていく。

 

 

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2014年03月01日

こんな人生の歩き方  No22

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日本電鍍(でんと)工業株式会社 様 代表取締役 伊藤 麻美氏

http://takahashi-akiyo.jp/interview/nihondento_1.htm

日本電鍍工業株式会社 HP http://www.nihondento.com/profile/p-index.html
いま製造業の多くは不況の嵐のただ中にあり、長年経営をしてきた経営者の方々から、味わったことのないむずかしい舵取りに直面しているという声が届いている。麻美氏の日本電鍍工業もこの影響を大きく受けているが、麻美氏は「毎日元気で楽しく過ごしている」と笑顔で語っている。今回、麻美氏が社長に就任することになった経緯に入る前に、彼女の父で同社の創業者伊藤光雄氏(以下光雄氏)の創業から事業の成功、篤い起業家精神について先に紹介する。

麻美氏の厳しい再建の取り組みの根底に流れるものを理解する上で、亡き父上の人生は大きな影響を与え続けているからである。

(1)溢れる創業精神で成功をつかむが、志半ばで無念の病にたおれる
父(創業者)は脱サラし特殊なメッキ技術を開発して、セイコーなどからの指定工場を獲得し、成長の軌道に 日本電鍍(でんと)工業(株)は主に貴金属を対象とするメッキ製造業で
ある。麻美氏の父光雄氏は商社マンで、20代で役員になるなど将来を嘱望されたていた。しかし、商社を辞めて、1956年東京葛飾区で研究室と実験工場を開設し、欧米の技術水準を抜く高速度合金厚付けメッキ法を開発し、創業に踏み切った起業家であった。

1956年といえば、日本はまだ高度成長前のことである。その頃の日本では、誰もが腕時計をはめる時代ではなかったが、光雄氏は「日本でも必ずひとり一人自分の腕時計をはめる時代が来る」という先見性を持ち、開発したメッキ技術を売り込むため、すぐ行動に移した。やがて、光雄氏はこの技術をセイコーなど時計メーカーに売り込み、58年セイコーの指定工場の認定を受け、事業として成功をつかむ。

貴金属メッキでトップクラスに成長
セイコーへの売り込みの時のエピソードがある。「父は当時セイコーの社長が飛行機で出張する情報をつかみ、セイコーの社長の隣のシートにチケットをとって、自分が開発した新しいメッキ法の話をしたそうです。セイコーの社長が伊藤光雄という人間にチャンスを与えたいと思わせた何かがあったのでしょう」 セイコーに次いで、同じ58年矢継ぎ早にシチズンやオ
リエント時計の時計側の金メッキ加工の指定を受けるなど、同社の新メッキ技術は時計メーカーで揺るぎない評価を獲得する。

同社が持つ高度な技術を駆使して メッキ処理されたトランペット
事業の拡大にともなって、早くも59年には埼玉県川口市に本社工場を移転し、さらにそこも手狭となったため、72年に大宮(現在の所在地)に本社・新工場を設立した。光雄氏はこの頃からこのメッキ工場の経営を幹部に任せ、テレビのスイッチのメッキなど6社もの会社経営を同時に展開していた。やがて、80年代に入ると中国でえびの養殖や枝豆の栽培に挑戦するなど、アイディアを即実行に移すエネルギッシュな起業家精神のかたまりのような人であった。

しかし、中国のこれらの事業は時期尚早だったのであろう。成果が出ないことが判明するとすぐ撤退をする手腕も際っていた。新分野へ挑戦、PCの普及や進化を予測し、環境問題の重要性を説く先見性 80年代同社のメッキに使
用する金の量は日本でもトップクラスになる。光雄氏は時計など貴金属の分野だけでなく、新たに電子部品のマーケットへ参入していく。当時売上は約40億円に達し、社員180名ほどでそのうち技術者は約30名を擁する技術開発型企業として、その名を業界に知られるようになっていく。

 

 

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