2014年02月28日

こんな人生の歩き方  No21

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「甘え、努力不足」と罵られた氷河期世代 父親とは10年も絶縁状態に
両親は、同じ自治体に住んでいるものの、もう10年ほど連絡を取っていない。とくに父親とは事実上、絶縁状態だ。 「私の世代は、甘え、自己責任、努力不足と、肉親を含む周囲か
ら散々、言われ続けた世代です。大学を卒業して10年以上が経過してから、あの頃の就職率は50%台だと言われても、もう遅いんです。ただ単に仕事がなかっただけなのに、なぜ、あれほど人格否定をされなければならなかったのか?」Aさんの貯金は、まもなく底をつく。

家賃が払えなくなったときのために、いつでも荷物をまとめていて、ホームレスになる準備はしている。 「去年まで音信普通だった母から、屈辱的ですが、資金援助を受けまし
た。失業保険と合わせて、何とかやりくりしています」大学院では、考古学を専攻していた。考古学者を夢見ていた。しかし、業界全体を揺るがす捏造事件の余波を受け、考古学の現状に幻滅。まったく関係のない一般企業に就職した。

「最初の一歩で、きちんと社会人生活をおくれないと、二度と這い上がれない社会。要領のいい人が生き延びていく。うまくやったもの勝ちなんですよ」それでもAさんは、両親が自分を大学や大学院まで進学させてくれたことには感謝している。兄弟とも10年以上、会話をしていない。 「もはや血のつながった他人と化しています。つい最近も自殺を
選ぶ寸前まで追い詰められ、叔父との電話で命をつなぐことができました。しかし、死の危険から遠ざかっただけです」

さらなる雇用の悪化、自殺者の増加 “第二の敗戦”が近づいている
派遣として何度も職を転々としてきて、はっきりと理解できたことがあるとAさんは言う。 「他人の仕事をピンハネすることが当たり前になり、それを誰も疑問に思わな
くなっていることです。世の中全体が麻痺しているんです。派遣会社にしろ、旧社会保険庁にしろ、とっくに逮捕者を出していなければならない状態なのに、お上は動かない。自分達に火の粉が降りかかってくるのを知っているからです。こんな国が、本当に法治国家なんでしょうか?」

雇用保険もつかないまま、時給数百円の派遣として使い捨てられる実態を目の当たりにし、Aさんは、もう二度と派遣をやりたくないという。「現場監督と称して、1日中タバコと缶コーヒーを手に談笑している一次受けの社員を見ていると、馬鹿らしくて仕方ありません。末端の作業員が泥だらけで必死に働いているのをアゴで使う連中です。一度去った作業員は、待遇改善くらいでは戻ってはきません。信頼以前に信用の問題なんです。

国の借金が1000兆円を超え、雇用は改善するどころか非正規が増加する一方です。自殺者も実際には統計の倍はあるでしょう。この日本という国に、“第二の敗戦”が近づいていると考えています」Aさんがいまできることは、職業訓練所への入所を目指すことと、食料と日用品を備蓄しておくことくらいだという。 「アパート内だと大家さんに迷惑がかかってしまう
ので、どうしようもなくなったら、その死に場所に行くつもりです」

こうした家族と絶縁状態にある当事者は少なくない。行政のセーフティーネットの対象は、どうしても発信力、経済力のある親の立場に向きがちだが、これからは、孤立し、地域に埋もれていく当事者にも目を向けていく必要がある。

 

 

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2014年02月27日

こんな人生の歩き方  No20

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大学院卒ロスジェネ世代の絶望 DIAMOND 2014年1月23日
http://diamond.jp/articles/-/47541

池上正樹 [ジャーナリスト]
1962年生まれ。大学卒業後、通信社の勤務を経て、フリーに。雑誌やネットメディアなどで、主に「心」や「街」をテーマに執筆。1997年から日本の「ひきこもり」現象を追いかけ始める。東日本大震災後は、被災地に入り、震災と「ひきこもり」の関係を調査。最新刊は『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』(青志社)。他に『ドキュメントひきこもり〜「長期化」と「高年齢化」の実態〜』(宝島社新書)、『ふたたび、ここから〜東日本大震災、石巻の人たちの50日間〜』(ポプラ社)など。

かつてベッドタウンとして名を馳せた住宅地で孤立し、ロスジェネ世代を象徴するような思いを抱えたある男性の現状を、今回は紹介したい。高度経済成長期の頃、あこがれの住宅地とされていたある郊外の私鉄沿線駅のアパートに住む30歳代の男性Aさんは、半年ほど前まで派遣社員の職を転々としていた。しかし、いまは身体を壊し、失業保険でアパートの家賃を払いながら、求人に応募し続けている。

「正直、自分以外の人間との接触を避けるようにしています」郊外の住宅地でも、こうして仕事に就くことができないまま、やがて外に出る理由がなくなり、地域に埋もれて引きこもっていく人たちは少なくない。

「死に場所は決めてあります」ブラック企業に虐げられ続ける身体
「大阪で31歳の女性が餓死したニュースを見たとき、自分ごとのようにつらかったです。同時に、これからさらに増えるだろうなとも思いました。私も、死に場所は決めてあります」そう明かすAさんは、大学院を卒業後、一部上場企業に就職した。しかし、仕事の内容は新人のときからトラック運転手。しかも、1人で1日15時間近くもハンドルを持たされる状態が続き、数ヵ月で過労退職に追い込まれた。しばらく何もできない状態が続いた。復帰したのは、それからちょうど1年後のことだ。

この4年余りの間は、アルバイトと正規雇用を行ったり来たり、転々とした。 「とにかく、ハローワークの求人のいい加減さに頭にきています。2回にわたって採用されたのですが、手取りが15万円台だったり、正社員のはずが、実際には日雇いの土方だったり…。散々でした」身体を壊しては会社を辞め、また働きはじめても身体を壊して辞める…という繰り返しだった。 「呆れたのは、ハロー
ワークを通じて就職した会社が、退職後にいい加減な雇用保険の処理を行い、本来は1人に1つしかない保険番号が2つも存在していたことです。

ハローワークに紹介されて、やっと面接までたどり着けても、ブラック企業ばかり。安心して働けるような職場はありませんでした」 何もしないわけにはいかないので、求人先に応募を続け
た。しかし、農業の職を含めて何度も書類落ちと面接落ちを経験すると、自分ができること、やりたいこと、その何もかもがわからなくなる。地方の農家に行くのも、何往復もすると生活費を大きく圧迫する。何度も落ち続けて、農業に就くこともあきらめた。公共交通費の高さは、それぞれの地域で引きこもる人たちが行動を起こそうと思う際の大きな障壁となり、外出先の選択肢を狭める要因にもなっている。

働きたいのに地元に仕事はない引っ越したいのに収入がなくて叶わない
Aさんの住む街も、他のベッドタウン同様、高齢化が進んだ。主力企業の工場が相次いで撤退。雇用の場は、次々に消えていった。アパートの周囲を見渡してみても、放置された空き家や空き地があちこちに点在。駅前の商店街も、すっかりシャッター通りになっている。 「いちばん情けないのは、自治体の公用車が『土地を売っています』とい
う広告を堂々と貼り付けて走っていることです。こうなると、もうその自治体はダメです。見込みはありません」

Aさんは、自分の生まれ育った街が、こうして荒廃していくさまを10年以上にわたって見続けてきた。 「街を出て行きたいのですが、定期収入が無いとアパートを紹介してもら
えません。滞納者が多く、家主が神経を尖らせているそうです。いまのアパートの家賃より、安い場所に引っ越したくてもできません。生き地獄状態です」そして、いまは再び、自宅で療養中の身だ。仕事に就くのをあきらめて、職業訓練所に入所し、手に職をつけることを目指している。 「求人云々ではなく、仕事に就いて働く事がバカらしくなりまし
た。形だけでも何かをする。ただそれだけです」

 

 

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2014年02月26日

こんな人生の歩き方  No19

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◇定年前OBは定年後の再雇用で腰掛けシニアになっていく?
以前見た役定前後の働き方で、一番問題の多い働き方として、「定年前OB化」を取り上げた。まだ役定前、定年まではさらに時間があるのに、もう定年前のような意識・行動になり、積極的な活動をしない問題人材として指摘した。
実は、このタイプの方を役定後もそのままにしておくと、やがて60歳になり、再雇用に至った時にどうなるか。答えはもっと悪化した「再雇用腰掛けシニア」だ。まだ正社員身分があるうちは、社員の自覚も残っているので、少々怠けた働きになっても多少周囲の目も気になり、自制心が働き時々軌道修正を図る。

しかし、再雇用となると、もう、契約社員の気楽な身分となり、待遇も一段と低下すると「給与分だけはたらく」などと公言してはばからず、再雇用を余生と考える腰掛けシニアになっていく。まさしく問題シニアの負の活用スパイラルだ。

◇仕事で明日に夢や希望のないシニアの働きがいをどうつくるか
こんな腰掛けシニアになるのを防止し、この負のスパイラルを正のスパイラルに転換するにはどうすればいいのだろうか。先述のミドル・シニアのキャリア問題研究会で座長を務めている田中丈夫氏によれば、次の諸点を指摘している。

*1:定年前後社員の揺れ動く気持ちの背景理解がまず第一に必要。
役割変化の中で、リタイアの誘惑と青い鳥の誘惑に罹ると、定年を目指して早めに着陸態勢をとり始める。これが「定年前OB化」。再雇用ではさらに賃金・雇用期間契約になることから、「再雇用後腰掛け仕事」のスタイルを生む。
この背景にある、役割の低下感の中で、「将来志向的」な働き方から、「日々生きがい志向的」な働き方へと意識が大きく変化していくことを看過してはいけない。

*2:対策の重点は、この「日々生きがい志向」への変化に対応したヤル気を起こす仕組み(図表−1)を作ることが大切。
将来志向の夢が断たれると、仕事をする張り合いが失われ、次第に自己無用感が生まれ始め、意欲やコミュニケーションの点で問題の多い働き方に陥る。これを防ぐには、新たな役割に対する@役立ち感を高めることとA仕事目標・達成の承認・評価をキチンと行うことが必要だ。

@の役立ち感を高めるには、経験の蓄積を最大限生かせる(可能性のある)仕事に就けること、もし、それが難しければ、本人が興味・関心の高い仕事につけることだろう。そして、役立ちに対する直接的な評価処遇を行い、毎日の仕事に自信と誇りを持たせ、もっと良い仕事をしようという意欲をかきたてることだ。

Aの承認感を高めるには、役定・定年時期の“終了感”からくる引けた気持ちが、積極的なコミュニケーションを阻害したり人間関係を億劫がる原因になることから、仕事目標の設定・達成はもとより、職場仲間とのコミュニケーションやチーム行動の働きかけを促進し、職場に出て、一緒に汗を流すことを働き甲斐にしてもらうことだ。

 

 

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2014年02月25日

こんな人生の歩き方  No18

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◇一生懸命に働けたのは将来の「より良いポスト」と「給与」のためだった
考えてみれば、50代前半までの仕事・働くことの意味は、その働きで家族を養う責任を果たすためであり、その働きの評価が今後の昇進・昇給を約束する、より良いポスト・立場を得るためであったろう。つまり、日々の仕事の満足や充実はさておき、まずは、自分に与えられた責任を果たし組織人として認められていく上昇キャリアの中に自分を位置づけている。将来のために今日の苦労を乗り切る働き方だ。

将来、偉くなりより多くの収入を得るためであれば、少々不本意な仕事であろうが転勤であろうが、辛抱強く企業の言うままに従ってきた。自分の社内キャリアを形成する上でも、それぞれ与えられた職務・役割においてよい実績を残しこれを評価されることによって、次のキャリアが拓かれていく。いわば、職位昇進と生活上の満足とキャリア形成が一つのサイクルに連なっているのだ。だが、役定以降の仕事には、ファーストキャリア(50代前半まで)のような上昇感はなく、役職離脱・地位・収入の下降が続く。この時期、仕事のモチベーションや働き甲斐はあきらかにそれとは違ったものになる。

◇「将来のために頑張る」から、残り年月を「幸せな毎日のために頑張る」へ
では、役定後のシニアの働き方や生きがいとはどういうものであろうか。端的に言えば、50代後半のシニアにとって、将来の昇進・昇格ために頑張れるのは、本部長・取締役を目指すごく少数の方だけだ。大半の方にとっては、自分が働ける残り時間を従来の管理職的な仕事満足から、自分が係わる範囲の仕事で、日々の充実と満足を求める働き方に転換していく。

筆者の経験を紹介しておこう。15年ほど前、会社で再就職支援事業を立ち上げた際、50代後半の中高年の方をキャリアカウンセラーとして20人近く採用した。そのシニアの方々はかつて大手企業の営業部長や総務・人事の部長職経験者であったが、単年度の雇用契約であったため、我々の内部マネジメントそのもので一体感を示す方はごく少数。殆どの方がプレーヤーとして限定的な役割責任の中で、毎月何人の就職決定者を出したか、自分の業績とそれがキチンと評価されているかどうかに関心を寄せる方が多かった。

その人たちが異口同音、私に言ってくれるのは、「この年で、こんな遣りがいのある仕事をさせてもらって楽しいよ」、「パソコンもやってるうちにできるようになったよ」だった。内輪の面倒な管理事はやらないが、日々クライアントと向き合って就職支援をやる日々は、充実していたのだろう。役定や再雇用とは多少違いはあろうが、以前の立場や働き方をチェンジし、残りの仕事人生をそれまでの出世競争や収入の多寡に一喜一憂する生き方から、新たな仕事に遣りがいと満足を見出せば、またそこから新たな人生の生き方・働き方が始まるように思える。

定年前OB化〜定年後腰掛けに!? 負のスパイラルを正のスパイラルにするには
役定年齢前後のシニアは、少し気迷い気分の中で、組織的な動機づけもなくその日を迎える。経営や人事、そして組織が時機に応じた個人別支援を行うことで、問題の多い働きになることも防げるはずだ。その処方を見ておこう。

 

 

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2014年02月24日

こんな人生の歩き方  No17

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キャリアビジョンの検討には、仕事とその役割・成果期待があるべきだ。これが、明確にビジョンが描けない反面の主張だ。残念ながら、現場実務職の方を除き、元管理職系シニアの主張にほとんどの企業は応えられていないように思う。
現実に役定のシニアに、好待遇で期待の多い仕事をあてがうことなどほとんどの企業はできない。できないから、そのことを、シニア本人に自己活用の道を考えさせるなかで厳しい現実を理解させようとするのだろう。

結果、あてがわれる仕事での満足度は低く、頑張ってもそんなに評価されることもなく、割り切ってやるだけ、の社員が増えていく。今更頑張って何になるのか、もう退職まで3、4年、再雇用で残り頑張って5年。そんな頑張れるほどの仕事でもないのに…。何か、役定後も頑張って活躍してほしいという企業と、自分たちもそのように仕事意欲を失わず頑張るはずだったシニア個人の間に物言わぬ不信感が漂い、隙間風が吹いている。シニア活用の現状を本人たちはよくわかっているし、先輩たちの苦労する姿も見ているし、またそのぼやきもよく聞いている。

◇「蕎麦屋でもやれたらいいね」――シニアが見がちな夢
そんな現実を目の当たりにしながら、時々見る夢がある。役定者研修で、お互いの「今後の理想の仕事と生活=その夢を語ろう」がある。よく出る御三家は、蕎麦屋、田舎暮らし、趣味を生かした仕事。いい年になって満員電車で通勤、あくせく時間に追われての日々、自分らしい生き方や働き方を考えたとき、ふとこれらの仕事や生活は自分を取り戻せる仕事のように思えるのだろう。自分の工夫でおいしい蕎麦をうち、友人にでも堪能してもらえたらどんなに充実した日々だろうか。

田舎暮らしのスローライフ、趣味の釣りを活かした釣り舟屋……まあ、夢は広がるし話は弾む時間だ。だが、それを最後のキャリアビジョンに描く人はほとんどいない。退職金がまもなく入り、役職の責任からも解放される日が来る日を予感する頃、この先の人生をもっと充実した日々にするシニアの夢、それはこの時期特有の青い鳥症候群だ。現実そんな青い鳥を手に入れられる人は稀だが、役定・定年前後、企業との関係性が薄まり仕事の責任感から解放されていくこの時期、今までとは違った充実感や生きがい働きがいがほしくなる。表面はまだまだ現役を装うが、内面は気楽で自由な働き方に惹かれるのだ。

なぜ蕎麦屋があこがれの仕事に見えるのか 「将来のポスト志向」から「目先の幸せ志向」へ
なぜ蕎麦屋が定年後のあこがれになるのだろうか。少し斜に構えたものの見方になるが、自分が主役となって蕎麦を打ち、その働き方を人に見てもらえる、そして人との対話がある、それがこの蕎麦屋を志向する裏面のように思える。これは過去の役割の一山が終わり、役定後の働き方で、もはや昔のような存在感を示すこともできず、面白みもやりがいもない仕事に比べれば、なんと充実した仕事なんだ、そう見えるのだろう。

普通のビジネスマンなら、現実の蕎麦屋さんの経営が、そんな素人が参入できるほど甘いものものではないことは承知の上だ。突き詰めていえば、蕎麦屋の夢は、その日1日、1日の手ごたえと充実を得るための「仕事の夢探し」を託せる“青い鳥の仕事”なのかもしれない。

 

 

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2014年02月23日

こんな人生の歩き方  No16

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なぜ蕎麦屋は定年後のあこがれの仕事なのか DIAMOND 2014年1月22日
http://diamond.jp/articles/-/47477

片山繁載 [人事・キャリアコンサルタント/日本マンパワー取締役]
法政大学社会学部卒業。大学卒業後、株式会社日本マンパワーに入社。教育事業部、人材開発部で教育研修業務を経験。1996年取締役就任。取締役退任後、1998年再就職支援事業を立ち上げ、民間企業・行政機関の人事・キャリアコンサルタントとして、多数の個人・組織のキャリアカウンセリング、キャリアサポートのコンサルに従事。傍ら行政機関の雇用・就業支援のコンサル、キャリアカウンセリング、一般企業のキャリア開発研修の講師・ファシリテータを経験、現在に至る。現在、株式会社日本マンパワー人事・キャリアコンサルタント、 キャリアデザイン研
修インストラクター、取締役。

50代社員は、役定になっても会社の良き人材として活躍したいが、そんな期待も場所もない。企業としては、仕事意欲を失わず若い人のモデルとなるような働き方をしてほしい期待はあるが、現実の仕事や処遇は格段に落とさざるをえない。企業とシニアのこんなタテマエとホンネが交錯するこの世代特有の現象を経営者・人事担当者はもっと理解しておくべきだろう。

そこで今回は、50代シニアがキャリアショックを乗り越え、シニア社員として望ましい働き方に導く支援の視点と、その課題について考えてみたい。論考の所どころで、目下、日本マンパワーの「ミドル・シニアのキャリア問題研究会」で座長を務めている田中丈夫氏の主張を引用させていただいたことをお断りしておく。

「残りあと5年か…オレもそろそろ自由になりたいな」50代シニアの青い鳥症候群
◇A社55歳役職定年者研修の風景
=定年後本当は何をしたいのか、半数以上の人はわからない 筆者は、企業の役職定年者向けキャリアデザイン研修を、毎年、数社手掛けている。最近、実施したA社55歳役職定年者研修の風景を紹介しておこう。来年56歳で部長の役定になる20名程の方が対象となる研修だ。研修は2日間、事前に、キャリアの振り返りシートを作成してもらい、1日目は過去の経験・能力の強み、今後も役に立ちそうなスキルの点検。2日目は、これまでの仕事価値観、新しい職場で自分を活かす際の課題確認などをやる。

ここまでは、ほとんどの方が活発に語り合いながらワークや討議を楽しむ。だが、最後にくるキャリアビジョンが描けない。今後定年までの4、5年、そして定年後再雇用の65歳までの5年、その先70歳くらいまでどんな生き方・働き方をしたいか、将来の自己活躍イメージをまとめてもらうシートだ。だが、企業の施策をよく理解し、役割変化後の仕事・貢献テーマ、あらたな働き甲斐など地に足の着いた、キャリアビジョンを描ける人は3割くらいしかいない。

仕事は自分で選べない、先のことは退職したらその時考える。自分に何ができるのか、本当は何がしたいのかはよくわからない。自分の経験をどう活かすか、それは自分が選ぶものではなく、企業が与えるものとの意識だ。退職後をどう生きるか、早めに田舎に帰る、社会人大学院に行く、親の介護に専念するなど、一部の目的ある方を除くと、大半の方は、「再雇用」で会社のあてがってくれる仕事でお世話になるつもりだ。

◇今さら頑張って何になる?頑張るほどの仕事なんてない
この、再雇用でお世話になるつもりの方々のキャリアビジョンのシンプルな描き方に、筆者も驚かされることが度々ある。まず、60歳定年までの数年:「非役職者として働く、○○部門、できれば○○の仕事」、65歳までの再雇用:「会社があてがってくれた仕事をやる。体力相応に」、その先70歳まで:「よくわかりませんが地域のボランティアなんかがいい」。頑張るにも、自分たちで仕事選びや目標設定ができないなかで、そんなに主体的に会社貢献のビジョンを描ける訳がない。

 

 

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2014年02月22日

こんな人生の歩き方  No15

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■ 会社を辞めて半年後に得た報酬は4万円
会社を辞めてから5カ月間は無収入状態が続いた。世の中は、想いだけで渡り合えるほど甘くはなかった。今までの安定した環境とは180度違う過酷な現実にぶちあたっていたのである。厳しい現状を見かねた友人からの仕事でなんとか報酬を得るものの、その額は4万円。「4万円でも、自分の手がけた仕事でいただいたお金はとても有り難かった」と安藤さんは当時を振り返って笑顔で語るが、それも会社を辞めた半年後の2011年3月のことだった。

そんな彼女も今では多い時に週に5?6件の仕事のオファーをもらい、常に12?13件の仕事をこなしている。ここまで彼女の状況を一変させたのは何。

■ ソーシャルメディアで発信し続けたことでファンを獲得、「自分ポータルサイト化」に成功
その問いに対して、安藤さんが真っ先に口にしたのはソーシャルメディアであった。
「twitterやfacebookなどソーシャルメディアを、私は『個人の発信力がつくる自分のメディア』と定義し、『セルフメディア』と呼んでいます。これらセルフメディアを使いこなすことにより、自分に興味を持ってもらえる人を増やしたおかげで、徐々に『安藤さんにお会いしてみたい』『こんな業務はできませんか』という問い合わせや仕事のオファーをネット経由でいただくようになりました」

会社員時代からtwitterを実名で使用し、トライ&エラーを繰り返してきた。「読んでくださる人が面白い、タメになると思う情報」を発信し続け、プロフィールも受け手のメリットを考えてつくり込んだ結果、自ら営業活動をすることなく、人、モノ、チャンス、お金、そして仕事を自然と引き寄せる「自分ポータルサイト化」を実現させたのである。

■名刺1つにも徹底してこだわる「セルフブランディング」は自分を高く売る方法
まさにこれから訪れるであろう、個人の時代の新しい働き方の象徴的存在。セルフメディアでの発信ともう1つ、実践しているのは「セルフブランディング」である。彼女にとってセルフブランディングとは言い換えれば、「安藤美冬という商品をあらゆるツールを使って的確にプレゼンテーションする能力」。自分を1円でも高く売るための手段として、そして、やりがいが感じられる仕事をつかむ方法として、顔写真、プロフィール、服装、住む場所、名刺など、自分にまつわるものを多岐に渡って徹底してこだわっている。

「特に駆け出しの頃のフリーランスは、『なんでもやります』と自分を安く売りがちです。結果、下請けのような仕事に甘んじたり、特定の取引先に依存して、せっかく夢を抱いて独立したものの、『フリー=自由』とは縁遠い毎日を送っている人たちがたくさんいる。なぜそんな状況になるかというと、自分の『軸』を定めていないからです。何をやりたくて、何をやりたくないのか。どんな風に自分を見せたいのか。どんな人や企業と仕事をしたいのか。それを突き詰めて考えることがセルフブランディングへの第一歩。それさえ決まれば、「自分の土俵」で勝負することができるのです」

 

 

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2014年02月21日

こんな人生の歩き方  No14

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ノマド 安藤 美冬     
              
You Tube      http://www.youtube.com/watch?v=soUVZA-w578
ブログ   http://blog.andomifuyu.com/

ノマド(nomad)は、英語で「遊牧民」の意味。近年、IT機器を駆使してオフィスだけでなく様々な場所で仕事をする新しいワークスタイルを指す言葉として定着した。このような働き方をノマドワーキング、こうした働き方をする人をノマドワーカーなどと呼ぶ。ノマド誕生の背景には、情報化社会とそれを支える技術の進歩がある。近年ブロードバンドが普及し、無線LAN(ローカルエリア・ネットワーク)を使える場所が増え、外出先でインターネットを利用できる環境が急速に整ってきた。

クラウド・コンピューティングを利用することによって、自宅のパソコンだけでなく、スマートフォンなどを使って、喫茶店や移動の車内などでも仕事のデータにアクセスできるようになった。遠く離れた人と意見を交わしたり、様々な情報を手に入れたりすることも、容易になった。また、産業構造の変化により、仕事の質ややり方も変化し、様々なスキルを持つ人たちが会社の枠を超えて参加するプロジェクトが増えてきていることも、要因の一つである。

このような時代の変化の中で、会社に属さずとも、IT機器と人的ネットワークを活用して、その時々の仕事に適した場所を移動しながら、従来よりもスピード感をもって仕事をしている人が、ノマドの実践者としてメディアで紹介されるようになってきている。新しい働き方で自分の仕事をより進化させるだけでなく、これまでできなかったことを実現したり犠牲にしていたものを取り戻したりするなど、従来型の会社勤めよりも自由な生き方として描かれる場合も多い。

小さなコンピューターを操って多くの仕事をこなす姿はスマートで魅力的だが、IT機器を使いこなすスキルだけではなく、積極的な情報取得や仕事の配分のコントロールといった自律が求められている。ノマドは、単にオフィスを持たないフリーランスの仕事人を指すのではなく、その可能性に注目した言葉と言える。

危険な道を選ぶー自分の中に毒を持て   http://ameblo.jp/andomifuyu/entry-10988100615.html

セルフブランディング極め、営業ゼロでオファー殺到~安藤美冬  ある時はプロデューサー、ある時はプランナー、ある時はスピーカー。いくつもの顔と肩書きを持ち様々な仕事をこなすノマドワーカー安藤美冬。何より驚きなのが営業活動を一切しないでもオファーが来る点である。彼女がそのような働き方が出来るのはなぜなのか伺った。

■高収入で安定していた会社を辞め、自分の名前で勝負する道へ
安藤さんのキャリアは慶應義塾大学を卒業し、400倍とも言われる新卒倍率を勝ち取って始まった。出版社最大手の集英社に入社し、女性誌の広告業務、書籍単行本のプロモーション業務に関わり、職場環境にも恵まれた順風満帆な日々を7年間過ごしていた。しかし、29歳の誕生日、人生を変える転機が訪れる。20代最後の節目を迎えた自分が自分自身に投げかけた「一度きりの人生、このままでいいのだろうか」という問い。

それは、何不自由ない生活と仕事の先に続いていく「未来」への強烈な疑問と、自分の可能性を試してみたいと願う「挑戦への飽くなき欲求」だった。しかしながらやりたいことも見えず、辞めることへの踏ん切りもつかないまま1年以上が経過。
「辞めよう。成功する保証はないが、飛び出すなら今しかない」。そう覚悟したのは30歳の時。メンターに「読みなさい」と薦められた日本を代表する芸術家、岡本太郎氏の『自分の中に毒を持て』(青春文庫)という本と出会ったことがきっかけであった。

「その本を開いた瞬間、『危険な道を選べ』というフレーズが目に飛び込んできました。その時になにか稲妻のようなものが全身を駆け抜けた感覚がして、気づいたら人目をはばからずにぼろぼろと涙を流していました」その言葉が引き金となり、今までの安定していた生活や地位をすべて捨てて、自分の人生を何かにぶつけてみたいという思いだけを握りしめ、2010年7月上司に辞意を伝えた。

 

 

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2014年02月20日

こんな人生の歩き方  No13

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今度は客観的に自分を見つめることができるようになって、ニューヨークは私にとってはエネルギーがあり過ぎると判断しました。東京も同じです。自分が生まれ育った土地なので、あまりに身近過ぎてそれまで気が付きませんでしたが、この先もずっと仕事を続けていくにはエネルギッシュ過ぎると感じました。プレッシャーや競争の中に飲み込まれてしまいそうな気がして。エネルギーがあるときはいいですが、ないときはどんどんつらくなってしまうと思いました」

「それで浮かんできたのがパリでした。パリは何度か訪れたことがあって、落ち着いた雰囲気が気に入っていたんです。自分のイラストを違った角度で見つめ直したい衝動に駆られていたこともあって、パリだったら静かにじっくりと自分に向き合えるはずと思いました」  パリに頼る人は、またいなかった。でも前向きな彼女には、また不安もなかった。後藤は、一人パリに向かった。

「危険な道を行く」――だが、ゆとりをもって仕事に取り組む
ファッションを勉強した後藤さんは時折プリントやテキスタイルデザインもする。こちらは ES ORCHESTRES に提供し、パリコレで発表された   ここまでの道のりを見て
くると、後藤の超前向きな姿勢がいい人を引き寄せ、いい仕事を引き寄せてきたことが一目瞭然だ。それはパリでも同じだった。 後藤はフランス語を学びながら、生活の中でヨーロッパの色彩感覚、美の感覚も学んだ。それらは自然とイラストに反映されていった。売り込みをした回数はそれほど多くなかった。

渡仏してちょうど3年経ったころに冒頭の絵葉書の仕事が決まり、その後は順調に仕事が舞い込んできた。 「私は、岡本太郎さんの著書にある言葉が好きです。安全な道と危険な道があったら、先の見えない危険な道を選べと。岡本さん自身が実践していたというこの言葉は、私の支えです。 振り返ってみると、勢いだけで進んだこともありましたが、いまは危険な道をわざと選びつつ、楽しみながらゆっくりと前進していこうという心構えでいます。急な坂道を駆け上るのではなく、なだらかな坂道を自分のテンポで歩いていくといった感じですね」

後藤のサクセスストーリーを羨ましいと思うのは、筆者だけではないだろう。でも、そんな嫉妬はすぐに消えてしまう。イラストを通してみんなが幸せでいられるようにという彼女の温かくひたむきな思いと、バイタリティにあふれた行動とが、私たちに大きな元気と勇気とを与えてくれるから。

 

 

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2014年02月19日

こんな人生の歩き方  No12

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東京でキャリアを積み、新境地パリへ旅立つ
帰国して、さっそくエージェントに登録した。エージェントでアルバイトもして様々なイラストレーターの仕事を見たりイラスト業界に以前より詳しくなったりして、勉強になったという。 後藤は2002年の秋に初の個展を開いた。それが雑誌で取り上げられて、運が急速に上向いた。雑誌を見た『ヴォーグニッポン』の編集者から依頼を受けたのだ。あの憧れのトレドが描いていた雑誌の扉絵3ページを飾るという大仕事を1年間も担当した。

「この仕事は毎回楽しくて仕方なかったです。3ページもあるのでストーリーを考えました。たとえば1ページ目でヴォーグキャラクターの女の子が、友達の操り人形がこしらえた花びらのドレスを身に着けて、最後のページでは操り人形が女の子の写真を撮るというように。季節感をたっぷり出したので、読者のみなさんにも実際の季節の移り変わりをより楽しんでいただけたと思います」

『ヴォーグニッポン』はファッションに敏感な人たちには欠かせない雑誌。連載は大きな宣伝となり、次々に仕事をもらえるようになった。 田辺のアドバイス通り、エージェントの登録も後藤の世界を広げた。エージェントを通してデパートの広告や雑誌の連載を少しずつもらえるようになった。 しかも同エージェントは後藤の技能をとても見込んでいた。2005年に、登録アーティストを数人選んでニューヨークで展覧会を企画したが、キャリアのある人ばかりの中で後藤はただ一人、駆け出しの身で抜擢されたのだ。

後藤さんは日本向けの仕事も多数受けている。こちらは、つい最近の仕事。2013年のクリスマスまでの1カ月間、都内のデパートecute各店が華やかな雰囲気に包まれた 後藤は仕事の経験を積み続けた。そうしているうちに、そろそろ親元を離れて一人暮らしを始めようかとふと思い立った。いい物件を探し当てて、さあ決めようかというときに、心の中で突如声が聞こえたという。 「このまま東京に腰を据えてイラストレーターの仕事をすることが、あなたの本当のしたいことなの?」

後藤が出した答えは、「ニューヨークでと以前憧れたように、イラストレーターとしてやはり海外で働いてみたい」だった。 今度は十分経験を積んでいるし、ニューヨークに行っても前回のようにはならなかっただろう。しかし、渡航先として後藤が選んだのはパリだった。 「ニューヨークではたくさんのアーティストたちに会い、刺激を受けました。その人たちも含めて、世界中からアメリカンドリームをつかもうと来ている人たちのエネルギーが街のどこに行っても満ちていて、しかも、ストリートアートなどが盛んで、芸術自体のエネルギーもすごかったです。

その波動を体中で感じることが心地よかった。私もそのスピード感の中に入って、波をかき分けるように自分の目標に近づいていくことはできたでしょうが、もう一度ニューヨークへという気持ちはわいてこなかったのです。

 

 

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2014年02月18日

こんな人生の歩き方  No11

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「郵便受けにルーベンさんからの手紙が入っていたのを見て、もうすごく感激しましたね。あなたのようなエネルギッシュな女性が世界で増えることを祈っていますよ、という励ましの言葉とともに、最近手掛けたイラストを同封してくれて、ルーベンさんのいるニューヨークに行きたい気持ちが一気に高まりました。私もルーベンさんのような仕事をしたい。いつの日かルーベンさんにも会えたらと思いました。 それでバーニーズ・ニューヨークでもお仕事をいただけたので、本店のあるニューヨークが一層近く感じられたのです。私の決心は、どんなことがあっても揺らがないものになりました」

化粧品類のパッケージに使われた後藤さんのイラスト。イラストレーターの仕事の範囲は広い  学校を出て1年後、後藤はアルバイトで貯めた資金と大志を胸にニューヨークの地を踏んだ。度胸のある後藤らしく、ニューヨークで頼れる人は誰もいなかったが不安はなかった。 「夢がふくらんで不安を感じる隙間もなかったですね。当時は文字通り夢中でした」 ニューヨークで後藤がしたことは2つ。東京でしたように、自分の作品を商店や出版社に売り込むこと。そして絵を描き続けること。 売り込みは到着してすぐに始めた。可能性が少しでもありそうな企業にどんどん連絡を取って1社に作品を持っていき、もう1社からは見てもらった作品を返してもらうというルーティンを続けた。

イラストレーター田辺ヒロシと出会い、いったん日本に帰国
現在、シリーズ化している後藤さんのオリジナル作品「ジーンズコレクション」。本物のジーンズをスキャンし、細かくはめ込むという凝りようだ  気がつけば、そうやって作品を見てもらって半年近くも経った。しかしニューヨークでは仕事は得られなかった。 「もちろん、すぐに仕事ができるとは思っていませんでした。売り込みを繰り返す生活になるというのは想像していましたが、もう少し手ごたえがあるかと思っていて・・・」

客観的に見れば、デビューは華やかだったものの後藤はまだ卵からかえった生まれたてのヒヨコの状態だったろう。だからニューヨークでいきなり仕事をというのは、やはり早すぎたのではないか。一匹狼のように活動してきた後藤はそのことに気付いていたようで、はっきりとは分かっていなかったのだろう。 そんなとき、契機がまた訪れた。正しい助言をしてくれる人に出会えたのだ。ニューヨークに住んで大活躍しているイラストレーターの田辺ヒロシだった。

「街で偶然見かけたんです。以前、田辺さんの生活を紹介した日本のテレビ番組があって、ビデオに撮っていました。素敵な仕事をしている方だなと何度もビデオを見ました。だから、その男性が田辺さんに間違いないと確信して声をかけたのです。自己紹介をしたら私の作品を見てくれると言ってくださって。少しお話しする時間を取っていただいて進むべき方向が見えてきました」 田辺は、後藤にイラストレーターのエージェントに入ることを勧めた。

自分一人で営業するよりも仕事を獲得する近道だろうという理由だった。田辺と話してもう1つ気が付いたことは、自分のスタイルをよりしっかりと確立させることだった。 日本に帰って地固めをしよう。田辺に会ったことで、後藤は空に舞う夢からの階段を下りて、地に足を着けようという気持ちになった。

 

 

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2014年02月17日

こんな人生の歩き方  No10

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ファッションに興味があって東京で服飾デザイナーになる勉強をした後藤が、なぜイラストレーターになったのか。 「デザインの勉強はすごく充実していました。気持ちがイラストレーターへ向いたのは、就職活動のときです。普通なら卒業してアパレル企業に就職するのですが、洋服のデザインは現実に服になって人々が着るというのが、なんだか残念な気がしてきたのです。 服飾デザイナーはどんな素材を使ってどういう用途の服を作るかという服作りの仕事です。

夢を形のあるものにする。でも洋服にすることを前提としないデザイン画やイラストなら、そこに描かれた夢が夢のままです。その点に何より魅力を感じました。それでイラストだけに的を絞ろうと思ったのです」 この思いは決して一時的なものではなかった。周りは正攻法をとってアパレル関係に就職したが、後藤は違う道を選んだ。アルバイトをかけもちしながら、家でイラストを描きまくる日々を送った。仲間も師もいない霧につつまれた道だった。

後藤のイラストの技術の高さと、「とにかく、一刻も早く仕事をつかみたい」という募る思いは、大きな幸運を呼び寄せた。 ある日、有名セレクトショップ、バーニーズ・ニューヨークの日本支店に自ら売り込みに行った。同店は、ショーウインドーのディスプレイで常に注目を集めていた。後藤は以前から足しげく通ってショーウインドーを眺めては「ここに自分のイラストを飾れたら」と憧れていたのだった。 自分の作品を見てほしいという売り込みというのは、とかく敬遠されがちだ。

それが名の知れた企業なら、なおさらのこと。しかし、同店ディスプレイの担当者は後藤に幸いにも会ってくれた。 そして、後藤のイラストの風合いとぴったり合う洋服を近く飾ることになっているので、まずは描いてみてくださいと後藤にチャンスをくれた。1カ月かけて仕上げた作品は担当者の期待通りで、見事に採用された。後藤さんのデビュー作。新宿と横浜のバーニーズ・ニューヨークのショーウインドーを、後藤さんのイラストが埋め尽くした

東京からニューヨークへ飛び出す
大作でデビューした後藤は、実は大きな目標を持っていた。それはニューヨークに行って、仕事をつかむことだった。 時間が前後するが、まだ在学中で洋服のデザイナーか、雑誌や広告などを飾るイラストレーターかと悩んでいたころ、後藤はニューヨークに住むイラストレーターのルーベン・トレド(妻のイザベル・トレドもファッションデザイナーとして有名。参考: Isabel and Ruben
Toledo)に手紙を送った。 トレドは当時すでに超売れっ子で、創刊したばかりの雑誌『ヴォーグニッポン』にも作品を載せていた。

後藤はトレドを知った瞬間から強く惹かれていて、彼の作品集をいつも傍らに置いていたほどファンだった。 「周りに全然相談相手がいなくて、そんなときに『ヴォーグニッポン』を見て、あっルーベンさんが描いている! って思って。そんな大御所に意見を聞いてみるのは大それているとか、全然考えませんでした。自分の将来を決めなくてはと必死だったのだと思います」 トレドは非常に誠実だった。数週間して後藤に返事をくれたのだ。

 

 

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2014年02月16日

こんな人生の歩き方  No9

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パリで成功をつかんだ原動力は「超ポジティブ思考」 有名ブランドから引っ張りだこのイラストレーター、後藤美和  2014.01.20

岩澤 里美;雑誌編集、英国留学を経て、2001年よりスイス在。月66万部発行のJALファーストクラス機内誌『Agora』、環境ビジネス誌『オルタナ』などにスイスの話題を中心に寄稿。世界の最新ビジネスは、欧州ほかアメリカも多数取材している。在外ジャーナリスト協会「Global Press」副理事。  ≫岩澤 里美さんのブログ  
http://slasuisse.exblog.jp/

イラストレーターになって雑誌に挿絵を描いたり、自分の絵が大きなポスターになったりしたらいいなぁ。そう憧れる人が日本にはたくさんいるようだ。パンとお菓子がパリ一おいしいとも言われ、受賞歴も多いArnaud Delmontelのマカロ
ン。パッケージは、DELMONTELと描いた後藤さんのイラストが採用されている(コピーライトマークArnaud
Delmontel) でも、イラストがうまく描けるだけではプロにはなれない。依頼主の要望にそうように、なおかつ自分自身の個性も出した商業向きのイラストを作り続けていける人は、そう多くはない。イラストの需要は日本だけでなく海外でもあるが、そんな夢を海外でかなえた女性がパリ近郊に住んでいる。後藤美和は「絶対にイラストレーターになりたい」という思いを持ち続けて東京で経験を積み、パリにやって来た。 フランスで好まれるイラストは日本やアメリカとは同じではないが、後藤はパリで生活するうちにヨーロッパ人たちの心をつかむ作風をつかみ、いまではたくさんの企業から仕事を依頼される売れっ子になった。後藤がどんなふうにチャンスをつかんできたのか、彼女のサクセスストーリーを素敵なイラストとともに紹介しよう。(文中敬称略)お菓子の包装から美術館グッズまで「後藤ワールド」が花開く  まずは本記事、そして後藤のサイトにあるイラストをご覧いただきたい。色合いの絶妙さ、エレガントさ、軽快さ、そして力強さまでもが漂うイラストは、一目見ただけで楽しくなってこないだろうか。そしてパッと見ただけで、目に焼き付くくらいの印象を与える。パリをテーマに10枚の絵葉書を描いた。左はそのうちの1枚。どれも魅力的で選ぶのに困ってしまう。「完成した自分のイラストを1週間後に見ると、ああ、もう古いな、ここを変えたらもっとよくなるのにと感じるんです。その感覚があるので、もっと洗練した絵を描きたいといつも思っています」後藤のイラストはパリの街によく似合う。パリの有名店 Arnaud Delmontel がマカロンのパッケージに後藤の絵を採用したり、出版社が後藤の絵を使ってパリの絵葉書を発売したり、「後藤ワールド」はすべて、そこにあるのが当然のようにどっしりと居場所を構えている。 「日本ではイラストというと全般的にカワイイものが好まれます。でもフランスは成熟した美とカワイイものとがはっきりと区別されて、イラストにも味わいのある大人の美が求められます」後藤がこの仕事を目指したのは、イラストは見る人に夢を与えることができるから。日本でたくさんの夢を人々に与えてきた後藤は、自分も夢を見るかのように不思議な縁に恵まれながらパリにたどり着き、この地で新しい夢を次々に届けている。洋服のデザインを勉強してイラストレーターへの夢が膨らんだ 後藤美和さん。「私がそうだったように、その時々を大切に、売り込みも絵の練習もすべて楽しんで進んでいけたら、きっとプロになる道は開けると思います」とイラストレーターになりたい人へ声援を送る  こんな洗練したイラストを描く後藤は、自身の作品から飛び出してきたかのように颯爽としている。手足が長く、まとめた髪にパンツ姿が似合ってキリリとしている。

 

 

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2014年02月15日

こんな人生の歩き方  No8

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マザーハウスでは、手製にこだわった非常に質が高いバッグを提供しています。1個数万円というバッグですが、ビジネスマンやOLに人気です。

東急ハンズにもバッグを卸すようになる
最初は家族や親族、友人に買ってもらうことから始めました。その後、バッグを扱っていそうな路面店に飛び込み営業をスタート。でも私、何もわかってなかった。卸販売の場合、かけ率があるんですよね。「じゃあ、定価の50%なら仕入れるよ」とか言われて、「何で半分も取られないといけないの」って、最初は本気で憤慨していましたから(笑)。それでも、バングラデシュの工場スタッフの笑顔を考えながら営業を続けました。その後、縁あって東急ハンズさんに扱ってもらえるように。

力強い共同経営者の山崎大祐氏(副社長)の存在
山崎さんは、当時ゴールドマン・サックスでエコノミストとして活躍していました。卒業後も、いろいろと相談に乗ってくれ、彼はマクロの視点で、私はミクロの視点で、経済について考えていました。バングラデシュで大学院に行くことも、バッグを作ることも、周囲はみんな反対でしたが、彼だけはいつも「いいんじゃないか」と応援してくれていました。彼は、会社を共同で設立した後も1年間ゴールドマン・サックスで仕事をしていましたから、マザーハウスのことを話し合うのはいつも深夜のファミレス。

慶応大学4年生の時に山口さんと出会って、その後にゴールドマンサックス証券で4年間エコノミストとして仕事して、マザーハウスの創業に関わり、副社長として活躍しています。山崎大祐氏(副社長)は、元ゴールドマンサックスのエコノミスト

株式会社マザーハウス副社長の山崎と申します。どうぞよろしくお願いいたします。山口との出会いは、私が大学4年のとき、山口が大学3年のときでした。竹中平蔵(日本経済研究センター特別顧問、慶大教授)先生のゼミで出会って、そのときに山口から開発の話を聞きました。私自身もそういうことに興味がありましたが、卒業後はゴールドマン・サックス証券で4年間、エコノミストとして仕事をしていました。

先日、東京でマザーハウス副社長の山崎大祐さんと2人で酒を飲んでいた時、彼がふと口にしたセリフだ。創業6年目にして日本国内9店舗、台湾3店舗を展開する同社は、社長の山口さんも副社長の山崎さんも30代初めで、若さみなぎる活躍をしている。 「台湾では山口はデザイナーとして評価されるんです。いや、実を言えば、日本でも通りすがりのお客さんが半分近くです。マザーハウスのことを全く知らず店を訪れて商品を買って下さる方ですね。それはデザインへの評価が決して低くないということだと思うのです」

会社名は「マザーテレサ」から・・・・・ マザーハウスという会社名は、「マザーテレサ」に由来するそうです。

今後のマザーハウスについて 自己否定を繰り返しながらの前進
マザーハウスの7年間は本当に自己否定の繰り返しです。頑張って開拓してきた10店舗との契約を全部やめて、卸売りから直営店に切り替えていったときもそうでした。言うことを聞かない外部工場から自社工場に移ったときもそうでした。「本当にこれでいいのか」「これが最終ゴールか」と否定して次に進んでいくというプロセスです。私はそれをカルチャーにしたいと思っています。更なるグローバル展開を目指したいと意欲的

口をすっぱくてして言っていることなんですが、もっともっとグローバルな展開をしていきたいですね。起業当初から、そもそもバングラデシュのバッグ屋さんをやるつもりはなかったんです。「途上国の可能性を先進国に伝えたい」。そういう思いから始めたビジネスなんですよね。でも、そう言っているにもかかわらず、バングラデシュでしかバッグを作っていないし、ましてや日本でしか売っていない。この現状に対しては、すごく悔しいんですよ。

今現在、アメリカとヨーロッパでの販売に向けて少しづつ動き始めていて、年内には絶対にスタートラインに立ちたいと思っているところ。

 

 

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2014年02月14日

こんな人生の歩き方  No7

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マザーハウス山口絵理子; 日本で注目される若い実業家で、バングラディッシュの工場でバックを生産して、日本で販売を手がけるバッグデザイナーです。マザーハウスという会社の代表をしており、国際的なビジネスマンとして活躍されておられます。
更新日: 2013年03月15日 http://matome.naver.jp/odai/2136323757686095001

1981年埼玉県生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業、バングラデシュBRAC大学院開発学部修士課程修了。大学のインターン時代、ワシントンの国際機関で途上国援助の矛盾を感じ、アジア最貧国「バングラデシュ」に渡り、現地の大学院に進学。「かわいそうだから買ってあげる商品じゃなく、商品として競争力があるものを途上国から世界に発信する」という理念のもと、大学院卒業と同時に24歳で起業し、「株式会社マザーハウス」を設立。

いじめられた経験をバネに 出典山口絵理子さんに会った! | 田原総一朗 公式ブログ(= 山口絵理子さんに会った! http://www.taharasoichiro.com/cms/?p=675

山口さんは、実は小学校のとき、一度も給食を食べたことがなかった。男の子たちに取り上げられていたのだ。いわゆる、いじめられっ子で、不登校にもなった。彼女は、給食の味を知らずに卒業したそうである。その反動から、中学で非行に走った。警察に何度もお世話になった。ただ、すぐに、「こんなことしてはだめだ」「もっと強くならないといけない」と気づいた。

過酷なバングラディッシュでの生活
頼み込んで大学院の入試を受けさせてもらい、何とか合格。それからすぐに日本に戻り、大学を卒業するまでバイトをしまくりました。両親には、「好きにしなさい。でも、卒業後の支援はしない」と言われましたから。無事大学を卒業し、再びバングラデシュに戻った私は、まずひとり暮らしをするためのアパートを探しました。そして、昼間は日本商社の現地事務所でインターン、17時半から22時半までが大学院の授業、夜はリキシャで帰宅する、そんな毎日がスタート。

ダッカでは18時以降、女性の外出が禁止されていたので、夜道がものすごくこわいのです。だから常に、催涙スプレーや防犯スプレーを隠し持っていました。

働く工員の給与水準は高い
バングラデシュにある「マザーハウス」の自社工場では、現在45人が働いていますが、彼らの給料は、この国の一般的な額の約2倍から。技術の向上に応じて報酬がアップする上、自分たちのアイデアも活かされるため、工員は皆努力を怠らず、中には終業後、自主的にミシンの練習をする方もいるそうです。そこにあるのは、「もっといいものを作りたい」という、これまでの労働環境の中では抱けなかった気持ち。アジア最貧国と言われるバングラデシュで、「マザーハウス」のバッグ作りは人々の自尊心も育んでいるのです。 発展途上国にて「品質の
良いバッグ」を作る事が大切という考え

先進国は、チャイナ+1(中国の補佐的製造)の、安かろう悪かろうというレベルの製造工場として、バングラデシュに発注します。それはバングラデシュが、賃金が安くて素材も安いから。でもそれは、仕事を発注する側の都合です。できる、できない以前に、やらせてみよう、良い製品を作ろうと思う人たちが皆無だったのです。もちろん、政治にも、大量生産型のビジネスにも問題があるわけですが、そうした現実に対して、誰かが「この人たちはもっとできる」ことを証明してみせたら,
もしかしたら、そうした流れが変わるかもしれないと思ったのです。

 

 

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2014年02月13日

ハーバード大学に合格したウェイトレス   No2

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教育機会の平等でも厳格に実現しようとしたら、大学は男女同数を入学させなければならないし、人種別の人口構成比で入学人数を調整しなければならない。 アメリカでもそこまでの平等は実現できてい
ない。人種によって知能が異なるとの説もあるし、親の教育への熱意も異なる。一流の大学になればなるほど授業料 は高い。親の資力も必要になる。現実には多くの障害があるのも拘
わらず、多くの大学では男女同数、人種人口比に一歩でも近づくように努力をしている。


伝統的なアイビーリーグの大学も例 外ではない。男女平等を実現するために、入学人数で極力男女同数に近づけようと努める。その結果女性の入学最低ラインが男性より低くなる。  この国では白人以外をマイノリ
ティー(少数派)と呼ぶ。白人人口は75%なので、非白人は25%もいる。日本人は日本ではマジョリティー(多数派)であ るが、この国に来るとマイノリティーに分類されてしまう。
マイノリティーの人たちへの入学許可に配慮している大学は多い。

ただどこまで優遇するかは、大学 によって異なる。この結果、マイノリティーの合格最低ラインは白人よりも低くなる。日本人女性は、女性であることとマイノリティーであることで、二重に受 け入れられやすくなってい
るのである。 こうした大学のポリシーに対する批判もある。ハーバード大学でも、白人の若い人たちが、奨学金が非白人に優先的に配分されるのは不平等であるとして、抗 議のデモを大学構内でやっているのを
テレビで見たことがある。人種逆差別であると言うのである。しかし男女平等がけしからんと言うデモは見たことがない。

大学が平等主義、或いは、マイノリティー優遇方針に基づいて入学者を決めるのと同様に、企業も採用にあたって人種、性別によって差別してはならないと法律で決められている。これを守らないと企業は訴えられてしまうのである。 だが同時に、この国は学歴主義の国でもある。学士と修士では給料水準が違うし、同じMBAでも出身校によって差がある。こうした要素が絡んでくるので、企業の採用レベルでの性別・人種による保護は教育機関よりも見えにくい。

男女平等を標榜するアメリカでも、女性の昇進・昇給が男性に比べて遅い実態はまだ存在する。目に見えないところに昇進・昇給の限界が存在することを“ガラスの天井”と呼ぶ。その上が透けて見えているのになぜか到達できないことを指す。 でも米国企業は日本企業よりははるかに男女平等の意識が高い。特にシリコンバレーには、著名企業のトップに女性経営者がいる。ヒューレットパッカードのカーリー・フィオリーナ社長、イーベイのメグ・ウイットマン社長らがその代表選手である。

A子さんは悩んだ末にハーバード大学3年生に編入手続きはするものの、一年間休学する道を選んだ。その間に学費・生活費を作る作戦である。B子さんは日 本に帰国後、MBAを生かして自分の会社を
作る決心をした。アメリカで平等の空気を吸い込んだ女性は、旧来型の日本企業に戻ることはない。新しい職業人と して自分を確立する道を選ぶ。その道は何か。それは日本の伝統的
企業風土から生まれて、日本人女性によってアメリカから逆輸入された新型の“外圧”であ る。

(NIKKEI NET「海外トレンド」 2004年5月17日掲載記事より転載)   *この記事は約10年前に掲載されているので授業料などは現在の金額と大分違うものと思われますが、何かの参考になればと思います。

 

 

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2014年02月12日

ハーバード大学に合格したウェイトレス   No1   

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http://svjen.org/archives/articles/sv/post_21.html

パ ロアルト市はスタンフォード大学がある町として知られる。その目抜き通りから一本入った裏通りに“時代屋”という日本料理屋がある。決して高級レストラン とは言えず、むしろ居酒屋に近い。赤チョ
ウチンを連想させるネオンサインが夜の町に引き立つ。お客にはスタンフォードの関係者が多い。在学生のみならず、 日本から客員資格で短期滞在している研究者が頭を休めるところ
でもある。ビジネススクールの学生がグループで来ることもある。

そこでウェイトレスをしているA子さんは日本で地方の高校を卒業して、米国のコミュニティーカレッジ(公立の短大)に数年通っている20代後半の女性で ある。米国のコミュニティーカレッジには入学
試験はない。応募すれば誰でも入れる。生活費を稼ぐために昼間は店員をやり夜間にはウェイトレスをやってい る。授業の合間を縫ってアルバイトに忙しい毎日である。 その彼女
が4年制の大学の3年に編入する試験を受けた。コミュニティーカレッジの先生のアドバイスに従って一流大学ばかりに願書を出した。

最初に合格通知がきたのは名門大学として有名なハーバード大学からであった。その後ほかの一流大学からも続々と合格通知がきた。 なぜ受かったのかを聞いてみた。彼女曰く「アメリカの大学入学共通試験はやさしい。数学は中学生のレベルだし、英語ができれば簡単簡単」。確かに英語は うまい。だが、合格通知をもらったものの素直に喜べない。私
立大学の授業料が高いからである。授業料だけで年間に400万円近くかかる。

これに寮費、生活 費を加えると1年間に最低600万円はかかる。2年間で1200万円にもなる。これだけ支払う資力は彼女にも実家にもない。奨学金は出ないので自分で借金 をするしかない。 彼女の身の振り方
を巡って“時代屋”の常連客の間で喧喧諤諤の議論が起こった。こんな機会はまたとないのだから当然行くべしとする積極論。難しい科目を 避けて単位を取っていけば卒業はそんなに難しくない
と入れ知恵する人達。

ハーバードを卒業してしまえば、就職にも有利だし、その程度の借金はなんとかなる
とする楽観論。しかし、彼女は経済面を心配している。受かっても本当に卒業できるのか。卒業できなければ巨額の借金が残るだけだ。 “時代屋”には以前にもハーバードの卒業生がウェイトレスとして働いていた。不思議なレストランである。ハーバード経営学大学院でMBAを取ったB子さ んである。彼女は日本の私立大学を卒業して10年ほど日本の
証券会社に勤めた後、一念発起して私費でMBAを取得した30代後半の女性である。

多額の借金 を抱えていた。MBA取得後、米国東海岸で金融機関に就職しようと活動したが、うまく行かなかった。東海岸での就職を諦めてシリコンバレーに職探しにきた のである。 文科系の外国人がシリコ
ンバレーで職を見つけることは難しい。理工系でもITバブル破裂後には就職が難しかったところである。それでもなんとか中小コン サルタント会社に採用された。給料は高くなかった。その
後健康を崩し一年間療養生活を送った後、ビザが失効したので日本へ帰国することになった。

日本人女性にとって、アメリカの一流大学へ進学するのは夢のような話であろう。だが、なぜ日本人女性は入りやすいのだろうか。これにはアメリカ特有の事情がある。男女平等と人種問題である。 アメリカは自由・平等の国である。この平等は機会の平等を意味し、結果の平等を保証するものではない。結果は個人の努力によって当然のことながら変わってくる。だが、機会は平等に与えられなければならない。

 

 

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2014年02月11日

こんな人生の歩き方  No6

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個人的には、マイノリティーである事は最大の強みだと思っています。男性の多い職場で女性だった事を特権と感じていました。米国三菱商事に駐在していた時、60数人いる駐在員の中で、女性は私一人でした。声を上げれば、誰よりも目立つ事ができたし、全く異なる視点を提供することができました。逆に、コーチのニューヨーク本社では職員のほとんどが女性(とゲイの男性)でした。それでも、幹部はほぼ全員男性。サンドバーグ氏がおっしゃる通り、米国でも女性に壁があるのですね。

技術系ベンチャー企業の世界もほとんどが男性です。起業家も男性が多い。そして何よりも、投資コミュニティーにおける女性の少なさが目立ちます。ベンチャーキャピタリストは男性が占める業界なので、女性起業家として女性向けのサービスを売り込む場合は、エンドユーザーではない男性投資家に理解してもらえる提案をいかにするかが重要だったりします。そんな中、ニューヨークの特徴の一つは、他の都市と比べて圧倒的に女性起業家が多い事です。

ファッション、美容、メディア、PRなど女性スタッフが多い業界、ならびに女性向けサービスを提供している会社がこの街を拠点にしているからです。また、ニューヨークはパワフルな女性を惹き付ける街なので、女性が互いに団結する力が非常に強い。さらに、女性起業家を支援する素晴らしいサポート体制が整っていると思います。

田村:アメリカの映画やドラマを見ていると、キャリアからファミリーまで、女性がすべてを手に入れるのはまだまだ難しい感じがします。日本ではさらに難しい。「大手商社からハーバードMBAコースに進み、ニューヨーク起業」とすべてを手に入れようとする矢野さんの、人生における今の優先順位はどうですか?キャリア、恋愛、家族のバランスや優先順位に悩む日本の若者と、考えや体験をシェアしてもらえませんか?

矢野:全てを手にいれようと思って計画的に生きるタイプではないですが、周囲の人には貪欲だと思われるみたいです。自分としては、目の前に現れたチャンスは絶対につかもうと思って、単純に生きてきただけです。そのチャンスが訪れる時に備えて、日々、コツコツと頑張っています。なので、そのチャンスが恋愛だろうが、キャリアだろうが、目の前に現れたら逃しません(笑)。また、どちらかを優先したから片方を諦める、といったことは私の性格上できません。

自分のやりたい事に没頭している時こそ、人との出会いや恋愛も楽しめると思うからです。なので、今、自分のビジネス立ち上げにほとんどの時間を費やしていますが、恋愛も楽しんでいます。キャリアとファミリーの両立に関しては、まだ独身なのでよく分かりません。でも、難しくても工夫次第でなんとかなるのではと思います。自分とパートナーのキャリアの状況や子育てのタイミングに併せて、時には家族を優先し、時にはキャリアを優先する事になるのでは、と思います。

田村:中長期の目標と人生のゴールのようなものを、教えていただけますか?

矢野:既に申し上げましたが、中期的な目標は米国での起業を通じて、海外での事業経験を身につけ、世界で役に立つサービスを創ることです。長期的には日本と世界の架け橋になり、自らの経験を通じて次の世代にギブバックできるような活動に取り組みたいです。人生のゴールは、ハッピーで健康でい続けることです。ハッピーでいるために、一番大切な人たちと時間を共にし、やり甲斐のある仕事に没頭し、世界中を旅し、人について学び続けていこうと思います。

健康でいるために、大好きなアルゼンチンタンゴを続け、ランニングとヨガで心身の力をつけていこうと思います。

 

 

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2014年02月10日

こんな人生の歩き方  No5

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春に立ち上げたパイロットサイト
米国では今春から、ファッションアイテムの二次流通ネット市場がちょっとしたブームになりつつあります。競合が立ち上がる中、マテリアルワールドが差別化を図るポイントは、単なる売り買いの市場ではなく、ソーシャルなディスカバリー機能を備えた市場であることです。ファッション好きな18〜35歳の女性が今ネット上で何をしているかというと、画像共有アプリのインスタグラムを使って自分の購入したハンドバッグやアクセサリーを見せびらかしたりしています。

ブログツールのタンブラーや、画像共有ツールのピンタレスト、ファッションブログを通じて自分のスタイルを紹介して、フォロワーとコメントし合っています。こうした行為を英語で Humble Brag(さりげなく自慢す
る)と言います。マテリアルワールドは、ユーザーがHumble Bragできる場を提供することで、自分のスタイルを評価してくれるフォロワーやファンに対して直接モノを売るプラットフォームを提供していきたいと考えています。そのためにも、自分の好きなスタイルや同じ洋服サイズの人を発見する機能をどんどん提供していく予定です。

また、ファッション業界出身の女性2人によるニューヨーク発のブランドであることを前面に出して差別化を図ります。競合のほとんどが技術畑出身の男性陣による西海岸ベースの会社なので。また、私は日本出身、Jieは中国出身なので、他の競合がまだ手をつけていないインターナショナルなビジネス展開を視野に入れています。 マテリアルワールドはファッション好きの人向けのプラットフォームなので、世界が認めるファッションのメッカであるニューヨークを拠点にしたいと思っていました。

また、ラグジュアリーブランドのほとんどがニューヨークに北米本社を構えています。業界を取り上げるメディアも、品物を扱うデパートも、全てがニューヨークにオフィスを構えています。パートナーシップを構築していくのに、パロアルトよりも有利だと思います。ファッション業界で働くスタイリッシュなニューヨーカーたちが、私たちの最初のユーザーになると思います。彼女たちに使いたいと思ってもらえるサービスを世界展開していきたいと思っています。日本での起業も考えましたが、ニューヨークで成功できたら世界のどこでも仕事ができる気がしたので、ニューヨークを選びました。異国の地なのでチャレンジも多いですが、リスクをとって起業しているので大きい目標を持つことにしています。

女性が仕事する上でのメリット、デメリット
田村:矢野さんにとって起業の目的や意義は何でしょう?世界を変える?自己実現?お金?

矢野:米国での起業は自己実現のための手段です。目標は、世界で役に立つ新しいサービスを創ること。ベンチャーの世界ではスピードが命なので、結果を早く出せるプロセスを徹底的に学んで実践していきたいと思っています。最終的には、海外での事業経験を通じて、日本と世界の架け橋になることです。

田村:日本で大企業勤務、アメリカでも企業勤務、そして起業。女性を取り巻く環境の違いについて教えてください。ハーバード・ビジネススクールに講演に来た、フェイスブックのCOO、サンドバーグ女史が「アメリカのビジネス界は、女性に対してまだまだフェアではない。女性はもっと声を上げねば」と言っていました。やはり日本が、女性として一番やりにくかったですか?アメリカでも、企業に勤務するより起業する方が、女性として能力を活かせますか?頑張る女性を応援する周りの姿勢は各々どのように違いましたか?

矢野:日本の女性は世界で一番いけてると思います。オシャレだし、綺麗で女性的だし、気遣いが行き届いていて。料理も仕事もできる日本人女性をたくさん知っています。私が男だったら絶対に日本人女性と結婚したいです(笑)。でも、女性としては、日本が一番やりにくい国だと思います。「女性はこうでなければいけない」という日本社会特有のルールがたくさんあります。日本社会が求める完璧な女性役を演じていたら疲れてしまいそうです。もっと社会のルールを破って、ワガママになってもよいと思います。女性が生き生きとしている社会では、生き生きとした子供たちが育つ気がします。

 

 

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2014年02月09日

こんな人生の歩き方  No4

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必要は発明の母
田村:その後、起業しました。ご自身は生来の起業家だと思われますか?それとも今までのキャリアの中で自然とそういうなった?

矢野:昔から、周囲の友達に「莉恵は独立しそう」「フリースタイルな働き方を作り出しそう」などと言われてきました。でも、自分が起業家タイプだと思った事は一度もありません。両親も会社員ですし、育った環境にベンチャー企業を立ち上げた人はほとんどいませんでした。だから、自分が会社を興すなんて想像した事もなかったです。 ただ、ハーバード留学中、卒業後の様々なオプションを考える中で、自分が目標としている生き方や結果を出すために、いちばんてっとり早いのが起業だと感じました。

自分のビジョンを基にビジネスの意思決定をする。多くの失敗を通じて、他の人の数倍のスピードで成長しながら、最高の仲間たちと、新しい事業を造り出す――こうしたいと思うようになりました。毎日一緒に働くチームも、住む国も自分で決めたい。毎日スーツを着たくなかったのもあります(笑)。

田村:さて、今、取り組んでいる事業の面白さと可能性につい教えてください。また、あまたある場所の中で、ニューヨークを選んだのはなぜですか?日本でやろうとは思わなかったのですか?

矢野:今夏、ファッションアイテムの二次流通(中古品)ネット市場、マテリアルワールドのベータサイトを立ち上げます。共同創業者のJie(ジエ)は、ハーバード・ビジネススクールのクラスメートであり、親友でもあります。昨夏から月に数回会い、幾つものビジネスアイデアを共有してきました。 そんな中、共通の問題を抱えている事に気付きました。私たちは二人ともかなりのショッピング好きです。新しい洋服を購入する事は簡単なのに、着なくなった洋服を処分する容易な方法がなかったのです。安いアイテムならば寄付したり、リサイクルしたりします。

でも、着なくなったラグジュアリーブランドやコンテンポラリーブランドの洋服やアクセサリーは、まだ価値があります。そう簡単には手放せません。しかし、ニューヨークのアパートは東京と同様にとても狭く、クローゼットスペースが限られています。新しい洋服を買うために、クローゼットの中をどんどんリフレッシュする必要があるのです。既存の選択肢を全て試してみました。例えば、近所のリサイクルショップにアイテムを持っていく。数百ドルで買った洋服も10〜30ドルにしかならず、全く元が取れません。

一方、マンハッタンに多いConsignment Store(中古ファッションの委託販売店)では、持参したアイテムを全て受け取ってもらえませんでした。仮に引き取ってもらっても、アイテムが売れた場合は売値の5割以上を手数料として取られてしまいます。 eBayの場合、アイテムのアップロードにも、配送手続きにも、非常に時間と手間がかかります。また、eBayはモノを安く売り買いする場所であって、ファッション好きな人が集う場ではありません。

自分のスタイルを評価してくれる人に売りたい
そこで、ファッション好きが集うオンラインプラットフォームを創り、互いのクローゼットの中にあるものを直接売り買いできる楽しいソーシャルコマース機能を提供したい、と考えて、マテリアルワールドの立ち上げ準備を始めました。私はビザの関係で5月頭までコーチで勤めていましたが、Jieには一足早くJ.Crewを退職してフルコミットしてもらいました。そして、早速4月と5月に、1週間限定パイロットサイトを二つ立ち上げました。このサイト運営から得られる学びや、初期ユーザーからのフィードバックをふまえて、いよいよ8月30日にβサイトを立ち上げます。

 

 

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